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「高台だから大丈夫」信じた町が消えた


あの日、あの瞬間。
あなたは何をしていましたか。


私はクラスの子どもたちを見送り、保育室の掃除をしていた。

掃除を終えて職員室に入ると、1人の先生が、心配そうな声で言った。

「東北で、大きな地震があって、大変なことになってるみたいよ」

園バスから戻ってきた先生も、職員室に入ってきて同じように言った。

「〇〇ちゃんのお母さんから、東北で大きな地震があったって聞いたけど、大丈夫かな」

みんな、まだ状況がわからない。
慌てる様子はなかった。

1人の先生の祖父母が、東北にいたため、心配だからと連絡をした。
でも、繋がらない。

職員室にはテレビがない。
私の近くにいた、ガラケーを持っていた先生が、ワンセグのテレビをつけた。

「ちょっと来て来て!」

私は呼ばれて、すぐに近寄り
ガラケーを見た。

小さな画面から見える映像。
名取市の町を飲み込んでいく様子だった。

「これ、今起こってるんだよね」
「これ、日本だよね」
「本当に起こってるの?」

誰もがそう思った。

現実を受け止められない日々

海岸から

仕事を終えて帰宅後、私はテレビをつけた。

わからない。
何がなんだか。
現実に起こっていることを理解できなかった。

仕事は、2日間お休みだった。
家でしなければならない仕事もたくさんあった。

でも、何も手をつけられなかった。

『ふくしまキッズ』との出会い

福島にて

あの状況をみて、きっとあなたも

"自分に何かできないか"

そう思ったのではないだろうか。

自分にできることは、募金くらいと思いながら、それだけでは、気持ちがおさまらなかった。

"自分の時間を誰かに使おう"

そう思って参加したのが、
『ふくしまキッズ』だった。

"原発の影響で、外で遊べない福島の子どもたちを、のびのびと遊ばせてあげたい"

そんな思いで、20〜30人の子どもたちを、長期休みに、5年間、計8回受け入れた。

今でも、当時小学生だった子や、その保護者とは繋がり続けている。
先日も、「カハリーと話したい」といって連絡をくれて。電話をすると必ずあの時の話が出る。
"ありがとう"と言葉をくれる。

福島で聞いた、あの日の記憶

3階まで津波がきていた

福島にも2014年、2015年に2度行ってきた。

大切なお子さんを預けてくださった保護者からは、当時の話を聞いた。


あの日、家の周りには白い粉がたくさん降ってきた。
家中の、隙間という隙間を、夫婦でテープや段ボールで、絶対に家に入らないように止めて回った。
しばらく、家族バラバラに過ごした。でも、やっぱり一緒にいることに決めた。


仮説住宅に住まわれていた方の話も伺った。

これは、ここにまとめられないほど、
当時のこと、非難生活でのこと、家族のこと。
そして、今思うこと....
たくさん聞いた。

自家用車や、マイクロバスでの移動。大型バスがないため、大渋滞。避難所もいっぱいで、次の町、次の町へと行った。"すぐに帰れるだろう"と、着の身着のままで。

避難所では、赤ちゃんが夜泣いていて、母親は「すみません」と謝っていた。そして翌日、赤ちゃんと母親は、いなくなっていた。

使えるお皿もないくらい、家の中はぐちゃぐちゃ。家族の無事を確認したあと、雪が降り出した。
海岸から500m、見渡すかぎり、海は真っ黒だった。"高台だから大丈夫"と思っていたが、2階の窓から見たら、30軒あった家がなくなっていた。
震えが止まらなくなった。

車の中にいる父。でも、車は沈んでいる。孫も乗っていた。「孫が見えないんです」と行こうとした。でも、「もっと高い所に逃げないと、もっと高い津波が来るぞ」と言われた。

夜、車の中で、家族6人3つのラーメンを分けて食べた。避難することになり、布団だけ持って、犬も置いて出た。

養護学校の子どもが、体育館を走り回り、落ち着かない。違う避難所に移動した。お腹が空いた。でも、言えなかった。

仮設住宅に申し込み、抽選で2週間待つ。同じ地域の人がいるから寂しくないと思った。でも、知っている人はほとんどいなかった。

安心したら身体が動かなくなり、リハビリする。農業をしていた人は、やらなくなりボケてしまった。じっとしているのは寂しい。何かしたいと思って、みんなで始めた編み物や社交ダンス。表面的には楽しんでいるが、心は...。

1年後に卒業式ができた孫に「卒業式できて良かったね」と声をかけた。でも、1年だけの付き合いの人。アルバムを見ながら「でも、知ってる顔がいないんだよ」と言われ、かける言葉がなかった。

