令和のララアはシャアを庇えない:利他はどこに?ジークアクスを振り返る⑨:のりかな突発250920
2025年9月14日、12時49分。
9月…!
もう9月か…。
思えば、僕がジクワの劇場先行版を観たのは、今年の1月のことでした。
それからすでに、8か月余りが過ぎようとしている…。
:
劇場先行版といえば、その冒頭は以下の有名な一文から始まりますね。
「人類が、増えすぎた人口を宇宙に移民させるようになって既に半世紀…」
:
このナレーションを劇場で聞いた時、僕は笑ってしまいました。
言わずと知れた、ファーストガンダムの冒頭ナレーション、
そのオマージュですね!
↓
【 ガンダム 】 冒頭のシーン - ニコニコ動画

冒頭シーンのリンクを貼り、その解説をnoteに投稿したのでした。
「初代ガンダム」全43話を、ジクワから入った初学者に解説しても長すぎて誰も読まない。
冒頭文は短いけど、そこに初代の本質が詰まっているから、初代の解説には最適だ!
当時の僕はそう考えたのでしょう。
のりかな毎日エッセイ250121:ジークアクス感想?初代ガンダム冒頭ナレーション解説①|のりかな
僕のジクワ感想の初投稿が、冒頭文の解説だったわけですが、この始まり方
からも分かるように、ジクワは初代ガンダムの二次創作と言えますね!
:
ジクワの制作陣も視聴者も、スキ派もキライ派もこの点に異を唱える人は
そうそういないと思います。
「ジクワは初代ガンダムの二次創作である。」
:
しかし二次創作…「似ている」ということは、「同じ」ということでは
ありません。

「白いガンダム」(左が原典、右が二次創作。)…確かに違う(笑)
「似せもの」はなぜか、本物とまったく同じにはしない(できない?)ものです。
ちなみにこの動画のように、youtube界では当時やたらと、2作品の
モビルスーツやキャラや戦闘シーンを横並びにした、新旧比較動画が乱立しましたね!
確かにジクワと初代ガンダムは似ている、というか、一方が他方に
意図的に「似せている」わけですが…。
:
むしろ似ているからこそ、その違いがかえって浮き彫りになる。
「同じ」であれば、「ジクワは最高だけど初代は駄作!」だとか、
「ジクワはクソ、やっぱり初代こそ至高!」といった正反対の感想が、
noteやツイッターに溢れたりしないでしょう。
彼らネット民は、「似ているけど違う!」と感じているからこそ、
一方を褒め、他方をけなしているわけです。
では何が違うのでしょうか?
「1979年の初代ガンダムと、その二次創作としての、2025年の
ジークアクスとで、何が違い、なぜ違ってしまったのか?」
…両作品の根本的な違いと、その原因は何か?
この問いに、迫りたいと思います!
:
さて。
:
僕は毎週、テレビ版の放映に合わせてリアルタイム感想を投稿してきました
が、今回その振り返りである、「ジークアクス感想を振り返る」シリーズの
裏テーマとして、上記の問いを総括しようと考えてきました。
:
「1979年の初代ガンダムと、その二次創作としての、2025年の
ジークアクスとで、何が違い、なぜ違ってしまったのか?」
:
そして、「ガンダムは勧善懲悪アニメである」ことを解説したうえで、
即席で「勧悪懲善」なる対義語を作り、「ジクワは勧悪懲善アニメである」
と仮説を立てたのでした。



その場の思いつきで作った言葉です(笑)
「善を勧めて悪を懲らしめる」の逆で、「悪を勧めて善を懲らしめる」物語という感じですね☆
二次創作では往々にして、よい子ちゃんの主人公にヘイトが集中し、悪役や
パッとしないキャラにスポットライトが当たりがちです。
鶴巻監督もジークアクスで、原典の主人公であるアムロを戦死させ、その
不在を暗示する存在として、アムロの恋人としてのクスコ・アルを
シイコ・スガイという偽名で登場させたのだと、僕は考えました。

