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3.エンジョイ・トレーニング

 耳に大音量のビートがこぼれるくらい詰まっている感じだった。いきなり運動を停止したら心臓に過負担がかかる。そんなことは百も承知で、俺はフロアに勢いよくのびた。

――お疲れさまでしたっ。
――ナイスファイトでしたっ。
――また来てくださいねっ。
――お待ちしていますぅっ。

 とっくに消化されたはずの昨晩のマグロが、胃からせり上がってきそうなほど、きつかった。
 激しくて軽快なリズムにのって、キックだの、パンチだの、ジャンプだのを、むさ苦しい大の男たちが繰り返す。
 しかも、前で動きまくる女の子を一生懸命追いかけて、暑苦しい雄叫びまであげながら、保育園児のお遊戯よろしく、みんなそろって踊るのだ。
 狂気としか思えない60分が過ぎ去った。

 飛竜は隣で嬉々として元気一杯に飛び跳ねていた。いつものようにその無邪気さをからかう元気すら残っていない。
 最初に「インストラクターの」と自己紹介したのは、きりっとした目つきが印象的な、小柄な女の子だった。
 こんな可愛らしい雰囲気のどこから、あんなドスが効いた声がでてくるのだろうか。音量があってよく通る迫力ある声が、広くもないトレーニングフロアに詰まった男たちを煽り立てていた。あの小柄な体に、クソ激しい動きをテラGでやるエネルギーがあるとは不可思議だ。
 トレーニング・ルームから出て行く男たち一人一人に歯切れよい声で、小気味よく挨拶していくのが遠くに聞こえる。マズい、マジで意識が飛びそうだ……。

     * * *

 ライダープールというのは、一つの部屋や施設の名称なんかではない。小規模だが、それだけで立派に宇宙植民地(スペース・コロニー)として独立できるほどには街として整っている住居区画だ。人間らしく生きていくために必要な最低限の施設は一応そろっている。
 宇宙空間にある建造物としては何より異例なのは、テラGが採用されていることだ。これは、地球という重力圏と往復せざるを得ない連中の身体能力が、宇宙のスタンダード、MGで勝手に減退しないようにするための配慮だ。
 環境大破壊というカタストロフィーを、地球からほとんどの人間を宇宙植民地(スペースコロニー)に移住させるという、気が遠くなるような巨大プロジェクトを、先代の人類は遂行した。その過程で娯楽施設の類は地球から基本的に追い出された。もちろんコロニーにはなかなか構築しきれない自然のありのままを満喫するなら、地球が唯一無二のプレイランドだ。今、人工的な楽しみは宇宙だけで花開いている。

 昨夜、俺は霧島飛竜とつれだって、プールのスケールによく合ったミニチュア版歓楽街に出かけた。中でも高級感漂う寿司バーに入り、金に糸目をつけず贅沢に飲み食いした。普段は人間が棲息していない宙域でロスコン(ロスト・コンテナ)を追いかけるという、途方もなくジミな仕事をしているのだから、遊ぶ場所などない。
 それでも一応、極東アジア軍の正規の給料をもらっているのだ。なのに使う場面が無い(衣食住は全部官給品だ)。もともと食いっぱぐれて軍を選んだはずなのに、いつの間にか小金持ちと言えるくらいには貯金が溜まってしまった。
 たまには吐き出させてやらないと、貯金の健康状態によろしくない。水だって金だって、流れる特性のものは、どんなもんでも流してやらないと、すぐ腐るからね。
 もちろん、景気よく呑み倒すつもりだったが、ふだんは飲めない職場だ。久しぶりの酒に酔いはすぐ回って、あっけなく記憶が途切れた。それでも人間と一緒に仕事をしなくなって何年にもなるから、異種タンパクを入れたり出したりする必然を持っている生き物と一緒に飲み食いするのは、大いに楽しかった。
 それに潰れたところで迷惑をかける相手が飛竜なら、ちっとも良心が痛まない。普段、金の使いようがないから、たまには奢るとうっかり言ったら、ウワバミ野郎が遠慮もせずにクジラ化しやがった。普段から飲み慣れてる奴が羨ましい。俺ときたら奴の半分も飲んでいないのに完全に酒に呑まれた。

