[映画]『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ (トム・ストパード監督/1990)』

データ
原題: Rosencrantz & Guildenstern Are Dead
監督: Tom Stoppard
製作年度: 1990
製作国: アメリカ=イギリス
アスペクト比: 1:1.85f
時間: 1h57
公開日: 1991/06/29
鑑賞日: 1991
配給: チャンネル・コミュニケイションズ
はじめに
去る11月29日に英国の戯曲家トム・ストパードが88歳で亡くなった。
映画好きからすると『未来世紀ブラジル (Brazil/1985)』の脚本でテリー・ギリアム、チャールス・マッケオンと共にアカデミー賞脚本賞にノミネート、『恋におちたシェイクスピア (Shakespeare in Love/1998)』でマーク・ノーマンと共に脚本賞を受賞した、"映画界のひと"というイメージが強い。
他にもバラードの小説を脚色した『太陽の帝国 (Empire of the Sun/1987)』やル・カレのスパイ小説を脚色した『ロシア・ハウス (The Russia House/1990)』など原作もののアダプテーションとしても知られている。
逆に本業の戯曲となると、私にはまったく未知の作家だった。
そのストパード舞台劇の代表作として知られ、自ら監督して映画化したのが『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』である。この作品がストパード最初で最後の監督作品となった。
最初の感想
まずは公開当時、友人たちに(無理やり)送りつけた映画感想集から転記。
シェイクスピアの「ハムレット」の好きな人ならニヤッとするタイトルだろう。このローゼンクランツとギルデンスターン、ハムレットの御学友でオフェーリアのおとーちゃんである宰相ポローニアスをクローディアスと間違えて殺してしまい、ほとぼりが冷めるまでイギリスに身を隠すことになったときに、クローディアスから手紙(ハムレットの首をはねよ、とのイギリス国王への委託)を託されてハムレットに同行するが、逆にハムレットの策略で訳もわからぬままに死刑になった、あの可哀相な、しかし2、3くらいしか台詞の無い脇役、これを主役に持ってくるのがトム・ストパードの捻くれた部分。
ストパードはふたりを「いつでも使い捨てにできるキャラクターで、その極端なまでの印象の無さが、逆に彼らの存在をドラマチックにしている」と評しているが、この存在感の無い二人のデコボココンビが出ずっぱりで画面を埋めている。2人がエルシノア城に向かう途中から始まるのだが、ここで旅芸人の一座に会う。後にクローディアスとガートルードの目前で「ゴンザーゴ殺し」を演じることになるこの劇団の座長がリチャード・ドレイファス。最後の最後まできっちりと決めてくれた。因に2人は芝居と違って絞首刑になってしまいました。
概要
※太字の部分はDVDの字幕を参照。一部表現を変えているものもあり。
デンマーク国王クローディアスに呼ばれエルシノア城に向う、ハムレットの学友のローゼンクランツ(ゲイリー・オールドマン)とギルデンスターン(ティム・ロス)。馬で険しい山道を進む途中、ローゼンクランツは道に落ちている銀貨を拾う。そしてコイントスを行い、何度も表を出す。怪訝な顔つきで眺めていたギルデンスターンも別のコインを投げるが何度やっても表が出る。ローゼンクランツは呑気にその事象を面白がるが、ギルデンスターンは"反自然非自然超自然の力の中に捕らえられている"と考える。
森の中で野宿をしている二人の前に旅芸人の一行が現れる。馬車に乗っていた座長(リチャード・ドレイファス)は二人を目にして"観客が見つかった"と喜び、急遽舞台を組み立て、芝居を披露すると言う。
ある者には芝居する場
他には客になる場
彼等は同じ硬貨の裏表
または大勢だから
二つの硬貨の同じ面だ
観客が役者と同じならば芝居に参加したいと言うギルデンスターン。ローゼンクランツは劇団のレパートリーを尋ねる。
いつもやる事を演る
ただしひっくり返して
舞台の外で起こる事を舞台上で演る
退場を別の場への登場と見れば一切を演っている
ローゼンクランツは銀貨を投げて、これで何を演じる?と座長に尋ねる。
流血は不可欠だ
皆、血まみれだ
そしてギルデンスターンはコインを投げ、ローゼンクランツが拾うと裏だった。
次の場面で二人はエルシノア城にいた。二人を召還した国王クローディアス(ドナルド・サンプター)に迎えられる。自信無げに二人の名前を呼ぶクローディアス。一方、王妃ガートルード(ジョアンナ・ミルズ)は二人の名前をしっかり間違える。クローディアスから先王の死以降、ひとが変わってしまったハムレットの様子を見て欲しいと頼まれる。二人は状況把握のために城内をうろうろする。
二人はハムレットに会った際にどんな話をするかリハーサルするが、その中で次第に自分たちの名前がどっちなのかもあやふやになっていく。ギルデンスターンは使者に呼ばれた朝のことを思いだす。
ギル: 問題はどっちも本来の名じゃなくても構わないということだ
事実は空気みたいで、生きていく上で盲点だ
馬上の男が未明に戸を叩き
名前を二つ呼んだ
呼ばれた俺たちはやってきた
ローゼン: うんざりだ
どっちかの名前に君が決めろ
ギル: 命令しに来たんじゃない
俺たちはまだ幸運な方だ
盲人が市場で自分の肖像画をあさるように
名前の上に埋もれている訳じゃない
ローゼン: これより僕の名は…
ギル: だが選択はダメだ
小さな決断が至る所に波紋を描く
そして王子ハムレット(イエイン・グレン)と再会。王子は親し気に接するがやはり二人の名を間違える。二人がクローディアスに呼ばれた理由も認識しているためにハムレットは二人を適当にあしらう。
旅芸人の一座が城に到着し、舞台の準備を始める。ハムレットは座長に「ゴンザーゴ殺し」を依頼する。二人はそのリハーサルに立ち会う。終わって座長は二人に語り掛ける。
座長: 修羅場だ! しめて八つの死体
ギル: 六つだ
座長: 八つだ
すると舞台にいた二人の役者が絞首刑のゼスチャをする。
ギル: 彼等は?
