11.ママたちの前哨戦
――美咲がいないと、正直ものすごい楽だ。それも精神的に。私はいつからこうなってしまったんだろう。
越智美咲の母、涼子は深くため息をついた。休暇が終わってしまう気分だった。身の周りの世話だけしていれば、ご機嫌な圭太と二人の時間は穏やかに過ぎた。声を荒げそうになるのを抑える必要もないし、どこか反抗的な娘の目に怯む必要もない。まだ赤ちゃんの弟を連れて、塾やお稽古ごとの送り迎えをする必要もないし、時間にどこか追われることもない。
何で赤ちゃんには手間がかかるということを分かってくれないのだろう。美咲は、弟の圭太がまだお腹にいたときから、どことなくおかしかった。簡単なことができなくなった。なんでも自分でテキパキできた子なのに、しなくなることが増えた。できないならまだいい。できることを何でしてくれないのか、泣きたくなる。
お人形さんのように可愛らしいと、誰からも言ってもらえるくらい笑顔がたっぷりの娘だったのに、怒りっぽくなった。
十歳というのは、女の子の山場だと誰かが言っていた。美咲のようにほっそりとスレンダーな娘は、もうニ、三年は女の体にならなくて済むだろうと思っていたけれど、もしかしたら早くに生理が始まってしまうのかもしれない。ホルモンバランスが激変するせいか、『生理が始まる前の一年くらいは、女の子って扱いにくいわよ』とは、美咲の幼稚園時代の先輩ママが言っていた。
とにかく、油断ならない。目が届かないところで赤ちゃんをつねる。一度は血がにじむほどに爪をたてた。なのに、あの子しかいないのに「知らない」と言った。あのときはゾッとした。美咲はこんなに恐ろしい子どもだったろうか。
髪の毛の束を口に入れる。人形を縛る。『人さらいにさらわれてるの』と言って椅子に縛りつけられている人形を見たときはぞっとした。私の天使はどこに行ってしまったのだろう。
正直言って、この一週間は平和だった。あの馬鹿で下品な塩屋さんところの問題児に乗せられて、近所や学校まで巻き込んで大騒ぎをして探させて、心配させて。先生や近所の奥様たちに頭をさげて。こんなに恥ずかしい思いをしたのは、本当に生まれて初めてだ。
だけど、そのあとの今日までは、嘘のように平穏な毎日が続いた。
私に余裕があるからか、圭太はいつも以上にニコニコと笑い、穏やかに眠り、おっぱいをのんでげっぷを出す。本当に可愛い。
そういえば、美咲の時は何もかも初めてで、緊張していた。息をしているのか、ちゃんと育っているのか、心配で心配でちょっとビクッと動かれるだけで不安になったっけ。
何度こんなふうに『可愛い』と思っただろうか?
帰ってくるなとは言わない。言わないけど、はっきり言って気が重い。もう少し先でもいいのにと思う自分が心底厭だ。どうやって迎えればいいのだろうか。抱きしめたらいい? 叱ればいい?。甘やかしすぎたのだから、お尻くらいは叩いてやらなければいけないだろうか。
それとも、育児サイトに書いてあったように、赤ちゃんがきて寂しいのだから、存分に甘えさせてやらなければならないのだろうか。あんな大きな子を赤ちゃんのように抱っこしてあげるの? 正直ぞっとする。
それに、迎えに行くときは、あの塩屋崇のママと顔を合わせなければならない。遊星君ママは悪くないけれど、あの人は、いくら遊星君と崇が仲がよいからといって、塩屋さんへの評価が甘すぎる。
子どもを育てるのは家族がいたって大変だ。結婚もしないで子供を産むような女に、立派に子どもを育てることなんか無理に決まっている。私だってできないのに。
ドロドロとしたものを抱えながら、お菓子を山盛りにした皿と、大きめのマグカップを小さいテーブルに置いて、涼子は総合端末にいつものテレビ会社配信画面を呼び出した。
美咲には、こんなジャンクなものは食べさせられない。自分も母乳を出している間は、本当はこんなもの、食べないほうがいいのは分かってる。けれど、いつもいつも手料理に手作りお菓子は疲れてしまう。体にいいもの。優しいもの。ちょっとくらい高くてもやりくりして選んで、頑張って作っているのに。
おからのクッキーを残して出掛けて行った日に、公園で崇君と下品な味付けの袋菓子を食べていたこともあった。なんで分かってくれないんだろう。もう高学年なのに。なんで、私がやめてとお願いしていることをするのだろう。
──なぜ、こんなことが起こったのだと思われますか?