 飛竜は、実家の一族が経営している会社の所有する独身者用コンパートメントに住んでいるらしい。目が覚めたのは奴の殺風景な部屋の床だった。久しぶりに会った、古くからの親友のはずの俺を、酔いつぶれていたとはいえ床に転がして、自分はいつも通りにベッドに寝ていたわけだ。この極太の神経は許し難い。ひとの財布で飲み食いした癖にずーずーしい奴。
 すやすやと気持良さそうに眠っている飛竜の眠りを邪魔したくなって、たたき起こしてやった。眠りを邪魔されて不機嫌そうに睨んできた奴に、「約束通り、テラG下で運動しようぜ」ともちかけたのは、間違いなく俺だ。
 だけど、今の俺の耐G能力は、MGの感覚すら、ようやく取り戻しかけたレベルだ。
 手始めにウォーキングマシンや筋トレマシーンなんかを使って、二日酔いの頭をなだめつつ、ゆるゆるとテラGに馴染んでいく程度のつもりでいた。
 それなのに、飛竜の奴は眠りを邪魔された腹いせか、パンチやキックなどの格闘技の動きを取り入れて野郎向けにアレンジしたハードな有酸素運動(エアロビクス)に俺を引きずり込んだ。
 もっとも、マシンジムと違って、仮想ターゲットに攻撃の真似をするだけだから、ゼロGでなまり切った筋肉にはかえって優しいかもしれない。そうはいっても、俺の心肺機能はとことん劣化してんのだ。やっぱり嫌がらせとしか思えない。気持ち悪ぃ……。

 俺が所属している極東アジア国軍の上層部から、重力コントロール・ユニットの実験に参加せよとの命令書が来ている。筋力トレーニングや骨を頑丈にするサプリメント連続投与期間を設けることなく、人工衛星港湾都市サンガにある基地に可能な限り速やかに出頭せよと、あっさり書いてある。
 底辺で使い捨てられる消耗品とはいえ、俺は仮にも人間の看板をさげている。こちらに声がかかる前に、たくさんの動物さんたちが新しい装置を搭載したスペジャケ生地の(多分)袋詰めになってテラ・マスドライバーで打ち上げられ、星になったり、生還したりしているのだろう。取り敢えず、星になる動物さんが居なくなる程度の質には出来上がっているはずだ。
 それでも、計算って奴は間違うものだ。計画は頓挫するものだし、人間はエラーをしてからやっとこさ学ぶように出来ている。実験が失敗したら、多分命はないか、あっても半死半生になりかねない。そんな乱暴な実験のモルモットに選ばれて、「はい、そういたします」と誰が応えるというのだろう。リスクを減らしたがるのは人情って奴だ。不服従と規律違反で免役になるなら、この際しめたものだ。当座暮らしていく資金には不自由していない。

 そりゃぁ俺みたいなアホでも、多少筋力を取り戻していようが、骨組織に繊維が増えようが、ダテに長期間を宇宙人として過ごしていない。テラG環境に生身で適応するには一週間やそこらでは無理がありすぎるのは分かっている。重力不適合症を起こして心肺機能と代謝機能に露骨なトラブルが多発してしまうのは避けられない。下手したら死ぬ。
 相棒たちにはまだ俺が宇宙で元気に働いていることに見せかけるよう、データをごまかしてもらって(こういうことができるのが、新人ニューマンを相棒にしている利点だね……)、せこくMGで2週間、体を馴染ませた。
 それから、もそっとやっかいなテラGにとっかかってはみたものの、やはりMGとは別格で手ごわい。普通にしてるだけで、全方向から圧力がかかってるようなものだ。息するために肺をふくらませるだけのことが、そもそも大仕事だ。

 こんなヤワな生身をテラ・マスドライバーで打ち上げたら、見事にぺしゃんこに潰れちまうだろう。宇宙移住開始時期にコロニー群建造の推進役として名を残している篠田清子しのださやこが、悠長に訓練して民間人を宇宙空間に連れ出すより、テラ・マスで打ち上げてしまえという乱暴な構想を立てたものの、人の生存を保証できる技術の開発が間に合わず諦めたってシロモノだ。
 低コストで大量輸送が可能になるマスドライバー・システムも、最初は「月」辺りで実現されるだろうというのが多くの見解だったはずだ。地球の大気と重力はコストペイしないだろうと専門家は言っていたらしい。
 でも大気と重力がやっかいな地球にこそ、有人のシャトルシステムよりマスドライバーだと大胆に決めつけたのが、篠田清子だ。彼女が方向を指さして、極東アジア国が見切り発車で宇宙コロニー建造に取っ掛かったときは、まだ解決すべき問題が山積していたそうだ。
 こいつで打ち上げたあとのコンテナをどうするかという単純な問題すら、建造着手当時は目途が立っていなかったらしいから驚く。それでよくこのような巨費がかかるプロジェクトに「進め」をかけられたものだ。
 危急存亡のときには、驚くほど大胆にものごとを押し進める人間が必ず出てくるように、人類というのはできているらしい。

