9.合流
開かないペットボトルの蓋を見つめて、ため息をついたものの、それくらいで諦めるわけにはいかない。安全復旧のためには、今、動ける自分が脱水症状で、復旧及びレスキューの機動総合力からマイナス1になるのは許されない。まず水分補給をと、あたりを見回した。
ジッパー付き食品保存袋の箱が見えた。これはラッキーだ。俺は一枚とりだすと、ペットボトルを入れた。
それから──これだ。
工作には欠かせない超優れものの定番装備・レザーナイフを取り出した。最大出力なら構造壁に穴が開けられるパワーが15秒も出せる。出力を加減すれば、紙を重ねて上一枚だけ切れる。
カチッ。慎重に出力目盛りを一つだけ動かす。最低出力になっていることを目視でも確認。そうっとペットボトルに穴を開ける。素早くジッパーを閉じる。ボトルからあふれ出した水が、袋の中でたくさんの玉になって踊り出した。
ジッパーの端だけ少しずらして水をすする。あー、美味しい。
「マム、情報共有スペースを作って。これから話す内容を、優先順位の高い順に並べて案を出して」
一息ついただけで、俺は思いつくままに無重力下での注意事項をしゃべり始めた。情報の抜けの確認や優先順位のチェックは、ライダー・プールのマム(マザー・コンピュータ)のほうがきっと得意だ。けれど、宇宙人歴の長い俺の経験による“現場向けの絞り込み”のほうが、このケースじゃ役に立つはず。
マムが出してきた案に、いくつか修正命令を加えて、照会しやすい画面にまとめるよう指示をした。
記事のタイトルは、無重力での注意事項。シンプルこの上ないし、一発で中身が分かる……はずだ。
突っ込み野郎どもも、学生時代にゼロGで作業する課題を間違いなくやらされている。けれど、関係ないことはキレイさっぱり忘れるのが人間ってやつだ。辺境にいる俺たちと違ってテラG寄りで生活しているやつらには、リマインダーとしてあったほうがいいだろう。
質量がある物質がある限り、厳密な意味で無重力というのはあり得ない。気取って微細重力などと表現しても分かりにくいだけだ。正確さも大切だけど、相手が理解できなければ意味がない。
まさかライダー・プールに小学生はいないだろうが、こういう場合は専門用語をつぶして、パンレベ(一般レベル……も、こうは言わないのかな?)の表現にしておくほうがいいだろう。
質量差がものをいう世界なので、常に自分の質量とぶつかる相手の質量を考慮しなければならない。浮いているからといって、軽いわけじゃない。テラG環境の人間は、その感覚が分からない。浮いているものは軽く動かせると思いがちだ。浮いているものを動かす大変さや、一度動いてしまったときの破壊力を実感として想像するのは、実はとても難しい。
ふわふわとでも移動を始めてしまえば、大きな質量のものは、その大きさに相応しいだけの慣性の力を得てしまう。まさに質量爆弾だ。
摩擦抵抗がないところで、これの威力がどれだけあるかというと、衛星軌道で周回している人工衛星やシャトルを思い出せば簡単に分かる。時速2万キロ以上を維持するのに、推進力発生装置をつかっていないのだ。
衛星軌道というのは、実は、完全に地球の重力影響圏内にある。だから、常に引力――地球に向かって落ちようとする力が働いている。人工衛星などは円軌道の外側に向けて推進力をかける。速度が自然落下を振り切れるレベルに達すると、結果として常に落ち続けるが常に飛び去ろうとし続けるので、同じ高度を維持することができる、というわけだ。頭の体操いいですか?