「君は生き延びることができるか?」という初代ガンダムの問いに対し、
「アムロが生き延びてシャアが死ぬ結末はおかしい、リアルじゃない!」と
反発するガノタは結構いるのかもしれない…。
「そもそも少年兵が連邦の最新兵器に乗れるのはご都合主義だし、狡知な
シャアがなんでアムロなんかに負けるんだ!」
「本来ならシャアが勝ったはずだ!」
そして、アムロが冨野監督に贔屓されなければ、
「ジオンが地球連邦に勝っていたはずだ!」
…そういった一部のガノタの声を形にしたのが、ジークアクスなのでは
ないでしょうか?
「シャアをいじめる悪い人」であるアムロ君は抹殺されました。
悪党シャアの天敵を排除したことで、勧悪懲善に一歩近づきました。
でもこれで、ジオンが連邦に勝てるのでしょうか?

ガンダムを手に入れ、ホワイトベースを鹵獲し、サイコミュやビットも
実装し、シャアを殆ど異世界転生もののチート主人公のように改変しても、
それでも国力30倍の連邦に、ジオンは勝てません。
(これで勝てたらそれこそ、ご都合主義になってしまいますね!)
そもそもシャアは、ジオン公国の勝利を望んでいません。
ジオン公国の支配者であるザビ家は父の仇だし、ザビ家も連邦も、
オールドタイプの権力者による支配という点では大差ないと、劇中で
シャア本人が語っています。
そこで鶴巻監督は、思い通りに動いてくれないシャアのようなキャラを
自在に消し飛ばすことのできる能力を、眠り姫ララアに与えます。

ララアの望みは、その世界におけるララアとシャアが幸せに結ばれることです。
彼女は様々な可能世界を旅しながら、その世界に介入し、望みの実現を試み、
失敗したと分かるとその可能世界を滅ぼしてしまう、魔女になり果てていました。
(「ララア×シャア」カプ推しの同人誌を描こうとしてもお話が破綻してしまい、
何度も原稿用紙を破り捨てる女流漫画家みたいな感じでしょうか。
「そうだ、このアムロってキャラが邪魔なのね!消しちゃえ!」)
漫画家が気に入らないキャラを消しゴムで消せるように、ララアはジオンに
反逆しようとしたシャアをゼクノヴァで転移させてしまいました。
初代ガンダム以上にご都合主義的な、眠り姫ララアの作家的な魔力を以て、
ようやっとジオンは、連邦に勝利できたのです。

しかし最終的には、シャアはMAVであり同志だったシャリア中佐に裏切られます。
シャリアがシャアに勝てた理由も、「勧悪懲善の徹底」という理由で
説明できるでしょう。
善人をゼクノヴァしてしまえば、今度は悪党同士の潰し合いが始まります。
:
シャアもシャリアもキシリアも、ニュータイプ至上主義の実現、
という野望のために手段を選ばない、他者を省みない悪党という点では
一致しています。
しかしキシリアは、地球に巣食うオールドタイプをイオマヌグッソで虐殺
することも厭わない悪党でありながら、同志であり想い人でもあったシャア
に心を許し、いつでもシャアを排除できたのにタイミングを逸し、寝首を
掻かれてしまいました。
悪党は、悪党同士であっても、誰も信じてはならない。
そんなシャアもまた、たとえ野望のためであっても、最愛の妹に手をかける
ことはできませんでした。
野望のためには妹を殺さなければならない、という永遠のジレンマから、
ゼクノヴァで逃避したシャア。
非情にもその弱点を突いた、シャリア中佐。
「すでにザビ家亡き後のジオンには、アルテイシアさまを擁立する準備が
整っております!」

