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【246】 或る選挙風景と坂口安吾

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(写真は囲碁)

私の住む温泉市の騒ぎには驚いたね。県会議員の候補者が二人で争ってるだけなのだが、二人ともにトラックに拡声器をつけて、絶叫しつつ走りまわる。せまい市のことだから、どちらかの声が必ずきこえている。

自動車のほかに歩いて廻るオッサン部隊、オバサン部隊、娘部隊、アンチャン部隊がある。しかし十人かたまってもメガホンなどというものは無にちかい。それほど拡声器はすさまじい。鉄砲と原子バクダンぐらいの違いだね。

この新兵器の出現が今度の選挙の兵器革命というものだ。この新兵器で演説するのかと思うと、そうではなくて、演説は小さな劇場で百人ぐらい相手にやる。拡声器の方はもっぱら、私は△△であります、なにとぞ△△に御投票下さい、御投票下さい。競輪と同じ筈だね。

あの女アナウンサーを雇ったらしいな。自由党の候補の方は、炭坑節かなんか自分の選挙節をつくって唄っていたね。また彼は猫八や木下華声のような物マネ、虫の泣き声などをやっていたね。彼自身ではないらしい。

彼自身はトラックの最後尾に後方正面に向って椅子に腰かけて威儀を正しているのである。私は△△であります。そう拡声器で叫んでいるのは彼ではなくてアンチャンだ。彼は六十何歳かの近藤勇のような顔をして眉毛一ツ動かさない。

フランスの近代劇にこういうのがあるよ。マルセル・アシャールの「ワタクシと遊んでくれませんか」というのさ。カミシモをつけた親方が(フランスにもカミシモありと思いなさい)舞台の中央正面に五幕の間一言もしゃべらず毛筋一ツ動かさずに端坐しているね。最後にたった一言喋って幕さ。

六十何歳かの近藤勇氏が喋るのを、私はとうとう聞かなかった。しかし、物マネが現れるとはフランスのファルス精神というべし。私はたまたま仕事が忙しくてトラックを追っかけてフランス茶番を観賞していられなかったのは残念であった。

ちょうど山の上の「かにや」という旅館で、呉清源九段と高川格七段の碁の対局があった。この対局、呉氏の三目負に終ったが、御両氏、選挙の声に悩まされたらしいな。

山上というものは下界の声が集り、のみならず割れるように大きくまッしぐらに飛びこんでくるからね。両棋士は両候補の名と選挙節までちゃんと覚えてしまった。

私の住居は山の上ではなく、かつ殆ど町外れで、この市では最も静かなところだが、それでも殆ど休みなくこの絶叫をきいていた。その絶叫が絶えているのは、朝、昼、晩の食事の時間だけだということを自然に理解するほど執拗に悩まされたのである。そしてそれは時に深夜十一時半までつづいたね。それはダンスホールの許される時間という意味に解すべきかも知れん。

だが、奇妙なことに、日中の一定の食事時間はピタリと声がやみ、その静寂を破る例外が完璧に一人の声すらもないのだ。なんという時間的なサムライであろうか。要するにこのサムライたちは食事の時間というものを如何に大切に重大にしているかということを私はキモに銘じたのである。

私はトラックの通過を見るたびに、規則的な十あまりの胃袋がそこにひしめいているのを確実に見た。それらはまさしく胃袋であったが、最後尾にイスに腰かけてジッと後方正面を正眼に見つめている六十何歳かの武芸者然たる存在はいかなる臓モツであるか。脳であるか。ノオ! 心臓であるか。否、否。それは臓モツではない。

そして規則的な胃袋に食物を供するララ的な象徴でもないらしい。こういうのもフランスの近代小説にあったね。ジャン・コクトオの「ポトマック」というのさ。

タコのような口をもった怪物で、人間に吸いついて臓モツも骨もみんな食べてしまう。たべすぎてゲロをはく。しかし日本の彼はゲロを吐かないかも知れない。胃袋の健康さだけはサムライ風らしいや。

私もついに投票に行ったね。私が投票にでかけるなどとは、私自身考えてもいなかった。すくなくとも三四日前までは。私も結局、絶え間なき騒音に屈服したらしい。

しかし、私は、一人の男を、かの六十何歳かの武芸者然たる存在を、どうしても当選させたくないというヤケクソな気持に襲われ、そのヤケな思いをさらにヤケ的に満足させるためにシガない一票を用いたようだ。

彼と争っていた人物は民主党の候補者だった。私は民主党という政党が共産党の次にキライである。否、彼らが再軍備を主張しはじめてから、共産党と同じぐらいキライであった。しかし、この際はもはや政党の問題ではなかったのである。

かのトラックの最後尾に腰かけてジッと正眼に見つめている存在は、自由党の候補で、この町のボスであった。私はボスというものがキライだね。金力とボスの力に物云わせて票をかきあつめようというだけで、政策や識見は殆どないようだ。

もっとも田舎の小ボスぐらいに目くじらたてる必要もなかろうから、私は元々投票には行かないつもりにしていたのさ。

私がムラムラと投票に行く気持になったのは、まったく妙な理由さ。拡声器の声はずいぶん遠方の演説までコクメイにきこえる。投票の二三日前になって、ふと妙な演説がきこえた。

民主党の候補がそこで演説して立ち去ってまもなく、どこからか彼のトラックが同じ場所に現れて、ただ今この場所で民主党の誰それが私を中傷致しましたが……と云って、今演説して立ち去ったばかりの敵の効果をコクメイに叩きつぶしているのである。