いつもなら、くだらない話に笑い声が聞こえるはずなのに、やけに深刻そうな声色だ。
画面に目をやると、肩に「事故か? 住人の安否は?」「LIVE」と書かれている。
「やだ。知らなかった。大きな事故みたいね。『思われますか』って、馬鹿みたい。皆でわいわい騒ぐだけで。コメンテーターって頭悪いって、みんな気がつかないのかしらね」
独り言を口に出して、涼子はミルクをタップリ入れたコーヒーをすすった。カフェインはダメなんだけど、これだけミルクを入れているから大丈夫。
──計算上は大気圏で燃え尽きるとのことですが、地表に激突する可能性があるのなら、破壊することになるんでしょうか。
──……の人口は、約八千ですから、それを破壊するということはないかと思います。
「大気圏っていうことは、地球のことしかないよね。私たちの地球に、また何か人間の作ったものが害を与えるのかしら。厭なこと」
チョコレートをつまむ。甘いものは好物なのだが、美咲に食べちゃダメと言っている手前、おおっぴらに食べることは普段はできない。美咲が帰ってきたら、こんなふうに堂々と食べられなくなる。なんでこの年になって隠れ食いするのか、自分でおかしくなる。
──このような事態がなぜ発生したのか、専門家の……先生に、お話を伺ってみたいと思います。……先生、先生はネオシャンガンの宇宙航空大学で十年前まで教鞭をとっておられ……
「日本語は『とっていらっしゃいました』よね。普通。本当にいつも、この女の子の表現って変なのよね。こんなの使うなってクレーム行かないのかしら」
馬鹿馬鹿しいから、他の番組を見ようとしたが、どこもコメンテーターだのゲストだのの顔触れが違うだけで、同じ事件を扱っているようだ。一体、どこの何が、地球に落ちると大騒ぎしているのだろう。
──原因はまだ分かっていませんが、サンガから脱離した、この脱離という表現も珍しいですね。ジョイントが外れて離れてしまったということでしょうか。分かりやすく言うと。
「サンガ? ここの話? いやだ、どっかのコロニーの事故じゃないの?」
初めて涼子は画面を真面目に見つめた。左肩に文字が変わった。
『ライダー・プール、地球に落下か?』
手が震える。目が文字を理解しようとするのだが、画面を滑ってしまう。何度も何度も画面を読もうとする。
ライダー・プール。地球に落下。
「み……、美咲。ど、どうしよう。美咲がいるのに。あそこに美咲が……いるのに……」
自分でも可笑しくなるくらいに手が震えている。マグカップのミルクコーヒーが冗談のように派手に零れて、お気に入りの白いスカートにしみを作る。
「どうしよう。……どうしたらいいの? 美咲ちゃん。美咲ちゃん……」
手が震えたまま携帯端末に無意識に伸びた。美咲の友だちだから、仕方なく聞いたママ友たちの番号一覧画面を呼び出す。遊星ママ? 違う。こんなときは、おっとりしたあの人より、気に入らないけど、しっかり仕事されてる、あの人?