仮設住宅は、2年住めるように建てられていて、その後は直しながら住んでいる。復興住宅もできる。でも、新しい人と出会い慣れてきたのに、またバラバラになる。
"家があっても、人の気持ちは?"
人と人とのつながりを大切にしてほしい。
でも、「双葉はひとつ」といわれると、何も言えない。人が持っている本音をまとめている。

復興住宅は、マンションみたいで壁が厚い。中で何をしているかわからない。孤独になる人が増える。
何が大切なのかを考えてほしい。

富岡駅で感じた「現実」

富岡駅

語り部さんの案内で、富岡駅にも行った。

車から降りた瞬間、何かよくわからないが、涙が溢れた。おそらく、テレビで見た被害と現実が一致して"怖い"と感じたからだったのだろう。
写真を撮るのもためらった。ここまで津波がきて、この高さまで津波がきて、どんなに恐ろしかったことだろうかと、怖くてしょうがなかった。人の気持ちを人ごとのように思うのではなく、自分がここにいたかのように、何もかも失った気持ちになった。

「伝えること」こそが自分にできること

「いつか、あの桜をもう一度」

テレビなどの情報は、どれが正しいのか正しくないのかわからない。そのため、実際に自分が見たものや、現地の人から聞いた話を伝えていこうと思い、福島まで行った。

立場や年齢など、人によって考え方や思いは違うことを感じた。知らないことがたくさんあった。
当時、線量が高い所は、正直度々訪れるのは怖いと思った。けれど、一度訪れて終わりではない。今の状況は今しか見ることができず、前回と変わったとこ変わっていないとこ、新しく知ったことがあった。話をして下さる方によっても考え方が変わる。だからまた訪れた。

語り部さんは、マイナスなことは「つまらない」と言われ、前向きに話されていた。でも、私は安易に楽観的な言葉は言えない。今の福島の現状やそこにいる人の想いを知り、他の人に伝えることが、自分にできることだった。

未来をつくる子どもたちへ

真冬の海に足をつける子どもたち

活動に参加したときは、ただ楽しんでくれたらと思っていた。

でも、100年200年後を見据えて、未来の国をつくる子どもたちに
自分たちにしかできないこと
自分たちでなければ伝えられないこと
みんなに届けたい。

そんな思いに変わり、5年間続けた活動。
出会った子どもたちには、何かしら伝えることができたかな。

「何かあったら、今度は僕たちが助けるから」って言ってくれる。
私たちがしてきたように、今の子どもたちにかかわる、ボランティアや体験学習をしていたり、先生をしていたりする子もいる。
災害があれば、何人もの子が「みんな、大丈夫?」って連絡くれる。
「また海に入って日焼けしたい」って思い出を語ってくれる。

子どもを預けてくださった保護者の方と、福島で会ったとき聞いた話では、
国の線引きで、ご近所さんとの縁が切れたことを知った。
仲の良かった友だちと話さなくなったことを知った。
大人は本当のことが言えなくなった。
子どもも本当のことが言えなくなった。

大人を信頼できなくなった子どもたち。
一緒に活動していた仲間とは、福島の子どもたちが大人を信頼できるようにかかわっていくことを誓った。

そして、今もなお、子どもたちと連絡をとりあい、なんでも話してくれる。
あの時の活動で築いた絆だ。

私はこれからも、支え、支えられるのだろう。

「ふるさと」とは何か

災害を経験して灯す光

信じていたものが、一瞬で消える。
あの日、何が正しかったのか、誰もわからなかった。

それでも、そこで生きてきた人々がいた。
その町で育ち、家族と過ごし、未来を思い描いていた人々がいた。

仮設住宅で暮らした方々はこう話していた。

私たちの「ふるさと」は、たくさんの思い出が詰まった帰りたい場所。でも、記憶のない子どもにとっては「ふるさと」ではない。だからこそ、「戻る」ではなく、「未来の子どもたちが帰りたくなる場所にすること」が大切なのだと。

私もふるさとが好き。結婚して離れてみてわかった。見慣れた景色、風や匂い、家族や友人のいる安心感。そんな私に、福島の人は「愛媛は第二のふるさとだ」と言ってくれる。私たちのつながりが生まれたから。

「ふるさと」とは何か。
生まれた場所なのか、思い出の積み重ねなのか。
それとも、人と人がつながり、支え合う中で生まれるものなのか。

町が消えても、記憶は消えない。
思いを伝え続けることが、未来へとつながる光になることを信じている。


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"忘れない"から生まれた繋がりは、
今でも大切にしています。

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