それは時と場合によっては、極めて然るべき、又、効果的な作戦であるかも知れん。しかし、この選挙の場合、彼にそういうことができるのは彼がボスであり、あらゆる区域に手先の住宅があって、それをすぐ彼の本部へ電話するような組織網が完備しているせいだろう。

智能的な作戦勝というよりも、この際はボスならではの作戦だね。猫が捕えた鼠をもてあそんでいるような残酷な暴力を感じたのさ。すぐ後から後からと、まいた効果をコクメイにつぶして廻られては、ボスならぬ組織なき者が哀れである。

(中略)

しかし、私のすむ町で、ボスが相当の差で落選したのは、うれしかったね。まだ祝杯はあげていないが、これを書き終ったら、祝杯をあげよう。ちょッとした正理がたまたま行われた喜びによってさ。

私は、しかし、この町の選挙の結果、面白いことをきいた。この町の左翼のある者は共産党に投票しなかったそうだね。入れても当選の見込みがないからだ。共産党候補の得票は三五〇票ぐらいしかなかった。

そして左翼の方々はボスに投票したのだそうだね。その理由は、このボスは無能であるからだまし易いせいだそうだ。

当選した候補は識見もあり相当鋭い観察力もあり、なかなか騙されない人物だから、左翼は彼がでるのを煙たがったせいだという。甚だ有りうることだね。左翼右翼ともに、こういう術策は常套手段である。たがいに超党派的に弱点をかばい合う性格は強い。

ヤミ屋は自由党に多いが、共産党にも多い。ヤミをテキハツするか、しないか、というようなことで超党派的なナレアイやヤミ取引きがお得意の性格は両者に共通のものである。

ところで、今度の選挙のように、トラックに拡声器をのせて、他のあらゆる音を征服して八方に駈けめぐる戦術が常套的になると、金のない候補はいよいよ存在すらも分らないような哀れな結果になるだろうね。人間の感官はそういうものさ。

路傍でメガホンなんぞでいくら熱弁をふるっても、その音声の大小に於て原子バクダンと鉄砲ぐらいの差がある以上、感官的に候補者を失格しているようなものである。

ボスを倒すには、ボスの用いる新兵器を同様にある点までは使いこなす資力がなければ、全然感官的に失格するだけだろう。反ボス的な傾向はむしろ女性の中に生来的にあるもののようだ。

ところが彼女らは特に感官的であって、感官に訴える差があまり甚しいと、そのものは全然黙殺される傾向にあり易いからである。

たとえば今度の私の住む町の場合にしても、とにかくボスと同じ兵器を用いてやや匹敵する程度に感官に訴えたから生来不注意で不熱心な浮動票をあつめることができたのだろう。反ボス的なものの最大な味方たる可能性は浮動票であるが、浮動票は感官的に前述のような欠点がある。

日本の選挙は当分ボス退治が第一だと私は思うね。ボスと共産党は思想に対して暴力的であり、利益に対して策略的で超理論超党派的である点で、同じような存在だ。政党などということよりも、先ずボス退治である。ボスさえ居なければ、何党が政治をやっても、とにかく、そう狂いのある筈はない。

しかし、私の住む町のように、金力権力あらゆる点で格段に優勢だったボスが物の見事に落選するというようなことは、にわかに全国的に望めることではなかろう。私の町の場合は浮動票組が多いことと、また候補者の人柄もよかったのだろう。要するに人かね。

当り前のことのようだが、政治家になりたがる人間に限ってロクな人間がいないから困るね。その時はボスでなくとも、当選するといつかボス的になるのが普通だ。

金でつくられる政治家が、利権と金を交換するのも自然であろうし、また選挙を食い物にする例の胃袋階級に選挙運動の実力が握られている限りは、ボス的な人間以外はなかなか当選の見込みがないね。

あたかも原子兵器のような拡声器はやめた方がよいかと思うが、しかし、お祭り騒ぎ的なところがないと浮動票組の関心がうかないから、お祭り騒ぎを禁止すると、浮動票組は棄権して、ボスの組織だけが却かえって物を云うかも知れん。表向き理想選挙的であるためにボスが出易いような傾向もあるだろう。

スイセン候補が何よりだと云っても、スイセンする人や団体によりけり。誰でも一ぱし自分の見識を誇り公平を誇りたがるが、自ら任ずる如くに人が認めてくれないね。

投票するあらゆる人間そのものにも、それぞれの欠点はある。誰しも真に公平な者はあり得ない。そういう根本的な欠点は、どこまで行ってもあるのだから、公平に選良が選びだされることはまず殆どないだろうさ。

しかし、要するに、私の町の当選者を決したような浮動票的存在が多くなり、候補者にも常に然るべき人材が出そろえば、徐々にボスどもの影をひそめしめることは確かであろう。

私は伊東市の選挙の結果をわが住む町の好ましき出来事としてお報らせできるのを嬉しく思うのである。

『或る選挙風景』(坂口安吾)

この「お報らせ」の発表は、75年前の昭和26年。日本の選挙運動は、この75年で何か進化したのか?

安吾の住んだ伊東市は、「卒業証書チラ見せ市長」で一躍有名に。国会議員のみならず、地方議員も首長も頭のオカシナ奴ばかり。

解散総選挙が近い。

安吾の言う「ボス退治」をしようではないか。

しかし自分の選挙区に、支持に資する政党、候補者がいないことも多いだろう。そんなときは、「有害よりも無名無能がマシ。もし無名無能が当選後に悪さをしたら次は落とす。」と割り切って、支持政党ではない候補者に投票することも、政治を変える力になるのだ。

当選させたい候補がいなけりゃ、落選させたい候補の対抗馬に入れる。

投票には必ず行こう。

次のブログも坂口安吾の政治論。

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