同志と信じたシャリアに裏切られ、妹を人質に取られ、もしこのまま野望
を優先するなら、愛する妹と骨肉の争いを繰り広げなければならなくなる。
ギレン・キシリア兄妹間の血みどろの争いを見てきたシャアは、戦意を喪失
しました。
悪党は、目的のためには手段を選ばず、誰も、味方すら信じてはならず、
騙しきり、最愛の兄妹や恋人、家族すら殺せなければなりません。
というか、誰かを愛することは弱点となるので致命的です。
シャアやキシリアは、悪党として未熟でした。
鶴巻監督の考える最高の悪党は、誰のことも愛さない天涯孤独の虚無の人、
シャリア中佐だった、ということでしょう。
シャリアがシャアらに勝利することで、ジークアクスは徹底した
「勧悪懲善アニメ」になったといえます。
こうして、原典である初代ガンダムとは似て非なるものになった、二次創作
としてのジークアクス。
勧善懲悪と勧悪懲善。
初代ガンダムの根底にはヒューマニズムがありますが、ジークアクスの
根底にあるのは、スキャンダリズムだと僕は考えます。
人の本質を善と信じるか、悪ととらえるか。
だから、ジクワ派と初代ガンダム派は相容れず、罵り合っているのだと
思います。根底の価値観が違う。
(予告的に言うと、1979年と2025年の間に起きた大きな変化とは、
ヒューマニズムの敗北と、スキャンダリズムの勝利ですね!)
とはいえこの説明は後にして、まずはシャアをも屈服させたジクワ版の
シャリア中佐とは鶴巻監督にとって何だったのか、考えてみましょう!
:

機動戦士Zガンダムの悪役、シロッコ氏とシャリア中佐は別人です。
共に「木星帰りの男」であり、「強力なニュータイプ」であるという
以外に、両者の間には本来、共通点はほぼ無いと言えます。
とはいえジクワ版のシャリアは戦後、シャアに影響されたという新設定で、
シロッコに似た大胆で尊大なキャラに変身します。
「女性を傀儡とした、ニュータイプ至上主義に基づく地球圏の支配」
という野心を抱くのも、シロッコ化の一例と言えます。
ゼータではシロッコは野心を実現できず敗北しますが、二次創作である
ジクワではシャリアが代わりに、野望を実現しました。
シャアを勝たせたり、ジオンを勝たせたりといった、ガノタの価値転倒の
欲望を、ゼータに対しては、木星帰りの男の勝利として、鶴巻監督は
果たしたのだと言えそうです。

原典では反地球連邦組織(エゥーゴ)によってシロッコの野心は阻止されますが…。

そして最終回、シャリアの野心は実現しますが…。
米津玄師の軽快な音楽が流れているとはいえ、ズムシティーには暗雲が
立ち込め、不穏な雰囲気です。
女帝の戴冠式と、それを歓呼して迎える大衆の姿は、僕には
「独裁を自ら求める衆愚」にしか見えないというか…。
ハッピーエンドのつもりで描かれたにしては不自然です。
「こうなってはいけない」という反面教師、ディストピア、
アンハッピーエンドな結末を描く意図が鶴巻監督にはあったのではないか、
と僕には感じられます。
もちろん、作品の感想や解釈は人それぞれ、ですが…。
:
(とはいえ、ジオンが勝ち、シャアが勝ち、木星帰りの男も勝ったのだから、
ガノタの皆さんは大満足ですよね…?
悪党が勝利する方が「リアル」だし(笑)。)
:
にしても、なぜジクワ世界ではシャリアは勝てたのでしょうか?
敗戦した連邦はともかく、エゥーゴに相当する反体制組織が登場しなかった
のは不思議です。

ドゥー嬢ら2名を送り込むのが精いっぱいだったようです。
ジクワ世界では抵抗運動が組織化できず、小規模な個人テロしか起こせなかったのでは…?
だとしたら、それは何故??
ジクワ世界では、ゼータのエゥーゴのような準軍隊的な規律組織を結成
できず、個人レベルの抵抗運動は容易に鎮圧されてしまった。
だからシャリアは、レジスタンスによる抵抗を受けず、野望を実現できた。
:
規律。
組織。
嫌な言葉ですね!
僕らアニオタは、規律や組織に服するのが大嫌いです(笑)。
というか、戦後生まれの僕らは基本的に、個人主義的で利己的、
快楽主義的だと言えます。
にもかかわらず、「Zガンダム」のエゥーゴ内では「修正」という名の
体罰が横行していました。