座長: 死んだ
ギルデンスターンは自身の運命があらかじめ決められていたのでは…と、思い始める。
ギル: 死について初めて知った瞬間はどうなった
あったはずだ 一瞬でも
子供の時に
命が永遠じゃないと初めて気が付き
大打撃を受け 記憶に刻み付けられる
しかし僕は覚えてない
気が付かなかった 人が死ぬという直感を
生まれつき持っている該当する言葉や
言葉自体を知る前から
血まみれで泣きながら生まれる時
羅針盤にはたくさんの方位があるが
進む方向は一つで
時が唯一の目盛りだと知ってる
リハーサル現場にハムレットとオフィーリア(ジョアンナ・ロス)が乱入する。そしてローゼンクランツとギルデンスターンが見守る中、ハムレットは"尼寺へいけ"とオフィーリアに言い放つ。
座長とギルデンスターンの会話は続く。
座長: すべての芸術には意図がある
物事自ら美的、道徳的、論理的結末に収まる
ギル: この場合は?
座長: 常に同じだ
我々が意図しているのは
死ぬべき運命の者は
死ぬ
ギル: 運命?
座長: 一般的に物事は行きつく所まで行ってる
可能な限り
悪化してる時には
ギル: 誰が決める?
座長: 決める? そう書かれている
我々は悲劇役者だ
ト書きに従い 選択はできぬ
悪玉は不幸な最期を
善玉は不運な最期を
それが「悲劇」だ
そして本番。「ゴンザーゴ殺し」の人形劇と聞いていた王クローディアスは狼狽える。ハムレットが先王の毒殺をストーリーに加えたためだった。ほどなく二人は王からハムレットとともにイングランドへ渡り国王に封書を渡すように命令を受ける。
クローディアスが先王である父を殺したことを確信したハムレットは母ガートルードと口論になる。それを二人はポローニアスと共に影から見守る。ハムレットはクローディアスと思い込みポローニアスを刺殺する。
二人はイングランド行きの船の船倉にいる。そして封書の中身を盗み見しどうすべきか悩んでしまう。ハムレットは二人に気づかれないように封書を入れ替える。そして海賊の襲撃、王子の逃走。
甲板で二人きりで取り残されたところにイングランド国王が現れる。国王は座長でもある。封書を渡し、その中身が二人の処刑であることを初めて知る。
突然、死が近づいてることに戸惑う二人。
ローゼン: 彼らは最初から恨みを
俺たちは大物だったのさ
ギル: こんなに命を狙われる俺たちはだれなんだ?
座長: ローゼンクランツとギルデンスターン、
それで十分だ
何も知らされず
挙句がこれで、結局説明なし
経験ではすべてが死で終わる
ギル: 経験では?
役者めが 「死」の話しだぞ 経験はないだろ
何千回も死に また前面に現れるが
死んだら起き上がらない
拍手もない
あるのは沈黙と古着だけ
それが死だ
ギルデンスターンは座長を刺し殺す。座長は甲板から船倉に落ちて、横たわる。
ギル: 俺たちの運命があるなら
彼のはあれだ
彼のにも説明は無用だ
横たわる座長の周りを座員が集まり拍手をする。
座長: よせ諸君
持ち上げるな 凡庸だ
(二人に)お分かりか
これこそ皆信じる
期待してる
あらゆる年齢と
場合に応じた死 !
