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【259】 坂口安吾のインテリの感傷

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(写真はクレムリン)

今度の選挙で共産党が三十五人になったのは、民自党の二百六十何名同様予想を絶した現象であったが、しゃはんの理由は、だいたい新聞の報ずるようなものであったろう。

私としては、むしろ、急速に共産党を第一党にふくれあがらせ、政権をとらせてみたい。そうすれば、共産党のバカラシサ、非現実性は、すぐバクロする。政治が、民衆のものとなり、現実のものとなるのは、それからだろうと私は思う。

日本を安定させるには、共産政府をつくらせ、その非現実性をハッキリさせることが先決条件だと私は思う。

尚、こんどの選挙で、民自党が主食の三合六勺配給ということを云った。こういうことを云って選挙に勝って、約束が果せなかったら、内閣失格、オヤメになるべし、である。

こういう公約に対して、国民はいさゝかもカシャクすべきではない。公約を果すか果さないかゞ政党の能力なのだから。

(中略)

日本の共産党はクビキリ反対を唱えるばかりで、積極的な建設案を持っていない。農業問題にしても、狭小な国土から収穫を増加するための肥料の研究とか、寒冷地や積雪に対する農産物の科学的対策研究とか、そういう進歩的な具体的な建設作業に資金をつぎこんでいるということも聴いたことがない。

共産党の本家本元のロシヤがそうで、あれだけ広大な国土を持ちながら、広大な寒冷地帯をほッたらかして、やたらと温暖地へ侵略南下作業を行っているばかりである。

原子バクダンの研究製造などに何百億つぎこむよりも、科学陣を総動員して、寒冷地帯を農耕化する研究に没頭した方が、はるかに進歩的であり、平和的であると思われるが、こういう一番大切なことが、共産主義国家に於ては、常に二の次、三の次、殆ど問題ともされておらぬのである。どこに進歩性があるのであるか。

もし歴史というものを読むならば、焼け野となった敗戦国日本というものが、稀有なほど快速な復興途上にあることが分る筈のものである。焼け野原の敗戦国、この惨たる現実から発足している難作業に、最大の妨害をなしているものは、共産党の保守反動性である。

彼らは現実を知ろうとせず、メクラ滅法、盲目的な公式主義によって、徒らに、クビキリ反対、ストライキをやらかすのみ。

なぜ建設に協力しないのか。クビキリ反対という保守反動的方法の代りに、整理人員を就労せしむべき建設的方法について、何らの策も施す能力がないではないか。

現実の日本に於て、最も保守反動的なものは、共産党であり、保守党とよばれているものが、むしろ進歩的政党であることを知る必要があろうと思う。現実に即して進歩改良をもとめる精神は、常に進歩的なものである。

遊休邸宅の開放などゝいう消極的な方法をカンバンにするようでは、とても大いなる進歩改良は見込みがない。

耐震耐火、一切電化された文化的大アパートを日本全地に建てる、ぐらいの構想がなくて、どうなるものか。日本人を一様の貧乏人にひき落す代りに、高度の文化人に、文化的生活者に高めるための方策が大切なのである。

私はだいたい、政党に従属する政党人は、すでに自由人ではないから、公人としても失格しているものだと考えている。党の政策に対しても、自主的に判断して行動すべきもの、その自由のない政党は落第で、したがって、日本の政党は、共産党は第一に、然し、すべてが落第だと思っている。日本の政党政治家は、自由人ではないのである。

政治家の資格審査は、いかなる政策に賛成したか、反対したか、によって定まるべきものだろう。

そして、その結果によって、批判さるべきものであろう。政治家といえども、政党人よりも、自由人を基本とすべきであり、まして、一般人は、政党などというものに所属するのは、愚の骨頂だというのが私の考えである。

政治家が、政党ではなしに、政策を対象にして、一々行動を明確にするようになれば、国民の生活が自然に安定して行くに相違ない。

現在の保守政党は、まだしも、かゝる自由人的性格に変貌して行く見込みがあるのであるが、共産党はコチコチの党閥であり、党人が自由人でありうる見込みすらもないのであるから、この政党に進歩性を望むことは本来まちがっているのである。

共産党が今日文化人の一部を吸収しつゝあるのは、清貧、というようなセンチメンタリズムが主要なものゝように思われる。

私は、本来、清貧というものは好きではない。徹頭徹尾、貧に対する敵対工作をもって、人生の主流と信じているものである。シベリヤの寒冷地にも、花さかしめ、ミノリ豊かならしめることを念願としたい主義なのだ。

私は、老練なる文化人たる人々に、新世界人デーヴィス青年ほどの着想がないのが不思議なのである。つまり、不勉強であり、今まで、てんでラチもないムダな文化研究にいそしんでいたのだろうと疑わずにいられないのである。

センチメンタリズムは、よそうじゃないか。純情好きというものは、とてつもなく人間の世界を歪めてしまうものである。そして、常に、現実的であり、実質的なものになろうじゃないか。

自由万歳。

私が叫びたいのは、それだけだ。

『インテリの感傷』(坂口安吾)

この随筆は、昭和24年(1949年)3月の文藝春秋にて発表された。ロシアや日本共産党は、この77年で何か進化したのか? 何も変わらぬではないか? 民族性や独裁思想は、たかが100年程度では変わらない。というか、変わることなく滅ぶのみ。だから歴史に学ぶ必要があるのだ。

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