この状態に上手くもっていければ、エンジンを切ってもすぐに落ちることはない。実際、静止衛星なんかは、そもそもエンジンを搭載すらしていないのだ。恐るべし慣性力。
話を戻そう。質量が大きければ大きいほど、慣性の影響も大きくなる。それがオープンスペースなら問題はない。その移動する物体に体を添わせて、自分もその慣性の影響下に入れてしまえばいいのだ。だけどプールの中は壁だらけだ。壁に向かって質量の大きいものが漂ってきたら、その間からどんな手段を用いても、即刻逃げ出さないといけない。逃げ後れたら、ぺしゃんこ……だ。
いくらライダー・プールがテラGでも、宇宙空間にいることは変わりないのだから、精密機器が防水なしでむき出しになっているとは考えにくい。生活廃水(トイレも含めて)もキレイではないかもしれないが、基本的に表面張力で丸くなるから、水でできたボールに完全に取り込まれて溺れるというような、よっぽど見事なボケをかまさないかぎり大きな問題にならない。
問題は細かい浮遊ゴミだ。目や呼吸器に入ってしまうと、ちょっと厄介なことになる。テラじゃあるまいし、台所で小麦粉の類を使う奥さんはいないと思うが、万が一いたら、速攻で逃げてドアを閉めとけと指示しとかないといけないな。
オープンチャットスペースにアクセスがあった場合、まず無重力下での動作に慣れていない人間が、注意事項を照会できる画面に飛べるよう、プールのマム・コンピュータにアイコンを作ってもらおう。
「ねぇ、タカさん……。どこにいるのか、教えてくれない?」
ザキさんの声に呼ばれて、皆にはオープンスペースチャットに切り換えるように言っておきながら、自分の端末にはずっと通信の負荷をかけっぱなしだったことに、今さら気がついた。余計なことまで考えすぎて、すっかり忘れてた。
「ねぇ、ザキさんってお料理する人?」
俺の質問は唐突すぎたかもしれない。人間はみんな、言葉を文脈の中で理解するのだということを忘れていた。
「タカさん、真面目になってよ。今、私をリサーチしてどうするのよ」
怒られても仕方がない。思ってもいなかった角度から突っ込みが入ると、人間は一瞬、何を言われたのか分からないことがある。しばらく考えてやっと、嫁さん探しのナンパ男のセリフと誤解されていたのだと気付き、苦笑する。
ザキさんは、たしかに魅力的だけど、パンピー柏木とタイマン張るには度胸も体力も、積み重ねた時間も足りない。新規アプローチするには出遅れすぎている。第一、ちっとお元気すぎる。もちっとか弱くないと、俺がぺちゃんこになること間違いなしだ。
「ちゃうちゃう。ザキさんの手料理は食べてみたいけど、そうじゃなくて。小麦粉とか、パウダーシュガーとか普通に使う人なら、台所立入禁止ね。吸い込んじゃったら後々、かなりやっかいだから」
思い切りがいいザキさんらしくもなく、即答がない。きっと勘違いを照れているんだろうな。
「大丈夫。うちには調理済みのものしかないから」
パンピーには、ザキさんをゲットしたいなら、料理の腕を磨いておくよう、今度さりげなく教えてあげよう。
「それはよかった。水は全部、球(タマ)になってるでしょ? 下手に衝撃を与えると、分裂して霧よりはデカい水玉ができちまう。そいつを吸い込むと、肺がむちゃくちゃ痛いし、あとで肺炎になりかねないから、できるだけ水には触らないでね。安全のために、持ってたらでいいけど、スペジャケ着て金魚鉢(ヘルメット)かぶったほうがいい。持ってなかったらマスクか、タオルで口の周りをふさいで、強盗ファッションになってね」
俺が思いつくままに喋ると、向こうで例のコロコロ笑いが聞こえた。笑っていられるうちは、人間なんとかなる。
「了解。さすが宇宙人。頼りになるわ。で、どこにいるの? ……一緒にいてもいい?」
この場合の『一緒にいたい』を、異性に対する並々ならない野心と勘違いするほど、俺は間抜けじゃない。俺だって誰かと(できれば頼りになる奴がいい)一緒のほうが、今よりはずっと心強い。特にマッチョな人が一人いてくれると助かる。
「俺もザキさんに会いたかったんだ。もしかして、飛竜の部屋に連れ込まれたことある?」
「場所は知ってるわ。柏木さんのところと一緒でしょ? 連れ込まれたことはないから、コンパートメント・ナンバーまでは知らないけど」
ザキさんが律儀にコロコロ笑ってから答える。なんだ、ザキさん。そこでパンピー柏木の名前が出てくるじゃないの。パンピーちゃん、結構脈あるよ。君に足りないのは質量に相応しい度胸だけと見た。
「場所はどの辺?」
俺にはザキさんの検索権利がないから、さっき位置情報を得ようとして、マムに弾かれている。
「そんなに遠くはないけど……。ちょっと、部屋の外に出るの……怖くて」