そして「ハムレット」の名シーンが次々とさわりだけモンタージュされる。
オフィーリアの水死体
墓場で頭蓋骨を持つ王子
ポローニアスの息子、オフィーリアの兄であるレアティーズ(スヴェン・メドベセク)と剣闘試合をするハムレット
毒のついた刃に傷つくハムレット
同じく傷つくレアティーズ
誤って毒杯を飲み干すガートルード
策略を知ったハムレットに殺されるクローディアス
座長: 王や殿下に相応しい死
そして誰でも無い者に
甲板を首に縄がかかり吊られるのを待つ二人。いつの間にか旅芸人の一座と出逢った森に舞台になっている。
ローゼン: これまでか
悪いことはしていない
ギル: 覚えてない
もうたくさんだ
実をいうとホッとしてる
出だしのどこかで
断れる瞬間があったはずだ
だが見逃した
次回は大丈夫だ
座長: それまで !
すべてが終わったエルシノア城にやってきたイングランドからの使者(ジョン・バージェス)は最後に報告する。
ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ
ピンと張る縄。
森の中で舞台を片付け馬車で去っていく一座。冒頭、ローゼンクランツとギルデンスターンが馬で通った険しい岩山を去っていく一行を背景にエンドクレジット。
感想
たいそうな名前を持ちながら、その名前を間違えられるローゼンクランツとギルデンスターン。登場人物それぞれに明確なキャラクターを持たせている戯曲「ハムレット」において台詞は二言三言。ハムレットのイングランド行きに同行し、ハムレットの代わりにイングランドで処刑されるという、それだけの没個性な二人がこの映画では主演をはっている。この映画ではハムレットですら脇役である。
にも関わらず二人が辿りつく結末は「ハムレット」で書かれたものであることは変わらない。二人は死を逃れられない。二人は首に絞首用の縄をかけられたその瞬間までなぜ自分たちが吊るされるのか分からない。が、自らの運命を受け入れる。
そもそも冒頭のコイントスで何度も表になったことのは偶然の連続ではなく、必然だった。コインが表しか出ないのは脚本でそう描かれているためで、二人は脇役から主役となったが、あくまで物語上のキャラクターとして脚本の通りに演じているだけである。運命ではなく、必然なのだ。
ローゼンクランツは朴訥としたキャラクターである一方でギルデンスターンは思索的なキャラクターとなっている(ベケットの「ゴドーを待ちながら (En attendant Godot/1952)」のウラディミールとエストラゴンとの関連性が指摘されているらしい)。ギルデンスターンはコイントスで表しか出ないことに違和感を感じるが、ローゼンクランツはそのまま受け入れる。
その点でローゼンクランツは役者、ギルデンスターンは観客の視点にたっていると言える。そしてどちらも脚本に記載されたエンディングを変えることはできない。二人は主役となるが、エルシノア城での出来事(「ハムレット」で主に演じられること)を、観客と同じように覗き見する。二人は主役ではあるが予め書かれたシナリオ、そして役割から外れることは許されない。
ストパードはローゼンクランツとギルデンスターンに意志を持たせるが、どんなに疑問を持とうと、論理的に解釈しようと、意味が解らないまま処刑されてしまう。なぜならストーリーがそうなっているから…という、この無慈悲さ。観客もまた主役の二人に感情移入できない。「ハムレット」を知っていれば二人は無意味に殺されることという結末を知っているから、ただの傍観者になってしまう。観客は別の言い方をすれば作者との共犯者でもある。
ストパードは「ハムレット」というか、演劇(映画)と観客と作家の関係性についてを描こうとしたのかもしれない。
映画は台詞過多でテンポも悪いが、舞台劇を映画の技術(ジャンプカットやカットバック、クローズアップ等)で再構築した、そんな作品のように感じられた。非常に刺激的な作品だったと思う。
舞台
この映画が印象的だったので、1994年の夏に博品館劇場で上演された芝居を観にいった。演出は鵜山仁、舞台監督は鈴木政憲、訳は松岡和子。主なキャストは以下の通り。
ローゼンクランツ … 古田新太
ギルデンスターン … 生瀬勝久
座長 … 納谷悟朗
ハムレット … 松重豊
オフィーリア … 郡山冬果
クローディアス … 蔵一彦
ガートルード … 人村朱美
ポローニアス … 田村勝彦
当初座長役は内田朝雄だったが稽古初日にアキレス腱を切る事故で降板し、納谷悟朗が代役として出演した。ローゼンクランツとギルデンスターンは関西弁で漫才のようなやりとり(もちろんローゼンがボケでギルが突っ込み)で、若干深刻な雰囲気だった映画とはくらべものにならない喜劇となった。たぶん、ストパードの期待する反応だったのではなかろうか。


ナショナル・シアター・ライブ
仕事が忙しかったせいか2018年にNTLiveで上映されたことに気づかず。ローゼンクランツをハリポタのラドクリフが演じたとか。再映しないかな…。
またNTLiveではないが、カンバーバッチもローゼンクランツを演じていた。
NTliveの2018年は他にも「エンジェルス・イン・アメリカ」やニコラス・ハイトナー演出の「ジュリアス・シーザー」なども上映されていて、つくづく、惜しいことしたな…と思った。

