父から子へ、託された未来:死んだらおしまいなの?ジークアクスを振り返る⑩:のりかな突発250927
2025年9月22日、4時45分!
さて、前回の記事↓の続きです♪
:
令和のララアはシャアを庇えない:利他はどこに?ジークアクスを振り返る⑨:のりかな突発250920|のりかな

「1979年の初代ガンダムと、その二次創作としての、2025年の
ジークアクスとで、何が根本的に違い、なぜ違ってしまったのか?」
この問いの前半部、「何が根本的に違うのか?」については、
前回の記事で結論を出せましたね♪
ジクワ版というか、令和ナイズされた宇宙世紀の住民たちは、
「我が身大事」率が昭和版の宇宙世紀の住民より高いのでしょう。
:
昭和の初期にはまだ、戦前的な利他主義の空気が残っていたけど、
鶴巻監督の世代、ましてや令和の僕らになると、戦後的な利己主義が
当たり前になっている。
だから初代の特徴である特攻シーンも、ララアの献身も描けなくなった。
(利他は戦争賛美になってしまうそうですね!)
反体制の怒りがあっても、反体制の組織に属して他人の規律に縛られる
のは嫌だし、裏切りが横行するジクワ世界では上官も部下も信用できない
ので、縛られない自由な個人テロに走り、容易に鎮圧されてしまう。
だからバスク・オムが組織した反体制組織は、Zガンダムのエゥーゴの
ようには組織化・巨大化できなかったのでしょう。
ティターンズやジオンといった組織に対抗するには、こちらも組織を
作らなければ弱すぎますが、人間不信と他人のわずらわしさを嫌い、
個人行動に執着し、敗北する。
「バラバラのままでは負け続ける!妥協して組織に服さないと!」
という現実を、ジクワ世界の、令和的な人々は直視できないようですね…。

「新機動戦記ガンダムW」のGチームも、個人主義者が多く、中盤までスタンドアローンの
テロを繰り返しますが、OZという敵対組織には負け続けました…。
「新組織ホワイトファングに対抗するために、こちらもバラバラで戦ってちゃダメだ!」
とGチームをまとめ上げたカトル君は、初代におけるリュウ・ホセイに相当しますね☆
「オレは一人でやらせてもらう!」「正義は俺が決める!」的なメンバーを
まとめるのは大変だったでしょう(笑)。
連邦がジオンに負けたのも、「国力30倍」という数の優位がジクワ世界ではさほど機能しなかったためではないか…?
皆が皆、「我が身大事」で、献身、協力よりも味方を利用することばかり
考えていては、上官が部下を信頼できず、部下も上官を信頼できなく
なります。
軍隊のみならず、企業内でも上司部下が疑い合い、下剋上が日常化し、
協力よりも競争が激化し、政治家が市民を、市民が政治家を信用しない。
誰も信用できないから、自分の智略しか、頼るものが無くなる。
ジクワでは特攻が無い、と前回言いましたが、逆にジクワにしか無い
新概念があります。
MAV戦術、ですね♪
シャアとシャリアのコンビが開発した、モビルスーツ2機で連携する
戦術のことです。

しかしなぜ、2人なのでしょうか?
確かに2人で協力し合った方が、一人どうしよりも複雑な戦術を組める
でしょう。
しかしそれなら、2人より3人、4人、10人、100人で連携した方が
もっと有利なはずです。
初代ガンダム後半のソロモン戦では、連邦もジオンも艦隊同士の総力戦を
繰り広げました。

互いに艦隊とモビルスーツ、突撃艇などを組み合わせた
数千人(数万人?)規模の複雑な連携です。
音楽に例えるならオーケストラですね!
楽団には統率する指揮者と、指揮者への忠誠心が必要です。
ジクワ世界ではなぜ、2人が最適解になったのでしょうか?
(そういえば、ジクワでは巨大組織どうしの艦隊戦が一度も描かれなかった
ような…?)
ジクワ世界では、数が多いことの有利がさほど働かないのでは…??

