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【210】 きつねをおがんだ人たち

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(写真は諏訪湖の御神おみわたり)

村に、おいなりさまの小さいやしろがありました。まずこの話からしなければなりません。

昔、一人の武士が、殿とのさまのお使つかいで、旅へ出かけました。思いのほか日数がかかり、用がすんで、帰途きとにつきましたが、いいつけられた日までに、もどれそうもありませんでした。そのうち、あいにく雪がふりだしました。北国の冬の天気ほど、あてにならぬものはありません。たちまち雪はつもって、道をふさぎました。

ある日のばんがた、ようやく武士は湖水こすいのあるところまで、たどりつきました。おりから雪はやんで、西の山のはしが、明るく黄色にそまり、明日は天気がよさそうです。そして、行く手の村々は、白々とした雪の広野のなかに、黒くかすんで見えました。

「ああ、この湖水がわたれるなら、早く帰れるだろうに。」

と、湖水の方ほうをながめて、ため息をつきました。

このとき、一ぴきのけものがどこからかびだして、雪をけたてて、湖水を横ぎり、たちまち姿を消してしまいました。

「や、いまのは、たしかにきつねであった。きつねが通ると、水はこおって、人もわたれるという。神さまがあわれんで、助けてくださるというおげであろうか。」

と、武士は思い、その夜はここでかしました。

翌朝見みると、はたして湖水のおもては、鏡のごとく光って、かたく張りつめたこおりは、武士をやすやすと、むこうの岸まで、渡らせてくれたのでした。

この、いなりのやしろは、武士が、お礼に建てたものだといいつたえられています。

はなしはべつに、ある日、町の病院で、まずしげなふうをした母親と少年の二人が、待合室のかたすみで、ちぢこまって、泣いていました。ちょうど、こちらには、こざっぱりとしたようすのおやが、すわっていましたが、子供はまだ小さく、母のほうはどことなくなさけぶかそうに見えました。すると、彼女は立ちあがって、

「どうなさったのでございますか。」

と、少年にづいて、たずねました。あわれな少年の母親は、

「この子が、このあいだから、手が痛いといいますので、今日きて見てもらいますと、もうておくれになっているので、すぐに片方の腕を切りとってしまわなければ、命がないとおっしゃいます。どうしたらいいものか、迷っているのです。」

と、答えました。

そのとき、子供の母は、持ち合わせの金を紙につつんで、おみまいのつもりで、なにかにつかってやってくれとやったのでありますが、子供も心をうたれて、気の毒な少年の顔をじっと見まもっていました。

その子供が、中学へ上がるころのこと、道を歩いていると、荷車を引く、強そうな若者と出あいました。ふと顔をあわせると、いつか病院で、腕を切らなければ死ぬといわれた少年でした。若者もおどろいて、頭を下げ、

「いつぞやは、ありがとうございました。その、おいなりさまにがんをかけますと、うみが出まして、いまではこうしてはたらけるようになりました。」

と、いいました。

これを聞きくと、やはり神はあるのだと、深く感ぜずにいられませんでした。これまで書いたのは、これから、私がこの少年の将来をかたるに必要な、まえがきのようなものであります。

やがて、少年は学校を出て成人すると、にぎやかな都会にあこがれ、そこで暮すようになりました。またぜいたくがしたくなり、千金を夢みてかぶなどへ手を出すようになると、さすがに自分の力ばかりを信じられず、ひたすら神さまをたよろうとするようになりました。

かれは、毎朝きたときと、夜ねむるときには、かならずふるさとのほうをむいて、頭を下げ、あのさびしい森の中のやしろをおがんだのです。

そして、風の吹く日は、ゴウゴウと木の枝がさわぐありさまを想像し、雨のふる日は、おまいりするものもない、ぬれた社殿の屋根を目にえがきながら、どうぞ私を助けたまえとおがみました。

それにもかかわらず、国が戦争にやぶれてからは、景気の変動もはげしく、とうとう彼はどんぞこへつきおとされました。それでも、まだ神のごやくがあるものと信じて、村の知人をたよって帰りましたが、もはやだれもふりむくものはなかったので、その日を食うに困り、ほしれのしたある、おいなりさまのけいだいで自殺をはかりました。

こうこうか、なわをかけたえだれて、彼は地上へ落ち頭を打つとそのまま気が遠くなってしまいました。

しばらくすると、だれかきてそばに立ったように感じました。うすかりで見ると、白いひげのはえた、からだつきのがっちりした老人でした。かすかながらも、記憶があります。そうだ、ようすいいけつくって、村をかんばつからすくった、ごろみんなの尊敬している人でした。

老人はいいました。

「おまえは、子供のぶん、なかなか正直な子供だったが、どうして、こんな人間になったのか、それにはわけがあろう。」

こう聞かれると、彼は、おいなりさまの、いろいろのごやくいて、自分もしあわせにしてもらいたいためだといいました。そして、こうなったのは、まだ信仰が足りないからでしょうと、答えました。

「ばか者め、たとえ神さまがいらしても、ひとのためを思わぬよくふかや、ひきょう者に、なんでかたをなさるものか。とりや、けものを見るがいい。いつもいきいきとして、自由にたのしんでいる。神さまからもらった、手と足にしかたよらないからだ。

気力のない人間だけが手と足を持ちながら、はたらくのを忘れて、はじ知らずにも、頭ばかり下げて、おめぐみにあずかろうとする。こんなこじきは、鳥や、けものの世界にいない。」

老人に、くわでこづかれたと思って彼は、気がつき、目がさめました。考えると、この老人は、とっくの前に、あのへいった人でした。

『きつねをおがんだ人たち』(小川未明)

この自殺を試みた彼=若者=手を切られそうになった少年(1)なのか、彼=手を切られそうになった少年を見ていた子供(2)なのかが、私には分からない。

「少年」という呼称が一人の人物を指す一貫性があるなら1だが、他人が神頼みで救われたのを見て真似したけどダメだった(2)、と考える方が教訓的ではあるし、そう思いたいのだが確信がない。若者=働いている、中学へ上がる子供=学校を出て成人する、と考えればやはり2か?

誰か答えを教えて欲しい。

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