独断専行や規律違反を起こしたメンバーが、同志に殴ってもらって
気合を入れ直したり、自分勝手を反省する慣行が、エゥーゴ内では横行していました。
よく言えば、アントニオ猪木に闘魂注入してもらうのと同じですが…(笑)。
時代錯誤といわれてもしょうがないですよね⁉暴力反対!
そしてゼータの最終回付近では、メンバーの「自己犠牲」が横行します。

エマ中尉や死んでいった仲間たちの命を吸い取ったゼータガンダムは、
他人を道具にしてきた孤独なシロッコに対峙します。
エゥーゴは、カミーユは一人で戦っているのではない…!
仲間の犠牲と、カミーユ自身の精神をも道連れにして
シロッコを討ち取ったゼータ。
…令和のジークアクスではありえない光景ですね!
自己犠牲や奉仕の行きつく先は「滅私」…「特攻」です。
自分を省みず、ウエイブライダーで特攻するカミーユ。
…初代ガンダムでは特に、特攻のシーンが多いですね。

「ジオン公国に、栄光あれー!」
ガルマはジクワでは特攻しませんでしたね。

反目し合う、自分勝手なホワイトベースのメンバーを
なんとかまとめ上げようと奔走したリュウさんも特攻します。
ジクワ世界では特攻も描かれませんし、リュウさんのように
チームをまとめ上げようと奔走する人物も出てきませんでした。
マチルダさんやウッディ大尉、自決するランバ・ラル、
部下の脱出のために自ら特攻をかけるドズル中将と、
阻止しようとしたスレッガー中尉の特攻…。
敵味方を問わず、自身の職責や与えられた役割に忠実であろうとした
人々の決意に、僕らはグッときてしまいます。
しかし「責任」とか「利他主義」は戦後、蛇蝎のごとく嫌われる
価値観となりました。
先の大戦で「滅私の精神」が軍部に利用され、戦争協力の合言葉となった
反動で、戦後は無責任な利己主義がもてはやされたのでしょう。
しかし今日、責任や利他主義をあまりに否定しすぎた弊害が、
そこかしこで目立つようになっていると、僕は感じます。
:
「君は生き延びることができるか?」という初代ガンダムの問い。
ホワイトベースのメンバーが戦場で生き残るためには、自分勝手な
他人同士が妥協し合い、我慢し合い、協力し合う必要がありました。
「みんながバラバラではダメなんだ、チームワークで!」
リュウさんはメンバーをまとめ上げようと奔走し、引き籠りのアムロ君や
皮肉屋のカイさんもなんとかチームに組み入れようとします。
それがウザいと令和の僕らは思うのかもしれません。
実際、アムロやカイさんも、「ほっといてくれ!一人にしてくれ!」
と思ったことでしょう。
とはいえ戦後的な、個人主義的で利己的な人々がそれでも我慢し合い、
協力し合うことで、アムロ君たちは生き残ることができた。
そういう話です。

リュウさん役の声優、飯塚昭三さんは2023年に亡くなられました。
「助け合いが大事だよ!」と言うと、お花畑なお説教だと笑われてしまい
そうですが、ホワイトベースのメンバーが直面したのは、むしろ、
「助け合わないとみんな死ぬ」という冷徹なリアリズムだったのでは?
リュウの死を契機に、バラバラだったメンバーが結束していきます。
戦後の平和な時代に慣れた僕らには、「自分勝手に生きてても
何とかなるやろ」と甘っちょろく考えているところがある気がします。
そっちの方がむしろ、現実を直視しないお花畑なのでは?
(個人の利益追求を認め、互いを利潤追求の道具とし合う欧米の社会が
脆弱化し、いつのまにかロシアや中国を脅威に感じるようになっている…。
制限なき奪い合い、騙し合いを勧奨するポストモダンの社会では相互信頼が
薄れ、結束を失った国は容易に攻め滅ぼされてしまうでしょう。)