実際、黒い三連星が方向性の違いで一人脱退したり、
マチュ、ニャアン、シュウジの三人組が喧嘩別れしたりと、
ジクワ世界では「3人以上」の壁が存在するようです。
みんな一人が好きすぎるのかな…?
「我が身大事」率が、令和のジクワ世界ではより高いことを考えると、
人数が増えるほど、自分勝手な人どうしの連携は崩れやすくなるのかも
しれない…と僕は穿った見方をしてしまいます…。
人数が増えるほど、「命令に従わされる人」が増えるし、
「命令=ハラスメント」が令和の新常識ですからね(笑)。
「何でアイツが俺に命令してんだよ!」とか、「オレが今考えた作戦の方が
絶対上手くいくんだよ!」みたいないざこざが生じるので結局、あまり
多人数の連携は機能せず、多くて2人、が最適解になったのでは?
というか、たった2人ですら、シャアとシャリアのようにMAVが突然解消
されるのですから、おちおち連携なんて取れませんね(笑)。
結局、鶴巻監督が初代には無い新要素としてMAV戦術を登場させたのも、
ジクワ世界の人間関係のある限界を暗に皮肉ったもののように、
僕には感じられました。

初代ではエルラン中将の裏切りにアムロ君が激怒します。
「あなたみたいな人がいるから!」
しかしジクワ世界ではむしろ、エルランやシャアみたいな人しかいません。
キシリアの護衛がキシリアを裏切っても、「やっぱりスパイだったか」と
驚かないし、ニャアンもミゲル君の裏切り行為に諦めの視線を向けます。
素直に驚くエグザベ君はむしろ、ジクワ世界では希少種です(笑)
「あなたにも事情があるとおっしゃりたいんでしょ⁉
けど違いますよ⁉あなたみたいな方のおかげで何十人となく無駄死にを
していった人がいるんです!わかりますか⁉
あなたみたいな人のおかげで…!!」
エルランに詰め寄るアムロ君はかなり感情的です。
(僕の事情を誰も分かってくれない!と拗ねていたアムロ自身の後悔、
それでリュウやマチルダを死なせてしまったという自責の念もあるの
でしょう…。)
そしてこのエピソードは次の、スパイ少女ミハルの裏切りと改心の
エピソードにつながります。
「私が情報を流したばっかりに、カイさん達が…」

ミハル「いつまでも、こんな世の中じゃないんだろ?カイ…。」
裏切りが横行する世の中ではいけないという怒り、圧は、
令和の視聴者にはハラスメントになるんでしょうか?
ジクワでは、「どうせみんな裏切ってる、また裏切りだ…」
とニャアンは怒らない。諦めてますし、チルいですね!
「1979年の初代ガンダムと、その二次創作としての、2025年の
ジークアクスとで、何が根本的に違うのか?」
初代でもジクワでも人間関係はギスギスしていますが、それじゃダメだ
と、物語が進むにつれてホワイトベースのメンバーは後悔し、妥協し、
連携するようになります。
1995年の「ガンダムW」でもそうでしたね。
(そうでなければ生き残れず、バッドエンドになっていたでしょう。)
ところが2025年のジクワではもうそういうモーメントは発生せず、ますます
暗躍と相互不信が深まり、裏切り合い、潰し合いが横行する不穏な結末に
向かっていきました。
他者に対するリスペクトが、自己愛を越えることがジクワ世界ではついに
無かった、と僕は思います。
「それじゃダメだ」と思っても、どうせどうにもならないと諦めてるし、
状況を変えようと働きかけて痛い奴とか正義マンとか周囲に思われて
村八分になったら損だし…。ウザがられるのは絶対、嫌!
だから皆が口ごもり、悪党の一人勝ちになる、というか、なった。
他人を大事にできず、結局自分が一番大事、「死んだらおしまいだ」…。

めったに喋らないタンギ操舵士が、最終話で金言っぽいことを
つぶやきます。
…まあそりゃそうですね。そりゃそうですが…。
:
「おしまいじゃないよ!むしろそこから始まるのさ!」

