【239】 支那人研究
(写真はシナチク)
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例へば、と来ると、やはり政治の面に触れたくなる。が、こゝではそれが目的ではないから、例を卑近な所にとれば、支那人は非常に社交的でお世辞がうまい。だから日本人はついそれに引つかゝる。相手の好意を過重評価して、屡々裏切られる事があるといふ話を大分聞く。
この見方は甚だ双方を理解した見方だと思ふが、さて、さういふことを知つてゐたからとて、どうにもならぬのではないかといふ気がする。
なぜなら、もともと、それがお世辞だといふことが判らないから起る問題なので、お世辞かお世辞でないかを区別する能力に欠けてゐる者にとつては、結局、相手の真意がわからぬことになり、間違ひはそこからでなく、どこからでも生じるわけだから、如何ともなし難い。
お世辞をお世辞らしく紋切型で云ひなれ、聞きなれてゐる民族は、お世辞らしからぬ妙味など食ひ分ける舌はもたないのが普通である。この知識は正に実地の応用は不可能とみてよろしい。
また、かういふ話もよく聞く。支那人は恩恵といふものを感じない。何をしてやつても、受けた利益だけは有難く思ふが、それを与へた人間に心から謝するといふ気持がない。これだけの恩を施してあるからと日本人は秘かにその報酬を期待するが、それがとんだ間違ひの因である。
こゝで支那人はうつかりすると忘恩の徒とみなされる。豈計らんや、彼等は決して忘恩の徒ではないと或る人は弁護する。たゞ、日本人のやうに、相手の顔さへみれば礼を云ひ、事毎に恩を着てゐる風を見せぬだけである。
その代り、いつかは必ず、その恩義に応へる道を心得てゐる。彼等は、それを黙つて、それとなくやるのである。恩返しなどと吹聴は決してせぬ。かう聞いてみると、なかなかもつて話せるといふ気がするではないか。
ところが、これも、日本人はそんなことを知つてゐるだけでは、どうにもならぬほど性急なのである。殊に、恩を施すことに少しばかり無神経すぎるのが現代日本人であつて、相手の迷惑をさへ顧みず、恩の押売りをやりかねない風習は、われわれお互に段々気のついてゐることである。
報酬などあてにせぬと大きく出てみても、それは、大きくみせたいからであつて、横目で相手の感謝ぶりを計算してゐることに変りはない。総てが総てとは云はぬが、これが末流日本人の素朴な姿なのである。
日本人は支那人に対してばかりではない、何処人に対しても、要するに、単純すぎるのである。単純であることは、一面、得がたい美点でもあるが、それは相手との関係次第で、世の中が複雑になつて来ると、その手では押して行けない部分ができるのである。
『支那人研究』(岸田國士)
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