「どうしよう……。早く助けないと。美咲が死んじゃう。……どうしよう……。どうしよう……」
* * *
営業職は厳しい仕事だ。ノルマを達成。評価も来るが次のノルマはもっときつくなる。評価を下げられたくなければ休む暇がない。どこかで頭打ちになるはずだが、何とか踏みとどまっている。
今回もノルマをちゃんと満たせば、次の四半期のノルマは考えたくもない。限界だ。
パイの大きさは決まっているのだ。営業は、学歴や立場を問われない。とにかく契約をとってくれば勝ちだ。一人で子育てをするなら、大変だからといって仕事を選んでいる暇はなかった。赤ちゃんの時から保育所に預けて、学校に行ったら学童保育と公園で野放し。会議や付き合いで遅くなると、崇はいつも一人で食事を取る。でも可哀相だなんて言ってられない。
崇もこれから大きくなるのだ。頭がとびきりいい子なら問題はないのだが、学期ごとにくる通知表のコメントにはいつも『落ち着きがありません』と書かれてしまう。成績表だってバカでもとれる真ん中より、下の数字がついている。男の子なら学校へ行かなくていいとは言えないし、私学に進学させるならお金はいくらあっても無駄でない。
その時、携帯端末が激しく音を立てた。会議中の全員の視線が集中する。しまった。切っておくのを忘れた。ひとつ大きなポカだ。誰、こんな真っ昼間に携帯を鳴らすアホは。
この一週間、崇がいなかった。学校や塾から呼び出しが来ることもないし、そうなると仕事用の端末以外はほとんど使うことがない。うっかりそのままにしてしまっていた。それにしても、昼間は私が電話にでないことくらい、誰でも知っているはず。
ぶつくさ心の中で悪態をつきながら画面を見て、塩屋さとみは天を仰いだ。あの化粧をがっつりしてる顔が思い浮かんだ。いつもの真っ白な、乳児の子育てしているママにはとても見えない可愛い服。美咲ちゃんのママだ。
美咲ちゃんはいつも崇と遊んでくれる。ちょっと落ち着きがない崇をちゃんと抑えてくれる、本当に賢いし優しい子だ。あの外見ばっかりの女から、どうしてあんないい子が生まれてくるのか不思議だ。
赤ちゃんが生まれて、男の子が可愛いのは、自分だって男の子を育ててるから分かる。分かるけど、あれだけ美咲ちゃんが全身で寂しいと訴えているのに、全然気付いてやれないのだ。それでいて、バイオリンやピアノやバレエ。それから英語。お稽古三昧。たまにサボって崇と遊ぶのくらい大目に見てやればいいのに。
今日の夕方に崇をライダー・プールへのゲートに迎えに行くのに、一緒に行こうとは約束はしていたけれど、いくらなんでも早すぎる。
「もしもし。塩屋です。越智さん。申し訳ないんですけど会議中ですので、後ほどかけ直しさせていただいて、宜しいでしょうか?」
今アプローチをかけているお宅の、ちょっと訳がわからない奥さんだと、後で主任に言い訳しておこう。
――どうしよう。ねぇ。どうしたらいいの?
訳がわからない人だとは思っていたけれど、ちょっと酷い。どこまで壊れているのだろう。さっさと切らないと。
「すみませんが、後にしてくださいませんか?」
──ねぇ……。テレビ見て……。お願い……、ねえ、どうしましょう。
テレビを見ろ? こっちは仕事中なのに。いくらなんでも、正気じゃない。
でも……。
越智さんはいつもおかしいけれど、決して非常識じゃない。どちらかというと、むしろ常識人ぶって、人の非常識をあざ笑うのを生き甲斐にしているみたいな人だ。
「越智さん? どうしました? あの、どこかお加減でも悪いんじゃありません?」
──どうしよう。あの子たちが死んじゃう。……美咲が……いるのに。美咲が、いるのに。死んじゃう……
「美咲ちゃんが死んじゃうって、どういう意味です? 越智さん。ちょっと大丈夫ですか?」
声が自然に大きくなった。営業会議中に私用電話なんて、そうでなくても心証が悪すぎるのだが、何かおかしい。どうにも落ち着かない。
──ライダー・プールが、地球に落ちちゃうんですって……。燃えちゃうんですって。プールが燃えちゃったら美咲も、崇君も遊星君も……燃えちゃうわよね。……どうしましょう。
体に雷が落ちるほどの衝撃という表現を、生まれて初めて体感した。ライダー・プールが地球に落ちる? そんな馬鹿なことあるものですか。テレビ。テレビを見れば、やってるの? 崇も遊星君も死ぬなんて、そんな馬鹿馬鹿しいことを。
「部長、すみません。ちょっと失礼します」
壁面の総合端末にテレビ番組を呼び出す。
「塩屋さん。テレビなんか家に帰ってからにしてくれないか? 会議中に、君のようなトップセールスがそんなんじゃ、示しがつかない……」
──地球に落下が確実となったテラとの窓口となる港湾施設、通称ライダー・プールが今取っているのがこのコースなんですね。先生。それで、高度が維持できていないのは、明らかなんですね。
主婦向けの料理や買い物の情報を垂れ流す番組ばかりのはずのこの時間帯なのに、報道番組のような物々しい雰囲気のスタジオが映り、さとみの不安を煽った。
――私たち素人の感覚では、大きいものをこう下から何かぶつけてですね、大気圏に突入する角度を、大気圏に弾かれる角度にまで押し上げて変えるとか。あるいは、何かで吊り上げるとか、そういうことができないものかなと考えるわけなんですが。このようなことは、実際、難しいんでしょうか?