子供B「でも、死んだら全部おしまいじゃん。」
子供A「おしまいじゃないよ!むしろそこから始まるって、賢治は言いたいんだ!」
子供B「全然わかんねえよ…。」
子供A「愛の話なんだよ。なんでわかんないかな~。」
以上、幾原邦彦監督「輪るピングドラム」の冒頭より。
タンギ操舵士の発言が、ジクワにおけるキラーワードだとしたら、まさに
戦後的な「我が身優先」の価値観を象徴していますね!
「死んだらおしまいだ」と呟いて、戦争を生き延びた人々は彼岸への思いを
振り切り、バラック小屋を建て始めたわけです。
戦後復興のために。
自分の代わりに死んでいった者たちに対する申し訳なさを振り切るために、
前を向くために必要な言葉。
でもその言葉で忘れ切ってしまうのなら、過去と縁を切ってしまうのなら、前向きを通り越して忘恩に至るのでは?と思います。
そこでバランスをとるために対照的な言葉、ツッコミに当たる言葉が
無いか、ふと思い出したのがピンドラの冒頭のこの台詞でした。
「おしまいじゃないよ!むしろそこから始まるって、
賢治は言いたいんだ!」
賢治は宮沢賢治のことですね。銀河鉄道の夜です。
何が始まるのでしょうか?
:
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。
だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、
それを保って永遠の命に至る。」(ヨハネ12:24,25)
:
聖書のこの一節も、「死んだらおしまいだ」の対極にありますね。
僕はドストエフスキーの小説の中で知りました。いい言葉ですよね!
:
(いい言葉だと思う反面、戦後教育を受けた僕は、高い壺買わされそう、
とも思ってしまう…。エセ教祖が信者ビジネスに使いそう、というか…。)
:
「死んだらおしまいだ」と悲観するニヒリストは、善悪よりも死なない
ための損得を優先するようになり、損得を牛耳る権力者に支配されて
しまうでしょう。
「これは正しい行いとは言えないが、とりあえず今は死なないことが大事
だし、食ってかなきゃいけないから、善悪を考えるのは後回しにしよう。
死んだら全ておしまいだし…。」
そうして正しさに目を背け、愛を忘れ、誰も何も、始めることができない。
「輪るピングドラム」は愛の話でした。

苹果は愛による死を自ら選択した者へのご褒美でもあるんだよ!
初代ガンダムにせよ、ピンドラにせよ、ときどきこういった、時代錯誤な
利他主義を描くアニメがぽつぽつ現れることで、利己主義に染まった
戦後のアニメ業界に水を差してきました。
:

ジクワを見た後は、輪るピングドラムか、本を読む人なら、
「銀河鉄道の夜」を読むのがおススメです♪
初代ガンダムを観ればいいのですが、全43話と長いですからね(笑)。
ジクワに無い成分が、それで摂取できると思います。
(それをヒューマニズムと呼びます。)
宮沢賢治 銀河鉄道の夜
:
「あれは何の火だろう。あんな赤く光る火は何を燃やせば
できるんだろう。」ジョバンニが云いました。
「蝎の火だな。」カムパネルラが又地図と首っ引きして
答えました。
「あら、蝎の火のことならあたし知ってるわ。」
「蝎の火ってなんだい。」ジョバンニがききました。
「蝎がやけて死んだのよ。その火がいまでも燃えてるってあたし何べんも
お父さんから聴いたわ。」
「蝎って、虫だろう。」
「ええ、蝎は虫よ。だけどいい虫だわ。」
「蝎いい虫じゃないよ。僕博物館でアルコールにつけてあるの見た。
尾にこんなかぎがあってそれで螫されると死ぬって先生が云ったよ。」
「そうよ。だけどいい虫だわ、お父さん斯う云ったのよ。
むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がいて小さな虫やなんか殺してたべて
生きていたんですって。するとある日いたちに見附かって食べられそうに
なったんですって。さそりは一生けん命遁げて遁げたけどとうとういたちに
押さえられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に
落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりは溺れはじめた
のよ。そのときさそりは斯う云ってお祈りしたというの、
ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてそ
の私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。
どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったろ
う。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい。って云ったというの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さん仰ったわ。ほんとうにあの火それだわ。」
:
とはいえ最新アニメ、最新ガンダムであるジクワは、賢治の童話の対極に
ある、利己主義に転向したガンダム、なのでしょうか?
「死んだらおしまいだ」というタンギ操舵士の独白に「我が意を得たり!」「よくぞ言った!」と喝采を送り、シャアやシャリアのチート的活躍に
胸を躍らせた一部のジクワ視聴者を、最後の最後でハッピーエンド風の
バッドエンドで裏切る手のひら返し。
愛による死を選択「しなかった」私たちの、未来の姿。
「お飾りの女帝を通じた独裁を自ら求める衆愚」という結末、風刺を以て、
勧悪懲善の末路を描くことで、いわば背理法的に、鶴巻監督はジクワを
勧善懲悪アニメに引き戻したと、僕は考えます。