アムロ君たちとは対照的に、他人を道具にする利己主義を追求したシャアは
最期、過ちを悟り、キシリアと刺し違えることで贖罪を果たしました。
「アムロたちが生き残り、シャアが死ぬ。」
それが初代ガンダムの最も重要なテーマの一つと、言えるでしょう。
80年代のわがままに育ったティーンエイジャーに対し、「わがままを
抑えて協力し合わないと生き残れないよ!」と説く冨野ガンダムは
明らかに、時代錯誤なアニメですね!
他のアニメやテレビがどんどん、視聴者を甘やかす方向に向かって
いくなかで、ガンダムシリーズは時代錯誤な主張を頑張って続けますが、
最新作、ジークアクスでついに不可能になりました。
鶴巻監督はまさに、80年代に青春を過ごした若者そのものです。
しかし鶴巻監督は逆に、人々が利己主義と無責任を追求したらどんな結末に
なるかを示そうとしたのではないか?
反面教師としての、勧悪懲善アニメ。
利己的で無責任な戦後の大人たちを見て育った鶴巻氏には、利他主義を
冨野氏ほど、実感を持って描くことはできませんが、逆にそんな大人たちの
末路を、デッドエンドをリアルに描くことはできる、と考えたのでは
ないか。
利己主義と無責任の行きつく先…。
「悪党の一人勝ち」という、初代やゼータと真逆の結末。
それは、「おひとりさま」化した、僕らの世界の未来でもあります。
それが鶴巻監督の「本音」だとしたら、その本音は、ガンダムシリーズの
「時代錯誤な主張」を引き次ぐものだと、僕には受け取れました。

笑顔でもって、ハッピーエンドかのように偽装するわけです(笑)。
表面上は、視聴者を甘やかした今期最高のチートでチルなアニメとして
作り上げ、バズらせる。上手いですね~♪
ジクワの視聴者の大半に、その本音、「時代錯誤な主張」が届かなくていい
という前提で作っているし、彼らにエンタメとして消費されることについて
はもう、諦めているのだと思います。
誤解されても別に、バズってくれるならそれでいい。
:
もちろん、これが鶴巻監督の「本音」だと言うのは、僕の憶測に
過ぎません。個人の感想ですね♪
ハッピーエンドの裏に皮肉がある、僕はそう読み解いたのですが、
そうじゃないという意見があってもいいし、
ジクワは単にハッピーエンドなのかもしれません。
もしそうなのだとしたら、それはもうガンダムでは無いですが… (-_-;)
:

視聴者である新人類世代に期待し、時代錯誤な主張を続けたガンダム
シリーズは、「ガノタ」という特権意識を作り上げました。
「私たちは普通のアニオタとは違う、普通のアニメーターとは違う!」
82年の「アニメ新世紀宣言」を真に受け、「新世紀エヴァンゲリオン」で
新世代アヴァンギャルドアニメを作ろうとした庵野監督。
その苦しみを間近で見てきた鶴巻監督は、期待は呪いであり、ハラスメント
であるという昨今の風潮も鑑み、ジクワでは自分の本音、主張は表に
出さず、表向きは若者にウケるチルいアニメ、ガノタにウケる往年の
ガンダムキャラ大集合の懐かしアニメ!に徹したのではないか。
時代と共にますます堕落していく若者世代、新人類世代に激を飛ばし続けた
ガンダムシリーズ。
とはいえ彼らももう若者でもない。というかすっかり高齢化したガノタの
皆さんに今さら期待したり、激を飛ばしてもしょうがないでしょう(笑)。
彼らに必要なのは治療ではなくもはや、緩和ケアの段階ですよね♪
ジクワは「期待されること」をハラスメントと嫌う若者にも、
高齢ガノタにも優しい今期最高のチル(=諦め)アニメになりました。
でもそれを、「ガンダムをクソエンタメにしやがった!」と嘆くジクワ
キライ派の方々のために、鶴巻監督の名誉を守るために、僕は監督の
「本音」を明らかにしようとここまで、文章を紡いできました。
「ハッピーエンド風」の裏には鶴巻氏の皮肉が込められている。
その皮肉は冨野ガンダムの「時代錯誤な主張」を継承したものです。
従ってジクワは、「ガンダムをクソエンタメ化して否定」した作品では
なく、その後継作品だと僕は考えます。
「ジクワは最高のエンタメだけど初代は説教臭い駄作!」だとか、
「ジクワはクソエンタメ、やっぱり初代こそ至高!」といった正反対の
感想の、どちらも幼稚だと思います。というかデマです。
「作品の感想や解釈は人それぞれ」だからといって、数万人、数億人に
見られるSNS上で極力、デマを書かないよう、適当な感想を書かないよう
努めるのは責務だと僕は思うのですが…。
新聞やテレビを「視聴率稼ぎ!」「デマをばらまくマスゴミ!」と非難する
ネット民が、なぜSNS上でスキ数稼ぎに走り、飛ばし記事を投稿するのか?
「マチュ=ハマーン説」とはいったい何だったのでしょうか…??