専門家然とした男性に、誰が聞いても「そんな簡単なわけがない」と思える質問を、アナウンサーの女の子がした。
──理論的に吊り上げるというのは不可能です。港湾都市コロニー・サンガの埠頭施設と言っても、直径約400メートル、外周約1200メートルですからね。構造・設備だけで約1万トン。そこに食料、飲料水、生活用水雑貨等と、総質量は概算でおよそ5万トンです。
ここに、わずかですが、お住まいの皆さんの概数で八千をかけた重量が追加されます。一般居住区ではないので、18才未満のお子さんと、お年寄りがいないので、平均体重を約70キロで計算すると……
子どもがいるわよ、今は。バカ崇と、美咲ちゃんと遊星君、三人もいるのよ。
さとみは唇をかみしめた。
──では、下からぶつけるのは?
ぶつける、ですって? 何で。何を?
──そうですね。ぶつけて角度を変えさせるほうが可能性としては、まだありますが、現実的かと言うと、なかなか難しいでしょう。
外のこの居住区であるドーナツ部分を破壊しないで軌道を変えられるだけの質量を当てることはできないので、そのぶつける地点にいる人たちの命に関わってきます。そうする判断は難しいでしょう。
──ぶつけるポイントを通知すれば移動できるのでは? あと人がいない場所も探せば見つかるのでは?
専門家らしき男性に質問をしている女の子が食い下がった。
──おそらく緊急遮断壁が作動していると思われますので、無人の区画を見つけるのは無理でしょう。ですので、今言われた案では、そこにおられる方々が生き残る可能性を捨てることになります。
全員が死亡するより、少しでも救える方策とは言えますが、落下が避けられない状態になるまでの時間制限を考えると、なかなか政府も難しい決断を迫られることになるかと思います。
──人が明らかに住んでいないところはないんでしょうか?
──おそらく、元々サンガと繋がっていた回転しない中心部と、ドーナツ状の輪っかと繋がっているカプセルシューター式のエレベーター部分、このあたりの倉庫群は限りなく人が少ないことは確実に言えますね。ただ、このチューブは硬い構造体ではないですからね。
ドーナツ部分に当てるより、軌道修正させるために必要な質量が必要になるでしょう。
──軍や消防がレスキューに行くのはどうでしょうか。
──アクションが取られているかは分かりませんが、八千という数字は大きいですからね。そう簡単に初動はとれないのではないかと想像します。
──でも、一刻を争うならぱ、もう動き始めないと間に合わないのでは?
──もちろん、そうです。ですが、消防、警察の動きは観測されていませんし、政府記者会見の情報もありません。あと可能性として、軍に緊急出動中要請が出されているかもしれないです。
──救援が間に合わず、ライダー・プールが落下してしまったら、どうなりますか?
──ライダー・プールは大気圏突入時のような過酷な条件での耐熱性能は持っていません。かけらが地球上に到達することも、ほぼないくらい、全て燃えてしまうのではないかと予想されます。
さとみの手が震えてきた。
救援が出るかわからない。時間がない。……すべて燃えてしまう?