その末路とは、悪が勝利したことに気付きすらせず、ハッピーエンドと寿ぐ衆愚の姿でしたね。
:

最近の漫画だと、【推しの子】も背理法で始まる勧善懲悪でしたね!
「嘘は武器だ」と勧悪懲善に開き直るふりをしてファンを獲得しつつ、
「ああ、やっぱり嘘吐きはこういう結末になるよね…。」とアイに罪を自覚させる
一巻の結末は、物語全体の結末も暗示していました。
騙し合い、利己主義が当たり前の芸能界で、患者「天童寺さりな」(=ルビー)という
推しに命を捧げた医師ゴロー(=アクア)の献身と自己犠牲…。
その最終回はネットで炎上しましたが、ファンはアクアやルビーがチート的に勝ち切る
明るくて甘々のハーレム的結末を期待していたのでしょうか⁉
復讐に手を染めてきたアクアがその罪を償い、ルビーが心に十字架を背負う重くて
痛い結末は少なくとも、「欲しかったのと違った」ようですね…。
「アイドルや作家を欲望の受け皿としか見ないファンの罪」を扱った作品である以上、
「気にくわない結末に炎上で復讐するようなファン」が期待するような結末に
ならないのは当然ですし、僕はその炎上も含めて結末の一部という気がしました。
「推しはファンの人形じゃない」のだから。
:
それにしてもすみません、宗教臭い&説教臭い文章ですね(-_-;)。
…読者の皆さんの仰る通りです!(空耳?)
「死んだらおしまいだ」という現実主義で何がいけないのでしょうか?
サソリは死んだらおしまいなのだから、他の虫たちを騙して養分にするのは
当たり前だし、騙されてカモになってはいけないと、学校でも教わります。
「他人を信じるな!道端で声かけられたら防犯ブザーを鳴らせ!」と…。
皆が他人を騙して競争し合うと、世の中全体が豊かになって騙された人たち
も結局皆幸せになるから、騙すことに躊躇しなくてよいと、資本主義の
教科書に書いてあるぞ!その通りです。
だから人々は今日も、カモられる側でなくカモる側として一日中働き、
仕事の対価として養分を得ています。
「死んだらおしまい」ですから、死なせる側に回る。
私たちは、自分以外の生き物の命を奪って日々、生き続けています。
戦後生き残った人々は、特攻した若者や南方で玉砕した兵士、アジアの
人々の犠牲の上に、生き延びている。
それを「申し訳ない」とばかり思っていては前に進めないから、
「死んだらおしまいだ」と言って、「戦前」を断ち切る必要があった。
究極的には、特攻した若者たちは良い人すぎて、銃後の我々にカモられた
わけです。「騙されるのが悪い」と言い切ってしまえばせいせいします。
上手く徴兵逃れをしたりして生き延びたオレたちの方がクレバーで、賢くて
チートだった、だから戦前の利他主義は間違っていた、利他を説く賢治に
騙された奴らは愚かだったのだ、戦後は利己主義で行こう!
むしろみんなが利己主義で行った方が経済も発展するらしいし。
:
生き延びた戦後の人々は、自分たちを正当化するためには、蠍の火となった
戦死者たちを愚者というか、「軍部に騙された可哀そうな方々」と貶める
しかなかったのかもしれない。自分たちはちゃんと騙されず、クレバーに
徴兵逃れとかしたからむしろ偉いんだ、と。
(それが本音だったのか、そう思わないと生きていけなかったのか…。)
その言葉をベタに受け取り、「死んだら、それでおしまいだ。」という
利己主義が、戦後生まれの新しい価値観となりました。
(ここで戦後と言っているのは、ガンダムの一年戦争のことですよ!)
個人の命よりも大事な使命がある、と説く思想や宗教や賢治の童話は、
きっとそうやって馬鹿をカモにして洗脳してムジャヒディン戦士に
仕立てたり、怪しい壺を買わせるための口実なんだ。
何か正しいことを言ってそうな人や本があれば、条件反射的にすぐ疑い、
そいつの正体、「化けの皮」を剥いでやりたい、という衝動が生まれる。
週刊誌やワイドショーやツイッターが、「偉い人」に対するスキャンダルを
販売し始めました。すると飛ぶように売れた。
ヒューマニズムに代わって、スキャンダリズムが戦後、幅を利かせる
ようになりました。
:
敵や一見、悪党に見える人々もまた、その本質は善である、と考える
ヒューマニズムは、読者や悪党の改心を期待します。
生きるために虫を食い殺して何が悪い、と開き直る蠍もまた、その罪を
悔い、夜空に輝く蠍の火となりました。
スキャンダリズムはその逆ですね。
あなたより立派に見える人を知ってしまうと、あなたは不快になります。
そいつも自分と同じか、自分以下のクズだと証明したい。
彼らの「本性」を暴露したいと期待するとき、週刊誌やワイドショーが
スキャンダルを提供してくれます。
ほら、芸能人はみんな不倫しているし、政治家はみんな汚職している。
宗教家は詐欺師だし、「善人」なんて所詮、嘘が上手いだけの連中なんだ。
善人のフリをしないあけっぴろげな悪党の方がむしろ、偽善を働いてない
分、まっとうだとすらいえる。むしろ悪党にこそ憧れるべきだ。
ヒューマニズムが偽善と嗤われる、暴露主義、ホンネ主義の時代。
クランバトルという殺し合いを賭け事にするような偽善に満ちたイズマ
コロニーの中で、主人公マチュはこうして、悪党に憧れます。

