【233】 春宵戲語
(写真は川越祭りの狐の舞)
*
ある日わたしは、大和の人に日向雨が降ると、狐の嫁入りといふかときいた。この娘は高市郡の八木の方で生れて、奈良市にも住み、河内にも吉野にも親類があつた。さういひますいひますと懷しい郷土を思ひだして、にこにこしながらいつた。

萬葉集のなかに、たぶんたつた一ツであらうと思ふ狐の歌が、これもずつと前から好きなので、
さしなべに 湯沸かせ子ども 櫟津の
檜橋より來む 狐に浴むさむ
といふのを覺えてゐる。これは、お酒をのんでゐるときに狐が鳴いたので、そこにある器具や土地の名や、狐をよみこんで一首つくれと、お客がいふので主人の即興詩だといふことだ。
が、わたしはそれよりも、子供たち、早くその注鍋で湯を沸かせろ、狐が檜橋の方からくるぞ、あいつにぶつかけてやらう、と、急に狐狩を思ひたつ、昔の人の、一ぱい機嫌が見えるやうに自分解釋もそへて、なんとなくなつかしく好きなのだつた。
櫟津は大和の添上郡だといふから、櫟津の檜橋とつづけると、神田の龍閑橋とか芝の土橋とかいふふうに方向まで示してゐるので、その土地に委しくもないくせに、大和生れの娘の顏を見て、にやついたのだ。

英名 Japanese Yew
葛の葉の信田の森の狐に似てゐる話が「靈異記」の中にあるが、その狐も人間の子を生んでゐる。
欽明天皇の御代、三野の國大野郡の人が野中で遭つた女を家に連れて來て、一男を生ませたが、その家の犬が十二月十五日に仔を生んだところが、犬の仔が家室さんにむかつて吠えてしかたがない。
家室さんは犬の仔を殺してくれと家長さんにいふのだが、殺すも不愍と隱しておいた。ところが、三月になつて、年米を舂く時に、稻舂き女たちに間食をやらうと家室さんが碓屋にはいつてゆくと、彼の犬の仔が吠えておつかけた。
犬に追はれた家室さんは忽ち野干となつて籬の上に乘つてゐる。紅染めの裳を着て、裳裾をひいて遊んでゐる妻の容姿は、狐といへど窈窕としてゐたので、夫は去りゆく妻を戀ひしたつて、

二人の中には子がある。だから、吾を忘れないで、毎日來て寢よ、毎晩寢に來いよ。
と叫んだのだ。
來て寢よは、來つ寢よなので、この夫どののことばによつて岐都禰といふとある。そこで、この野干の生んだ子を岐都禰といふ名にし、姓を狐の直とした。其の子が大變な力持で、走ることの疾さは鳥の飛ぶごとしとある。そして三野國の狐の直らが根本はこれなりとあるが、これは諸書にも引かれてゐるであらうからかなり知られてゐるかもしれない。ただ面白いのは、この後日談があることだ。

それはこの、力者の狐直の四世の孫にあたる、大力女の、力捔べの話で、しかも、この狐の子孫の方が、一方の、まじりなし人間種の力持ち女に負けた話なのである。
わたしが子供のころ、イツチヤイツチヤ、イツチヤナ、とか唱へながら角力をした、女力者の見世ものがあつたが、どうして一三八〇年位も前の、この二女力士のすさまじさに競べやうもない。なにしろ、負けた方のが百人力といふのだから話は大きい。上野動物園のお花さんいどころではない。
聖武天皇の御代に、三野の國片縣の郡、少川の市に住んでゐた、百人力女が、前の犬に追はれた岐都禰の末裔だが、おのが力をたのんで、往還の商人の物品を盜む。そのことをきいて憤慨したのが、尾張の國愛知郡、片輪の里の一女流力者
――ちよつとここではさんでおくのは、前の狐女末裔は大女、この正義の女史は小女です。この小女力者、大女力者を試すのに、蛤五十斛を捕つて、船に載せてゆき、少川の市に泊つた。よし來たとばかりに奪りにいつたのが大女、昔から女でも總身に智惠がまはらなかつたと見えて、小女女史が豫備に熊の葛練の鞭を二十段も隱し持つのを知らなかつた。
狐氏の大女は蛤を盜つて賣らしてしまつてから、何處から來たといつた。蛤主不答。四度目にはじめて答へたが、來しかたを不知とやつたので、狐氏の大女が、不禮者とばかり蛤小女を打つた。一つぶたせて二の手を待つて、待つてゐましたとばかりその手を捉へ、熊葛鞭でピシリとやつた。
鞭に肉が附いてきたといふその勢ひで、もひとつ、もひとつ、もひとつ、十段の鞭、打つに隨つてみな肉着くといふのだから、狐氏の大女も音をあげて、服也、犯也、惶也、とあやまつてしまつた。
蛤小女その時昂然として、自今此市に強て住まば、終に打殺さん也と威したところ、狐氏大女も殺されては堪らぬと逃げたので、彼市の人總て皆悦んだといふ。
『春宵戲語』(長谷川時雨)
*
「靈異記」については、「【221】 岐都禰と野干」に原文を載せてあるので一読されたし。
ところで「上野動物園のお花さんいどころではない。」が何を意味するのかが分からない。「かわいそうなぞう」のこと? 知っている人がいたら教えて欲しい。なお『春宵戲語』の発表は昭和11年である。