──では、軍が出動したとして、できることは何でしょうか。
──時間が許す限りでの住人避難くらいでしょうか。先ほどご説明したナビリンクシステムがある桟橋のロボットアームへの接岸は期待できませんので、救援機を接岸させるポイントとしてなら、中間倉庫群は機能すると予想されます。
倉庫にレスキューシップが突っ込むってことよね。このオヤジが抜かしているのは。そう思った刹那、さとみの震えが不思議なほどぴったりと止まった。
「馬鹿言わないでッ。このドアホ。倉庫には崇たちがいるのよっ」
さとみの声は絶叫だった。叱責しかけた営業部長も画面に釘付けになった。
いぶかしげにさとみの様子を見ていた、後輩のセールスレディーが、さとみの一言で凍り付いた。
たしか小学校の高学年になった塩屋さんの息子さんが、冒険と称してコンテナに紛れ込んでライダー・プールに出掛けたという事件があった。あのときも、突然、塩屋さんが呼び出されて、彼女は怒り心頭に発すという様相で退勤した。
次の日、お昼を食べながら愚痴を聞いた。
Gショックで死にかけたらしいとか、主犯がうちの息子らしいので、どうママ友に謝ったらいいのか気が重いとか、いろいろ話してくれた。
そして、男の子はなんでこんなに落ち着きがないのかと、溜息をついていた。
なんでも、サンガの居住区に地球産の病原菌を持ち込まないために、総合ワクチンを打ってから一週間もライダー・プールからは出られないらしいと。今は回転軸に近いMG並の低重力の倉庫に、缶詰にされているのだと言って、困ったといいながら豪快に話してくれた。
夏休み中、珍しく手がかからず、児童館にせっせと通っていい子に過ごしていたと思ってたのに、休み明けにとんでもないことをやらかすんだから、全く、油断ならないのよ、子どもは、とか。
シングルママであることを彼女は隠さない。むしろ一人で育てていることに、自負さえ持っていそうだ。あけっぴろげな性格で、気持ちがいい。そんな女性なのだ。
さとみが目の前でかかってきていた通話を一方的に切った。即座にテレビ画面にある『ご意見はこちら』のQRを読み取り、迷いなく通話を押した。
──あ。視聴者のどなたからか電話ですね。ちょっとお話してみましょう。
「無人じゃありませんっ」
電話が繋がるなり、さとみは絶叫した。ほぼ同時にテレビからさとみの声が聞こえてくる。
「いい? そこにはうちの子がいるの。いつも無人かもしれないけど、無人なんかじゃないの。あんたたち、うちの子を殺す気?」
──え? あの、お名前をどうぞ。あの、どういったご意見ですか? あの、電話番号をお間違えになってませんよね?
進行役の女の子が露骨に困った顔をしている。裏方のスタッフがまず取ると思っていたさとみも驚いた。
「画面のQRからよ。いい? うちの馬鹿息子が友だちを誘って、ライダー・プールに冒険に行ったの。育て方間違ったかもだけど、でも優しい子なのよ。MGの子がテラGにいきなり行って、無事に済むわけないでしょ? それで、168ルールに引っかかっちゃって、そこに保護してもらってるの。ちょっと聞いてる?」
──先生。168ルールって……何でしょう?
失礼なことに女の子は、さとみにではなくコメントをしていたらしい専門家のほうに聞いた。
──地球との往復が頻繁な職種の人たちは、どうしても地球産の活発な病原菌の媒介者になりがちなのです。それで、ライダー・プールはGの違いだけでなく、サンガ本体とは隔離されているわけです。この施設からサンガへのゲートをくぐるには、ライダー・プールは潜在的に病原菌に汚染されているだろうという前提になっていまして、総合ワクチンを接種してから約一週間の間はサンガへ来ることはできないのです。それが168ルールと呼ばれるもので……。
どこかの教授がそこまで説明すると、ただの主婦が発した168ルールという言葉が俄然重みを持ってくる。一般に知られている習慣でなければ、そういう事実があるというのは眉唾ではない可能性が高くなる。これは、スクープかもしれない。鴨が葱背負ってくることも世の中にはあるのだ。
──奥さん? あのお名前をお願いできますか?