若者が「いっそクラゲになりたい」と希望するような、腐った世の中…。
その反映として、ジクワ世界は勧悪懲善なのでしょう。
アムロ君が生き延びれない、善が死に絶えた世界。
若者が外の世界を恐れ、天岩戸に引き籠るのも当然ですね!
マチュの本名はアマテですが、日本神話のアマテラスから取ったのでしょう。
エンタメの力で若者を岩戸の外に引っ張り出したいという、
鶴巻監督の思いが感じられますね!
:
スキャンダリズムの手にかかれば、「蠍の火」の寓話は、こういうお話で
国民に奉仕の心を植え付けようとする宮沢賢治の国策童話、戦争協力童話、
ということになるでしょう。
:
それこそ戦前は、利他主義を過剰に煽り、お国のための奉仕や滅私を
断れないような空気が作られていました。
「君もカンパネルラや蠍の自己犠牲を見習いたまえ!」と。
「死んだらおしまいだ」からと心に誓い、そういう利他的な作品を遠ざけ、むしろ利己主義を勧める作品を心の支えにして、戦争協力を避け、
召集逃れをした人々もいたのではないか?
「銀河鉄道の夜」の名前を先ほど出しましたが、戦前の宮沢賢治の
利他を説く童話作品が、戦争指導に利用されなかった、とはいえない
気がします。
この一点で、タンギ操舵士と宮沢賢治は激しく対立するでしょう。
:

