人間は無意識に「地球の中心」だと思っている〜エゴという名の、静かな思い込み
先日、あるテレビ番組を見ていました。
都会育ちの女の子が、田舎の家にホームステイをする企画です。
その家では、夕食のために魚を捌く場面がありました。
女の子は涙を流しながら、「かわいそうで捌けない」と言いました。
その気持ちは、よくわかります。
命が失われる瞬間を目の前にすれば、誰だって心が動きます。
でも、少し想像力を働かせてみてください。
私たちが普段口にしている魚や肉は、いったいどこから来ているのでしょうか。
誰かが海で獲り、誰かが育て、誰かがその命を捌いてくれています。
その工程が「見えないところ」にあるだけで、実は毎日、同じことが起きているのです。
見える場所で涙を流し、見えない場所では気にせず食べる。
これは、その女の子だけの話ではありません。
私たち人間に、共通して備わっている心の仕組みなのです。
⚫︎「肉のパラドックス」という心の矛盾
心理学には、ミート・パラドックス(Meat Paradox)という言葉があります。
動物を愛し、傷つけたくないと感じる気持ちと、その動物を食べたいという欲求。
このふたつが同じ心の中に同居している状態のことです。
近年の研究では、人はこの矛盾による不快感、つまり認知的不協和を和らげるために、無意識のうちにいくつかの工夫をしていることがわかっています。
例えば、食べる動物のことを「知能が低い」「痛みを感じにくい」と、都合よく位置づけ直してしまう。
あるいは、皿の上の肉と、生きていた動物とを、頭の中で切り離してしまう。
これは道徳不活性化(モラル・ディスエンゲージメント)と呼ばれる心の働きで、自分の中の罪悪感を感じにくくするために、無意識が行っている調整なのです。
つまり、田舎で涙を流した女の子は「感じすぎた」のではなく、多くの人が普段、無意識に切り離している感覚に、たまたま直面してしまっただけなのかもしれません。
⚫︎脳と進化が生んだ「人間はえらい」という感覚
なぜ人は、自分たち以外の命を、当たり前のように利用できると感じるのでしょうか。
脳科学や進化心理学の視点で見ると、人間は生き延びるために、自分たちの集団を優先する仕組みを進化させてきました。
食べなければ生きられない。
そのために他の生き物の命を利用することは、生存にとって必要なことでした。
そしてその判断を心穏やかに行うために、脳は「人間は特別な存在だ」という前提を、当たり前のものとして組み込んでいったと考えられています。
これは人間中心主義と呼ばれる考え方につながります。
心理学者リチャード・ライダーは、人間という種であることを理由に他の生き物より優先されて当然だとする態度を種差別(スピーシズム)と名づけました。
人種差別や性差別と同じ構造が、人間と動物の間にもあるという指摘です。
私たちは、誰かに教えられたわけでもなく、「人間がこの星の頂点にいる」ということを、潜在意識のレベルで前提にしています。
それは悪意ではなく、生き延びるために備わった、とても古い脳の設定なのです。
⚫︎社会学が示す「エゴは個人ではなく構造の中にある」
社会学的に見ると、人間中心的な価値観は、個人の性格の問題ではなく、社会全体の仕組みの中に組み込まれています。
食肉は、パッケージに入り、切り身になった状態でスーパーに並びます。
命が失われる工程は、意図的に生活者の目から遠ざけられています。
これは効率化のためでもありますが、同時に、人が「かわいそう」と感じすぎないようにする、社会的な仕組みでもあります。
つまり私たちのエゴは、個人が悪いのではなく、「見なくて済むようにできている社会構造」の中で、自然と育てられているのです。
⚫︎目に見えない存在への態度にも、同じエゴが表れる
もうひとつ、身近な例を挙げてみます。
引っ越した先の家に、もし目に見えない存在がいると感じたら。
幽霊や、いわゆる霊的な気配のようなものです。
信じる、信じないは、人それぞれで構いません。
でも多くの人は、「出ていってほしい」「お祓いしてほしい」と感じるのではないでしょうか。
けれど、少し視点を変えてみると。
その存在が、自分たちより先にそこにいたのだとしたら。
本来、後から来たのは人間の方です。
魚や動物に対してと同じように、人間ではない存在に対して、私たちは無意識に「自分たちの都合」を優先しています。
これは特別なことではなく、人間という種に組み込まれた、ごく自然な心の傾向なのです。
⚫︎神道が伝えてきた「人間は自然の一部」という視点
興味深いことに、日本には古くから、人間を頂点に置かない世界観がありました。
神道です。
神道では、山、川、木、岩、風、そして目に見えない存在にも、それぞれに神が宿るとされます。
これは八百万の神と呼ばれる考え方です。
人間は自然を支配する存在ではなく、自然の中に生かされている、数ある存在のひとつにすぎないという感覚です。
食事の前に「いただきます」と手を合わせるのも、単なる礼儀作法ではありません。
命をいただいていることへの、感謝と畏れの表現です。
古来の日本人は、人間中心の視点だけでは見えないものを、暮らしの中に自然と取り入れていたのかもしれません。
⚫︎行動経済学が示す「見えないものは、軽んじられる」
行動経済学には、心理的距離という考え方があります。
人は、時間的にも空間的にも「距離が近いもの」には強く反応し、「距離が遠いもの」には反応が鈍くなる傾向があります。
目の前で捌かれる魚には涙を流すのに、見えない場所で捌かれた魚は気にせず食べる。
これは冷たさではなく、人間の意思決定の仕組みそのものです。
距離があるだけで、私たちの感じ方はこれほど変わってしまうのです。
裏を返せば、距離を近づけて想像するだけで、人は感謝や敬意を取り戻すことができるということでもあります。
⚫︎エネルギー的な視点〜すべてはつながっている
スピリチュアルな視点では、人間も、動物も、植物も、目に見えない存在も、すべては同じ大きなエネルギーの流れの中にあるとされます。
人間だけが特別に切り離された存在ではなく、大きな輪の中の、ひとつの命にすぎません。
エゴとは、その輪の中から自分だけを切り離して、「自分(人間)を中心に世界を見る」ときに生まれる感覚だとも言えます。
エゴそのものが悪いわけではありません。
エゴがあるからこそ、人間は生き延び、文明を築いてきました。
大切なのは、そのエゴに気づいているかどうかです。
⚫︎おわりに
人間は、地球上で意識せずとも頂点に立っていると、潜在意識のどこかで感じています。
それは、進化の過程で身についた、生き延びるための仕組みです。
だからこそ、人間中心にものを考えることは、ある意味でとても自然なことなのです。
でも、それに「気づく」ことはできます。
魚を捌く手の向こうに、生きていた命があったこと。
毎日の食事の裏に、誰かの労力と、失われた命があること。
見えない存在にも、そこにいる理由があるかもしれないこと。
エゴをなくす必要はありません。
ただ、時々立ち止まって、想像してみる。
それだけで、「いただきます」の一言が、少し違う重みを持って聞こえてくるはずです。
今日の食事の前に、一度だけ思い出してみてください。
この命は、誰かが、どこかで、あなたのためにつないでくれたものだということを。