奥からディレクターのような男が出てきて呼びかけてきた。
「学校にでもなんでも問い合わせて。私は塩屋さとみと言います。そこにいるのは、第四学区の第三小学校の五年生。小柳遊星君。十一歳。うちの馬鹿息子、塩屋崇と、友だちの女の子、越智美咲ちゃん、十歳よ。ライダー・プールのゲートに問い合わせればすぐ分かるわ。今日夕方迎えに行くはずだったんだから」
──こりゃぁ、どえらいことだぞ。
男の声が心なしか楽しそうに聞こえて、勘に障った。
──視聴者の皆様。当放送局は事実確認を早急にし、子どもたちがいることが事実であれば、国と軍に即刻、最優先での救出活動を要請します。どうぞ、続報をお待ちください。チャンネルはそのまま。
* * *
遊星ママ、セシリア小柳はせっせとベランダのプランターの手入れをしていた。遊星は同じ年頃の子と比べて大きいせいか、とにかくよく食べる。朝御飯を食べながら、夕御飯と給食のメニューを気にするような食いしん坊だ。
長男はもう専門大学生で寮暮らしをしている。この一週間、パパと二人で食べる夕食は、なんだか味気なく、いつもより少なめに炊いたご飯も残りがちだった。冷凍ご飯の塊が随分増殖してしまった。もっとも、遊星さえ帰ってくれば、おにぎりにでもしておけば、いつの間にか無くなっているはずだから、心配することはない。
パパが多分、たっぷり遊星の油を絞ってくれるだろう。せめて夕御飯だけは大好物を用意しておこうと朝から張り切りすぎて、思ったより早く、支度が済んでしまった。
食事以外は手間がかからない遊星だが、やはり、帰宅時間を気にしたり、塾への送り迎えなど、けっこう時間は細切れになっていた。遊星が赤ん坊の時はせっせとやっていた趣味の編み物を、ちょっと暇に任せて始めてみれば、やはりもともと好きなだけあって面白く、時間は飛ぶように過ぎてしまった。
来年の修学旅行は、毎年そうだからグラスシップに乗って低軌道周回の地球観察と、北米コロニーのプレイランドといったところだろう。学校でいくそれだって、たった二泊。(移動があるからもうちょっとかかるけど)おにいちゃんの方がやんちゃだで手がかかった覚えがあるのだけれど、あの子が趣味にしていた家出だって半日がいいところだった。
まさかあのおとなしい遊星が、わざわざ夏休みが終わってから、一週間も計画的に学校をサボるなんて大胆なことをやらかすとは、これっぽっちも思っていなかった。男の子はまったく油断がならない。
越智さんのベランダや玄関先のポーチには、色とりどりの花が咲いているが、うちのベランダにあるのは、全部食べられるものばかり。ミニトマト。きゅうり。なす。お米の袋に穴をあけて大根。ちょっとおしゃれな花はハーブ類。ミント。ローズマリー。セージ。遊星がいつつまみ食いをするかしれたものでないので、農薬なんかは使えない。全く遊星と虫と競争で食べちゃうのだから、まともなものを収穫するのは大変だ。
こんな自然と隔絶したスペース・コロニーまでやってきて、いつの間にかびっしりとついているアブラムシの健気さには頭が下がるけれど、息子の為に作っているベランダ菜園なのだ。ムシごときにやるエサではない。
セシリアは親指と人指し指の腹を合わせて、茎についたアブラムシをすりつぶした。バッグの中に入れっぱなしの携帯端末が鳴っているのには、全く気付かなかった。
それでも、呼び鈴がけたたましく連打されれば流石に気がつく。もうちょっと虫退治をしてしまいたかったが、仕方がない。でも、そんなふうに問答無用に呼ばれると、急いで出る気は無くなってしまう。彼女は丁寧に手を洗ってから応答した。
「越智さんに……、塩屋さん?」
性格が違うといってしまえばそれまでなのだが、この二人の反りの合わなさには、いつも半ば呆れているセシリアだ。並んで玄関前にいるというだけで驚きだ。大体、子どもの用でこの人たちと一緒の所に出掛けざるを得なかったとき、自分はいつもサンドイッチの具になっている。
喋るのは私と越智さん。私と塩屋さん。この二人は滅多に喋らないのに。ああ、そうだ。遊星を迎えに行く時間になっていたのかもしれない。
つい虫退治に熱中しすぎたのかも。でも、いくらなんでも……そんなにしてたかしら?