前回も言及しましたが、利他主義を失った令和のララアは
「他人を庇って死ぬ」ことができません。
何度リテイクしてもシャアを死なせてしまう。
「我が身大事」だからですね。
というわけで、後半部の問いの答えも見えてきました。
「1979年の初代ガンダムと、その二次創作としての、2025年の
ジークアクスとで、根本的な違いがなぜ生じたのか?」
:
それは戦後の、スキャンダリズムの蔓延によると僕は考えます。
「まっとうな主人公が、利己主義に走る悪党を改心させる」という物語
では今の時代、「まっとうな主人公」がウソ臭く感じられてしまう。
「まっとうな人間なんて偽善だ」という暴露主義の成果ですね。
「悪党以上に卑劣で計算高い主人公が、悪党同士の潰し合いに勝利する」
という物語の方が、令和の読者には親和性が高い。
そうした上で、結末は以下のように、3パターン考えられます。
①「悪党を制した悪党が、世界を平和にして自分も幸せになる。」
②「悪党を制した悪党が、ディストピアを建設する。」
③「悪党を制した悪党が、最後の最後で善人に敗北する。」
:
①は主人公がベタに勝ち切る展開で、まさに勧悪懲善アニメです。
最近の異世界チートアニメがそうなのかな?(知らんけど。)
②③は勧悪懲善という背理から入った勧善懲悪という結末ですね。
「あえて」の勧悪懲善というか…。
デスノートの前編の終わり方が②で、後編の終わり方が③ですね。

だからデスノートの最終回の後、「なんでキラが負けるんだよ!」
と炎上したわけです。推しの子最終回炎上も同じですね。
チートな悪党主人公を「あえて」主役にするというのは一種の騙しなので、
悪党にベタに共感していた読者はショックを受け、復讐するわけですね。
ジークアクスは②だと思いますが、話の続きがあれば、③になると
予想しています。
どういうことでしょうか。
:
ジクワの一年戦争パートの主役はシャアであり、戦後パートの主役は
マチュでした。
でも後半で活躍していたのはシャリア中佐でしたね。
この文章でもシャリアが実質主人公かのように、これまで書いて来ました。
「悪党を制するために悪に徹したシャリアが勝ち切る話」と考えれば、
ジクワは勧悪懲善アニメであり、その主役はシャリア、マチュはシャリア
に上手く利用された「よいこ」にすぎない、ということになります。
エンディミオンユニットを覚醒させられるマチュを、シャリアは
言いくるめて味方に引き入れたわけです。
しかしジクワの終わり方がハッピーエンド、つまり①、だというのが
ミスリードだとすれば、その終わり方はむしろ②でしょう。
シャリアが勝ってよかった、ではなく、シャリアが勝ってしまった、と
鶴巻監督は思っているはずです。
あくまで戦後パートの主役がマチュなら、鶴巻監督の本音は、いわば
「ジクワ第一部は勧悪懲善エンドだ」、つまり②ということになります。
デスノートの第一部ではキラが勝ち、その後キラ王国が建設されていく
不穏な時代に突入します。しかしそれは、第二部でキラがLの後継者に
敗北する、前フリにすぎません。
騙しと人間不信が横行するジクワ世界において、シャリアはシャアに
感化され、虚無を誤魔化すために抽象的な大義を立て、それを心の支えに
して生きてきました。
「ニュータイプシジョウシュギノジツゲン」という言葉に具体性は
ありません。自分は無意味じゃない、と思うためにむやみに巨大な
行動目標が必要だったのでしょう。
しかし嘘だらけの世界で、「マチュの曇りなき瞳」↓に出会ったシャリアは
感化されます。

マチュの「ジト目」は、「あなたのこと疑ってます」という
情報すら隠せない、嘘のつけない幼さを表わしていますね。
シャリアのポーカーフェイスと対照的です。
マチュを利用しながらも、自分を一切疑わないマチュにシャリアは
嘘を付けなくなってしまう。
嘘を本当にしなければならない。
マチュと接した一か月の間に、シャリアは少し変わったようです。
その後、現時点で可能な最前手をシャリアは指し続け、とりあえず、
シャアやキシリアが台頭するよりはマシな世界を作りました。
怨霊と化したララアにジクワ世界を壊されないために、シャアとララアを
無理やりくっつけもしましたが、「マチュに信頼されている」という
エネルギーが彼に本来以上の力を与えていたのだ、と僕は思います。
シャアもシャリアも似た者どうし、どちらも虚無の人でしたが、
マチュの信頼がシャリアに一層の力を与えたのでしょう。

