【228】 淫売婦といなりずし
(写真はいなりずし)
*
(十二月×日)
この間の淫売婦が、いなりずしを頬ばりながらはいって来た。
「おとついはひどいめに会った。お前さんもだらしがないよ。」
「お父つぁん怒ってた?」
電気の下で見ると、もう四十位の女で、乾いたような崩れた姿をしていた。
「私の方じゃあんなのを梟と云って、色んな男を夜中に連れ込んで来るんだが、あんまり有りがたい客じゃあないんですよ。お父つぁん、油をしぼられてプンプン怒ってますよ。」
人の好さそうな老けたお上さんは、茶を淹れながらあの女の事を悪く云っていた。
夜、お上さんにうどんを御馳走になる。明日はここの小父さんのくちぞえで青バスの車庫へ試験をうけに行ってみよう。暮れぢかくになって、落ちつき場所のない事は淋しいけれど、クヨクヨしていても仕様のない世の中だ。
すべては自分の元気な体をたのみに働きましょう。電線が風ですさまじく鳴っている。木賃宿の片隅に、この小さな私は、汚れた蒲団に寝ころんで、壁に張ってある大黒さんの顔を見ながら、雲の上の御殿のような空想をしている。
(国へかえってお嫁にでも行こうかしら……)
*
(七月×日)
「はいるといいものを見せてやるぜ。生れて初めてだわって、嬉しがる奴を見せてやるがどうだい。」
羽二重のハッピをゾロリと着ながした一人の合百師が、私の手からペンを取って向うへ行ってしまった。
「アラ! そんないいもの……じゃアはいるわ、お金そんなにないから少しね。」
「ああ少しだよ、皆でおいなりさん買うんだってさ……」
「じゃ見せて!」
相棒はペンを捨てて皆のそばへ行くと、大きいカンセイがおきる。
「さあ! 林さんいらっしゃいよ。」
私も声につられて店の間へ行って見る。ハッピの裏いっぱいに描いた真赤な絵に私は両手で顔をおおうた。
「意気地がねえなア……」
皆は逃げ出している私の後から笑っていた。
*
(五月×日)
地虫が鳴いている。
ぷちぷち音をたてて青葉が萌えてゆくような気がする。夜中だ。
おいなりさんを売りに来る。声が近くになり、また遠くなってゆく。狐寿司はうまいだろうな。甘辛い油揚げの中にいっぱいつまった飯、じとじと汁がたれそうなかんぴょうの帯。
階下ではばくちが始っている。
*
(十一月×日)
百舌鳥が、けたたましく濠の向うで鳴いている。四谷見附から、溜池へ出て、溜池の裏の竜光堂という薬屋の前を通って、豊川いなり前の電車道へ出る。
電車道の線路を越して、小間物屋の横から六本木の通りへ出て、池田屋干物店前で池田さんに声をかける。
池田さんがぱアと晴れやかな顔で出て来る。今日は珍らしく夜会巻きで仲々の美人なり。店さきには、たらこや、鮭、棒だらなぞの美味しそうなものがぎっしり並んでいる。
二人は足袋屋の横町を曲って、酒井子爵邸の古色蒼然とした門の前を歩く。
今日は新富座で寿美蔵の芝居がある由なり。いかにも江戸ッ子らしい池田さんの芝居ばなし。今日は寿美蔵が手拭を撤く日だから、どうしても、早い目に社を出て行くのだと大いに張りきっている。
赤坂の聯隊が近いのだということで、会社へ着くころには、いつも喇叭が鳴りひびいている。
小学新報社というのが私たちの勤めさき。旧館の二階の日本間に、机を八ツ程あわせて、私たちは毎日せっせと帯封書きだ。今日は、鹿児島と熊本を貰う。まだ時間が早いので、窓ぎわで池田さんと、宮本さんと三人で雑談。
日給をなんとかして月給制度にして貰いたいと話しあう。日給八十銭ではなんとしてもやってゆけないのだ。
『新版 放浪記』(林芙美子)
*