なぜ皆さんは当時、この説を信じたのでしょうか⁉(-_-;)
「浅い感想記事ほど人気になる」問題についてここで書くと
脱線になるし、怒りで祟り神になりそうなので(笑)、いずれまた…。
誤読が多数派の意見になって力を持つのが僕は嫌なのです!
でも批判記事を書いても数万分の一しか読まれなくて無力…(´;ω;`)
話をもとに戻して(笑)、まとめに入りましょう。
:
「1979年の初代ガンダムと、その二次創作としての、2025年の
ジークアクスとで、何が違い、なぜ違ってしまったのか?」
…両作品の根本的な違いと、その原因は何か?
この問いについて、いくつかのキーワードが出てきました。
勧善懲悪と勧悪懲善。
原典の主人公=善の排除と、悪役への過剰なひいき。
それによるジオン、シャア、そして木星帰りの男の勝利。
特攻の不在、自己犠牲や利他主義、責任の不在。
エゥーゴに相当する反体制組織が結成できず、個人主義的な
スタンドアローンのテロに走ってしまう問題もありましたね。
「わがまま勝手でバラバラどうしでは生き残れない」という現実を
直視できず、いつの間にかジクワでは、悪党が一人勝ちしていました。
「お飾りの女帝による独裁」を歓呼して受け入れる衆愚、という
ハッピーエンド風の皮肉を、ベタにハッピーエンドと受け取る視聴者…。
鶴巻監督の「本音」とは?
初代ガンダムをあえて「似せ」、そうすることでどうしても似せられない
相違をむしろ強調する意図。
これらのキーワードを集約すると、2025年の、令和の僕らが「似せる」
ことができない相違が、浮き彫りになってきます。
1979年の「初代」との相違。
見てくれだけ真似られても、どうしても違ってしまう中身。
…象徴的なのは、ララアのジクワでの描かれ方でしょう。

命を落とす、原作版のララア。
ジクワ版のララア、というか、令和のアニメーターが描いたララアも
このシーンを似せようとしますが、できません。不思議ですね!
初代を「似せ」たはずのジークアクスで、モビルスーツやキャラを
そっくりにリファインすることはできても、その演技を真似ることが
できない。
どうしても、令和版のララアは、シャアを庇う演技を模倣しようと
しても腰が引けてしまい、毎回シャアを死なせてしまう。
何カット繰り返しても、庇うタイミングが一歩遅れてしまう…。
姿かたちはファーストを真似られても、心の中身が「我が身大事」に
なっているのです。
「シャア大佐は恩人だけど、でも自分が死ぬのは嫌!」
まあそれが普通ですよね。
まだ戦前の空気が色濃く残っていた冨野監督の少年時代と違い、
戦後の個人主義と利己主義の空気で育った鶴巻監督や、僕ら令和の
視聴者は、他人より自分が大事ですし、死んだらおしまいです。
だから今さら、ファーストガンダムを真似ることなんてできない。
姿かたちだけそっくりにしても、心が違うから、ギャグにしかならない。

鶴巻監督「ハイ、次カット139!」
「愛するシャアがアムロに討たれそうになるから!ララアちゃん庇って!」
「初代のララアそっくりに頼むよ!」
令和のララア「は、ハイ監督!」
(え、でもそれじゃ私死ぬやん⁉)
(え、庇って死ねってこと⁉む、無理!)