無理もないか。部屋の中の惨状が、どこまでも続いている外なんて、普通の感覚じゃ見たくないだろう。ライダー・プールは時差を作るほど規模が大きい施設ではないから、地球時間の日本県の伝統的標準タイム、明石タイムを採用している。この事故(事件?)が夜中から明け方に起こったのは、それでもラッキーと言えるだろう。
繁華街の中華料理屋で、炎がじゃんじゃん立っている時にゼロGで振り回されたら……。小料理屋の女将さんがてんぷらを揚げているときに、こんな事態になっていたら……。いやいや、妄想を暴走させるのは止めておこう。
一緒に居たいというニーズを満たすには、どちらかが移動しなければならないという、基本的条件を無視することはできない。俺はマッスル階級として奴隷以下ではあるが、年齢と性差でリスクを多めにとるのは、俺の方で順当だろう。
「じゃあ、悪いけど、ザキさんの位置情報、俺にくれる? なんとか移動してみるから」
「嬉しいけど……。タカさん、大丈夫?」
その大丈夫は、俺の体を心配しているというより、辿り着けるかどうかの能力の方を心配している感じだった。俺は大いに安請け合いをした。
「宇宙人を信じなさい。何度も言ったでしょ。ゼロGは俺のフィールドだよ」
軍服でのこの街を泳ぐ愚かさを、このときの俺は忘れていた。
* * *
他人様の家を訪ねるときは帽子を脱ぎましょう。俺は、安全確認した上で几帳面に金魚鉢を脱いでインターホンを鳴らした。途端、速攻で扉が内側に開いた。訪問者の確認くらいしてから開けたほうがいいのに、と思いつつ、意表をつかれた俺は部屋の中に勢いとともに連れ込まれた。ドアノブに手を伸ばしてなんとか掴み、慣性に逆らった。
良い子のザキさんは俺の言うことをちゃんと聞いて、スペース・ジャケットを着込んでいた。肉体美を見せびらかすようなライダータイプのスペジャケは目の保養になるというか、やり場に困るというか。まぁ、サービスだと思って堪能させてもらいます。
驚いたことにザキさんは、幽霊でも見定めるような目つきで俺をじっと見た後、いきなり抱きついてきた。よほど不安だったのだろうか、顔色が悪い。
「遅かった……。遅かったじゃない! 心配したのよ。どっかで潰れちゃったのかと思って……」
こんな役得が待っているなら、スペジャケを着とくように言うんじゃなかった。さすがに金魚鉢は持っていないのか、見掛けより柔らかい髪の毛が頬をくすぐってきた。若い女の子の匂いは、本当にいいなぁ……。
「柏木さんが、タカさんのこと、軍人さんだって言ってたの、眉唾だと思ってたけど、本当に……そうだったのね。いやだ……似合わないわ」
ちょっと涙ぐんだ目を瞬きだけで誤魔化してから、抱きついたことを失策だったと思っているのか、俺の胸を腕で押して、体を引き剥がした。えらい言われようだ。官服が似合わない男ってのは、どういう意味だろう。大体、かなりの不細工が着ても、男振りが二、三割り上がって見えるのが、軍服って奴の唯一の利点だった筈だが……。
「……タカさん? なんか、酷い顔色よ……。どこか怪我でもしたの?」
ザキさんに顔色を指摘されたせいで、俺はここに来るまでに目撃したこと、経験したこと、全てが一斉に脳裏に押し寄せてきた。
* * *
体の半分が一度押しつぶされたのか、ありえない方向に折れ曲がった、半身の手足が血まみれになって、うめいている若い男。
とっさに周囲を見渡す。暴走している質量を持った塊は見えない。気力で部屋から脱出し、扉を閉じるという安全行動を取った後に、万策尽きたといったところか。さすが、ライダー向けコンパートメントに住むぐらいの体力と気力、判断力を持っている。
彼が俺を見つけて、こちらに震える手を伸ばしてきた。周囲に漂う細かな霧は鮮やかに赤い。彼の血なのだろう。息をするときに、その血を吸い込んでしまったのか、苦しそうに顔をゆがめ、かすれた声で言う。
──助からないなら……楽にしてくれよ……
その言葉に、俺は何も返せない。ただ、静かに首を振るだけだ。出血は時間勝負だ。大丈夫だ、必ず助けを連れてくるからという、無責任な気休めも言えない。このままでは命に関わる。
──……お前ら、殺すのが仕事なんだろ……?
それにも答えられない。ただ、「できない」とだけ呟く。
──じゃあ……助けてくれるのか……?
けれど、今の俺にできることは何もなかった。助けることも、終わらせてやることも、どちらもできない。ただ、最短時間でレスキューが動けるよう、情報として胸に刻むだけだ。
彼を生かす可能性があるのは、一時しのぎの止血帯なんかじゃない。
俺がその場を離れると、背中越しに声が追いかけてきた。
──税金……泥棒……
──助けられねぇなら、殺していけよっ!