壁にかかった時計の針はまだ三時。集合時間はたしか五時で間違いなかったはず。越智さんだけなら、行く前にお茶でもしましょうと、手作りのお菓子をもって早めにくることも、全く無いとは言えないけど、連絡なしに来るようなことはされたことがない。それに塩屋さんはがっつり仕事中のはずだ。
セシリアは玄関を開けて、思わず足を止めた。
いつもは白い服がトレードマークの越智さんが、今日は顔色まで真っ白だ。
そして、そんな越智さんを支えるように塩屋ママがその繊細な肩をしっかりと抱いている。
しかも越智さんは塩屋さんの服をすがるように握りしめていた。
いつもなら、はじき合う磁石も負けるくらい、お互いを遠ざけてばかりの二人なのに――。
何かあったんだ? でも、いったい何が?
分からないままに、鼓動が速くなる。
「ニュース。……ニュース、見てない? テレビのトークショーでも……」
ニュース? トークショー?
「お邪魔していい?」
塩屋ママの勢いに押され、自分の家なのにセシリアはとっさによけて廊下を通りやすくした。
「美咲ちゃんママ、しっかり。私たちがちゃんとしないと。今すぐ、圭ちゃん連れてくるから。遊星ママ、ソファ貸してください」
セシリアがいいとも悪いとも言わないうちに、さとみは越智さんをソファに座らせて、またダッシュする勢いで飛び出て行った。
――ああ、そうか。圭ちゃんを迎えに行ったのか。
ぼんやりとセシリアは思った。
「わ、私が……帰ってくるのが、気が重いとか思っちゃったから……私が……」
……涼子さんの言葉は理解できないけど、とにかくニュースね。
端末をテレビモードにするまでもなく、崇君ママからの着信記録が目に入った。
──プールで事故。地球に落下するみたい。
え、何それ……。
── 消防か軍がレスキューシップで中間倉庫への接近を検討中だって。突入も選択肢に入ってるらしい
コントローラを持つ手が震える。
──テレビに行くわよ。止めさせなきゃ、子どもたちが死んじゃうわ。
遊星が、死んじゃう? 取りあえずもっと知らなきゃ。えっと、報道チャンネル……何番だっけ?
がんばってチャンネルを合わせるまでもなく、どこも報道一色になっているらしい。セシリアが震えをこらえつつスイッチを入れただけで見たい番組になった。
画面には地球とドーナツ型のコロニー模型。これを使って解説が進んでいるらしかった。
目の前で模型のドーナッツは地球に向かって落ちていった。コントローラがセシリアの手から滑り落ちて、カターンっと鋭い音を立てた。拾わなきゃと思ったものの、セシリアの目は地球に落ちていくドーナツから離れなかった。
── ここで速報です。ライダープールに小学生の子どもがいるとの情報が入りました。繰り返します。成人の働き手世代のみで構成されているはずのライダープールに、小学生がいるとの情報です。確認は急いでいますが、この情報によれば第四学区、第三小学校五年生の、男児二人と女児一人とのことです。
突然、チャイムの音が鳴り響いた。一瞬、セシリアは何の音か分からなかった。呆然と音のしたほうに目をやる。インターフォンが見えて、はっと我に返った。そうだ、崇ママが戻ってきたのだろう。慌てて駆け出す。
応答スイッチを押すやいなや、圭ちゃんのものだろう元気な赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
遊星にも赤ちゃんだったときがあったっけ。
ふと横切ったその事実は、セシリアにとって、何だかはるか未来のことと同じくらい遠かった。
おにぎりを美味しそうに頬ばる遊星。
トマトをつまみ食いしている背後から、こっそり近寄って呼ぶと、飛び上がって驚く遊星。
「置いてくわよ」って言うと、「待って」って慌てて言うくせに、全然急ぐ素振りがない遊星。
今すぐ捕まえて、抱きしめて、私の遊星がちゃんと生きていると確かめたかった。
