【247】 堕落論と咢堂小論
(写真は阿賀野川)
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明治維新の大業が藩閥とか政党閥によつて歪められ、あげくの果が軍閥の暴挙となつて今日の事態をまねくに至つた。
閥とか党派根性といふものは日本人の弱点であつて、それによつて日本の生長発展が妨げられてきたことは痛感せられてゐるに拘らず、敗戦後、政治に目覚めよといへば再び党閥に拡る形勢を生じ、正しい批判と内容の目を見失はうとしてゐる。
民衆は先づ「生活」すべきものであつて、決して党派人たることを要しない。政友会だから民政党の嫁は貰はないといふのは田舎の実話であるよりも笑話であるが、今日でも同じことで、近頃の激化した党派性では、あいつは共産党だから嫁にやらぬとか、あいつはブルジョアの娘だからどうだとか、結局再び同じ笑ひ話が笑はれもせず堂々と横行しはじめる形勢にある。
人間は先づ生活すべきものであり、生活は常により高い理想に向つて進むべきものであつて、固定してはならないものだ。
民衆が政治をもとめ、よりよき政党を欲するのは、自らの生活を高めるための手段としてで、政治家は民衆の公僕だとはその意味だ。
先づ民衆の生活があり、その生活によつて政党が批判選択せらるべきで、民衆が党派人となることは不要であり、むしろ有害だ。
政治は実際の福利に即して漸進すべきものであり、完璧とか絶対とか永遠性といふものはない。
政党はその時の状態や条件に応じて民衆の批判を受け、民衆はその都度事態に適合した政策をもつ政党を選ぶのが良い。
明日の政治に社会主義が最適ならばその党を選ぶべく、然しその党に固定し、又、束縛せられる必要は毫もない。
ところが日本人は党閥に走りがちで、自ら固定し、束縛せられて、生長とか発展とか、正当な変化や広い視野を好んで限定してしまふ。
その結果は再び議会政治の正しい運用を忘れ、党派による独裁政治に走ることとなつて、国運の不幸を招く結果となり、民衆の生活を不当に歪める事態を生ずるに相違ない。
何故にかかる愚が幾度も繰返さるるかと云へば、先づ「人間は生活すべし」といふ根本の生活意識、態度が確立せられてをらぬからだ。
政党などに走る前に、先づ生活し、自我といふものを見つめ、自分が何を欲し、何を愛し、何を悲しむか、よく見究めることが必要だ。
政治は生活の道具にすぎないので、古い道具はいつでも取変へ、より良い道具を選ぶことが必要なだけである。
政治の主体はただ自らの生活あるのみ。自らの生活は宇宙の主体でもあつて、自我が確立せられてのみ国家も亦確立せられるだらう。
日本に必要なのは制度や政治の確立よりも先づ自我の確立だ。本当に愛したり欲したり悲んだり憎んだり、自分自身の偽らぬ本心を見つめ、魂の慟哭によく耳を傾けることが必要なだけだ。自我の確立のないところに、真実の道義や義務や責任の自覚は生れない。
近頃の流行によれば学徒や復員軍人が「魂のよりどころを見失つて」政党運動に走つてゐるといふのであるが、之は筋違ひで、政治は人間生活の表皮的な面を改造し得るけれども、真実の生活は人間そのものに拠る以外に法はない。自我の確立、人間の確立なくして、生活の確立は有り得ない。
『咢堂小論』(坂口安吾)

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この『咢堂小論』は、昭和22年発表の『堕落論』の一編として掲載された。
安吾は本質を突いている。なお安吾の父は衆議院議員の大物だ。
そもそもである。政党の主張や政策は、朝令暮改が当たり前のように変化し、当然国際情勢も日々変化している。それなのに、ジミン、コウメイ、キョウサン支持であると公然と宣い、生涯同じ政党への投票を続ける人は、頭がオカシイのではないか?と考えている。
レンゴウもオカシイ。勤務先によって支持政党が決まり、それにそのまま従って投票する人も情弱そのものである。
どの政党、候補者を支持するかは、その都度、個人で判断するのがまともな人間である。浮動票とか無党派層とか、この呼び方がオカシイのであって、「まとも票」「まとも層」と呼ぶべきである。
アメリカなぞは、居住地(州)や職業で、共和党、民主党どちらの支持か、ほとんど自動的に決まっている。これは本来の政党政治の目的を見失っているどころか、国家、国民を分断へと誘導する悪魔のシステムだと考える。
1994年、“政治改革”の名の下、小選挙区比例代表並立制が導入されたが、これは「二大政党制があるべき姿」という前提に則ったものであり、「二大政党制は失敗だった」と判断するなら、この“政治改革”も失敗である。
私は個人的には、4〜5くらいのほぼ同規模の政党が、政策論争で鎬を削って、選挙のたびに連立の枠組が変わるくらいでちょうど良いと思っている。ただし GOD は違憲なので解体で。
参院選の比例代表による、「妖怪カシパンヒックリカヘシ」の安定的な地位にも、どうにも納得がいかない。三流タレントの政界再就職が出来なくする選挙制度に変えてほしいものである。