ザキさんのいるコンパートメントを目指し、いくつもの手すりやパイプを蹴って進む。そんな俺の足首を、いきなり誰かがつかんだ。
──あんた、負傷してる一般市民を放置かよ。何とかしていけよ、軍人さん。あんたら、そのためにいるんだろ。
上下も足場もないところでは、俺のほうに圧倒的に利がある。軽く身体を捻って俺の足を掴んでいた手を外す。そのまま距離をとる。
──知らん顔する気かよ。なんとかしていけ! 何のために軍服着てやがる。
とにかく泳ぐ。しっかり固定されているものを探して手を伸ばす。動かなそうなものをキチンと見定めて……。
――この野郎! この惨状見て素通りできるのか、お前は!
飛竜なんかのコンパートメントの通路ってのがいただけない。筋肉質の男たちばっかり。羨ましいほど骨と肉がぎゅっと詰まった体。普段なら、俺なんか簡単に捻じ伏せられる連中。だけど今は、なぜか俺の服――軍服にだけ、何かを期待してしがみついてくる。
男、男、男。どこまでいっても、働き盛りの男たちばかり。ほんと、色彩も潤いもない。
けれど――人間だから。自分や、知り合いはもちろん、見知らぬ他人が目の前で押し潰され、苦しみ、なす術もなく死にかけているのを見て、何もできないというのは、あまりにもしんどい。
誰だって、本当はなんとかしたい。だけど、現実は「どうにもできない」。
きっと、奴らも分かっている。軍隊っていう組織の力がなければ、軍服を着た一人の人間なんて、彼ら自身と大差ない。ただ、こんな非常時――軍服を着た誰かが素通りしていくんだから、どうしようもない怒りをぶつけるには、多分ちょうどいい。
何度も、何人も、繰り返し伸ばされる手。怒声。消えかけた命の火。ため息、怒り、絶望。絞り出される怨嗟。
ゼロGに不慣れな連中から逃げるのは、テラGの街で連中につかまるよりよほど簡単だ。俺は静かに壁を蹴り、逃れる。やるせない思いの塊が、どこまでも追いかけてくる。
いつまでも。どこまでも。それらは重なり合い、増えていく。結局、何もできない俺自身を、責め続ける。
* * *
「……肩……、貸してくれる?」
俺はザキさんの肩に手をかけ、彼女をとっかかりにして体を移動させると、背後に回り込む形でその細い……と言いたいが、俺よりは数倍みっしりと鍛え上げられた、たくましい肩に顔を押しつけた。パンピーちゃん、悪い、ちょっとザキさん貸して……。
「30秒……だけ」
何ができる? 俺だってちゃんと一人前に無力だ。
30秒以上は簡単に過ぎ去ったろう。けれど、俺はまだザキさんの肩に顔を埋めていた。もちろん、俺だって胸の方が好きに決まってるけど、そこはそれ、ザキさんは俺のママでも女房でもない。一応、理性くらいは保っている。
女の子ってのは、誰かが弱っているときには、やさしく我慢強くいてくれる。だから、好きだ。野郎はこういうときに、30秒過ぎたなどと平気でほざくのだ。
──だからって、甘え続けるのは、男らしくないよね。高柳君。
俺は自分に言い聞かせた。できることを、できるだけやってみる。ベターをかき集めて重ねてベストにする。こいつは、学校のおちゃらけた訓練じゃない。
「……インストラクターの……オザキ先生……」
「何? いきなり改まって」
「今……で、何秒……?」
「……85秒くらい……かしら?」
「ごめん、時間オーバーした」
俺は顔を上げる。30秒は人間やってる俺の権利。残りの55秒はただの無駄(ロス)。反省します。俺はザキさんの部屋の奥に押し入って、灰色のままの総合端末に直行した。やっぱりザキさんはLANモードで再起動するという意味そのものが分かっていないようだ。ケイタイ握りしめて、メッセージを出しまくっていたのだろう。
ホント。俺の馬鹿。随分時間が経ってしまった。そろそろマムのオープンチャットスペースに、新しい情報が入ってきていてもおかしくない。俺はまだ一人だ。こいつをなんとか乗り切るには、やっぱりチームがいる。飛竜……。歩ちゃん。お前たちが湧いて出てくれると……めちゃ、助かるんだけどなぁ。
あと、アゴで使える実動部隊も欲しいし……。できればゼロGで動き慣れた奴。加悦さんとか、ジョーとか。まぁ、手近にいそうなパンピー柏木ちゃんが、『ザキさんは人質にとった』の呪文で、湧いてくれてもいいよなぁ。
俺は好き勝手なことを考えながら、さっさとコンソールパネルを弄った。そういや、まだ、ライダー・プールのマザ・コンの名前を聞いてない。繋がったら最初に聞かなきゃな。頼りになる、最初のチームメイトだから。