マチュ「?だってヒゲマンは良い人なんでしょ?私知ってるよ?」
というやり取りがあったかどうかは分かりませんが、
父と娘ほどに年の離れたマチュに全幅の信頼を寄せられたシャリアは
本当に、大人の責任として世界を善くしなければならなくなったのでしょう。
悪党の改心…ヒューマニズムですねぇ…♪
シャリアの作った「諦めの帝国」は、自由のない世界です。
人々が自由という重荷を自ら捨て、女王に管理されることを望んだ世界。
それが最前手だとシャリアも思わないから、エンディミオンユニットを覚醒
させられる危険な存在であるはずの、マチュとニャアン、ジークアクスと
ジフレド(のコアファイター)をあえて逃がしたのでしょう。
自分の帝国を破壊しかねないような力を、なぜシャリアはあえて放置した
のでしょうか?

バカンスをしているシーンに切り替わります。
前回の記事でも書きましたが、「南の島で楽しくバカンス」ではなく
「地球に無数にある孤島でジオンに見つからないよう身を潜めている」のでしょう。
シャリアが勝ち切った結末にふいに疑問を感じたマチュは、9話で脱走したときのように、
ただし今回はニャアンも連れて、地球に再び大気圏突入したのだと、僕は考えています。
「迷惑でしょ…お尋ね者だし…。」と言うのはサイド6の件ではなく、ガンダムで
逃げ続けている件で指名手配されているのでしょう。

これまでのことと、これからのことについて少し考えたいマチュと、
それをあえて見逃がしているシャリア。
若者たちに考える時間を与えたいという、配慮ではないでしょうか?
「いや、行かせてあげましょう。お二人の好きなように。」
と二人の逃亡を見逃がしたのだとしたら、それはなぜか。
若い世代が自分の作った諦めの帝国を受け入れるのか、それともその力で
破壊するのか、未来の可能性を委ねたのだと思います。
だから③の可能性を、鶴巻監督もシャリア中佐も、残しているのでは
ないか。
マチュのために、自分なりの最前手を打ったけど、それを次の世代が更に
破壊して良くしてくれる可能性に、期待したのかもしれないですね♪

ラストシーンでは何を考えてるか分からない笑顔を見せます。
ポーカーフェイスというか、何かを心に秘めた表情。
嘘をつけるようになったマチュの成長を表現しているのだと思います。
マチュ=ハマーン説は端的に言ってデマでしたが、失敗を経て少し嘘を
吐けるようになったマチュがこの先、さらに失敗と経験を積んで
シャリアの帝国に対抗する組織を統べる女帝になるということも、
無くは無いような、…?
ジークアクスの「この先の物語」は、マチュがこの世界をもっと良くする
ために邁進する物語になるんではないか?
それともやっぱり諦めて、「クラゲになりたい」と引き籠るんでしょうか?
そんなことは無いと思いますし、ジクワの視聴者である僕らも、「もう
どうなってもいいや」と諦めずに、クラゲにならない道を選びたいもの
ですね!
「死んだらおしまいだ」とかでなく、「ほんとうのさいわい」のために。
:
というわけで、ジークアクスは諦めのチルアニメ、ではない、というのが
僕の結論です。
令和のアニオタにバズるために、そう見せかけてるだけ!
「みんなでクラゲになろうよ、もうどうなってもいいや」は擬装です!
ハッピーエンドはディストピアの偽装で、本当のハッピーエンドは
未来の世代、マチュや若い視聴者にこっそり託されました。
「自由のために傷つく者こそ、本当のニュータイプだから!」byマチュ
監督の期待(=ハラスメント?)に少しくらい応えてみてもいいのでは?
自由のために傷つきましょう!
…というわけで、以上です!
ご清聴ありがとうございました♪
:
今回も一万字超えてしまった…。これ以上削れないし。
長くても8月中には終わらせるつもりが、もう9月末です(笑)。
でもテーマ的には今回が実質、最終回ですね♪
残るテーマは(たぶん)あと2つ↓です。
⑪マチュ=ハマーン説とは何だったのか(&訂正とお詫び)
⑫シュウジ視点でのジクワ総括
というわけで、あと少しお付き合いください♪
ではまた次回♪
Thank you for reading!