鶴巻監督「はいカット!ちょっとまたリテイクだよ!」
「またシャア死んじゃったじゃん(笑)なんでもっと踏み込まないのよ!」
令和のララア「す、すみません監督…。次こそは…!」
:
令和のララアは「他人を庇って死ぬ」ことができません。
ジクワが初代の二次創作だとしても、それは形だけで、その心まで
真似ることはできません。
だから特攻や自己犠牲を描けず、令和のララアは何度シャア大佐を庇おうと
しても勇気が出ず、失敗し続けるのでしょう。
無数の平行世界でリテイクし続け、そのたびにシャアを死なせてしまう
令和のララアはやがて、「そもそもアムロがいなければいいんだ!」と、
アムロや世界そのものを憎しみの対象にします。
利他と自己犠牲の象徴だった昭和のララアが、令和版だとシャアを庇えない
どころか、シャアとララアが結ばれない世界なら壊してしまえ、という
恐ろしく利己主義的な人物になっていますね。
この鬼のような女性をなんとかなだめ、彼女にジクワ世界を崩壊させない
ために、シャリア中佐はシャアを脅して、ララアお姉さまと強制的に
引き合わせるわけです。
平和でわがままな時代に生まれ育った僕らは、助け合いや自己犠牲を
リアルに描けず、リアリティも感じない、ならいっそ、それが不可能に
なった僕らの姿をララアの変節を通して描こう、という皮肉でしょう。
令和のララアの顔芸を笑っている場合ではありませんね…。
嗤われているのは僕らの姿そのものです。
:
ざっくり分けると、「戦前は利他主義、戦後は利己主義」です。
利他主義は戦争動員につながるから良くない、とGHQやPTAに否定され
ながらも、時代錯誤な「利他主義」を描き続けたガンダムシリーズ。
他のアニメが利己主義を追求し、戦後最大の観客動員数を稼ぐ中で、
ガンダムシリーズの最新作も利己主義に転向しました。
利他主義か利己主義か。
これまでのキーワードを総括すると、1979年の初代ガンダムと、
その二次創作としての、2025年のジークアクスとで、根本的に
違うのはこの根っこの価値観、という気がします。
でも鶴巻監督はコッソリと、蚊の鳴くような小声でですが(笑)、
利己主義の行きつく先はディストピアだよ~、と視聴者の大半には
バレないよう、本音を漏らしている、ような気がしますね。
:
「自分より他人」か、「他人より自分」か。
2025年の僕らは、結局のところ「我が身大事」です。
令和のララアは、シャアを庇えなくなりました。
この違いを暴露するのが、ジクワの、鶴巻監督の本音でしょう。
利他主義が劣化し切った今の僕らが、初代を形だけ似せても、
いくら最新CGで見てくれを立派にしても、中身は真似られない。
その監督自身の自嘲が、令和版ララアをギャグにしてしまったことに、
現れている。
鶴巻監督は自分を嗤ったのです。手の震えが止まりません。(byシャア)

キシリア「ジクワの正体が見せかけのハッピーエンド
だと聞かされた時には、さすがに笑ったよ。」
シャア「お笑いになった…?」
キシリア「鶴巻坊や…腹が立つよりかわいいじゃないか!」
というわけで、一万字超えたので(笑)ここで一旦締めたいと思います!
「何が根本的に違うのか」については答えられたはず!
次回は後半部の問い、「なぜ違ってしまったのか」について考えて
みましょう♪
MAVという新概念が生まれた経緯についても、利他主義の摩滅で
説明できると思いますので、予想してみてください!(笑)
あと散々悪党扱いしてきたシャリア中佐についても少し擁護してみる
積りです♪
今回も、クソ長い講義?にお付き合い頂き、ありがとうございました☆
ではまた次回♪
Thank you for reading!