 プールでちょっとトレーニングしたって気休めにしかならないと、俺だって分かってる。だけど、俺のアホを笑ってる連中だって、実際にそんなトンデモ実験に協力せよと白羽の矢が立てば、見苦しくジタバタするに決まってるさ。当然じゃないか。
 俺の両親は旧式のコロニーで飼い殺されるだけの大衆だ。もちろん、スラム化した地域で、生まれるなり投げ捨てられる孤児みなしごに比べれば、それでも遙かにマシだけど、両親と同じように社会に養われ、ただ生きていることでいろんな物を消費するだけの人生へレールは敷いてあった。
 そんな下らない人生なんてクソ喰らえと思った。ちゃんと職業を持って働き、生産性のある労働力として、それなりに手応えがある生き方をしたかった。
 人間だから安直に殺せない、「ただ生きていろ」というようなコロニー暮らしから足を洗いたかったら、選択肢は限られている。自分がそうしたように、志願して軍人になるか、目指す職技能を持つ人に弟子入りするか、そのどちらかしか考えられない。
 学問で身を立てる(そうしたいとも思わなかったが)道もあるにはある。そちらへ進むには、学ぶ環境が身近にあったかどうかによると思う。時間を浪費するだけのコロニー暮らしは、頭を育てる環境として劣悪だった。
 一番門戸が広い、来る者を拒まない軍に志願した。人殺しは嫌だったとはいえ、一番一般的な戦闘員に配属されるだろうと思っていた。どっちにしろ今の戦闘はほとんどが遠隔攻撃主体で、ゲーム感覚でできてしまう。直接誰かの肉を切り裂く破目には陥らないと広報官は請け合っていた。
 それでも軍の公費から給料を支払われながら、航空宇宙専門学校に飛ばされたのは、直接戦闘するよりラッキーと思った。
 適性テストで振り分けられたのだとは思うが、べったりと軍の色を塗りたくられる事なく、専門学校で学べるというのは、予想してもいなかったが、嬉しいものだった。いきなり重装備を担いで人殺しの訓練をするよりは、余程有り難い。
 軍のパイロット養成コースではなく、民間の専門学校送りになったところで、自分はちゃんと認識しておくべきだった。文句なくカッコいい戦闘機のパイロットではなく、地味な物流部門の後方支援要員として振り分けられちまったっていう、情け無い現実を。多分あれが間違いの始まりだった。

 挙げ句の果てが、宇宙人と皆から揶揄される、MGどころかゼロG環境で、捕食者(プレデター)がロスしたコンテナを、ちまちま拾うスカダーに落ち着いた。男はガキを自分の中で育てなくて良いから、人生のパートナーを見つけるに当たって、筋力の滅消など大した障害にはならないが、生殖に問題がなくても、異性との出会いの面で完全に人間社会から遮断されているという社会的大問題がある。
 可哀相に、俺の恋人居ない歴の新記録更新は止まる気配もない。まったく、運転手育成機関の新香港航空宇宙船操船学校(NexGASS)時代は、本当に人がいっぱいで面白かった。
 アストロノウツ候補生は、文句なしにモテた。飛竜のように霧島運輸の御曹司で、すこぶるつきの美男などという箔がついていなくてもだ。自分がいたミッションスペシャリスト(MS)科だって普通に遊ぶ相手には不自由しなかった。

 スカダーのチームメイトは二人の新人ニューマンだ。新人は人間関係が微妙で過酷な状況では思考回路に異常をきたしやすいらしいが、単調な繰り返し労働には耐性がある。
 連中は生産性に乏しい、単純労働を「なぜ自分がしなければならないのか」という、つい人間が抱きがちな悩みとは無縁らしい。ただ、維持にかかるコストが莫大なため、極東アジア国軍は表向き、数年前の戦争を契機に新人の使用を全廃したことになっている。
 だが、人類可住域の完全な周辺で暢気に荷物を拾い続ける単調な職業では、トラブルの前例は一例もない。馬鹿高い初期費用をかけて導入した新人を廃棄するのも勿体なかったのか、俺が働いている現場では未だに現役だ。
 その俺の二人の相棒も気がよくて、どんなに代わり映えしない毎日が繰り返されても、淡々とルーティンワークを捌いていく。愚痴もなく、神経を病むことなく、安定していて信頼できて……、頼りになる奴らだ。

     * * *

 ふいに、後頭部に冷たいタオルがあてられた。タオル越しに感じる掌の重さが心地良い。沸騰しちまった血液がそこで冷やされるのか、めちゃくちゃ気持ちがいい。思わず安堵の溜息が漏れる。この心遣いは有り難い。こんな優しさをみせてくれる時は、いくら俺だって、素直に飛竜に礼の一つもいってやるにやぶさかでない。

「ナイスファイト……でした。タカさん」

 ひんやりと気持ちよいタオル越しに添えられた手が、ごつくてデカい飛竜のではなく、繊細な女性のものだと気付いたのは、その声がすぐ後頭部から降ってきてからだ。慌てて寝返りを打って身を起こす。首から落下しそうになったタオルを、滑り落ちる寸前で上手くキャッチして声の主を探った。あのドスが効いた声の、お姉さんインストラクターだった。普段の声は、こんな風に可愛らしいのだと思うと、正直、意外だ。
「……ど、どうも。仕事でも……そこまで見えすいたお世辞は、言わんで良いですよ。締まりゼロの手足と腹。魅力なんて、ゼロ通り越してマイナスだし」
 情けなくたるんだ腹や手足を見る。太ってはいないが、締まりというものが全くない、男としての魅力なしの体つきだ。ルナGに棲息する、仕事もしないような連中と並べば、特に見劣りしないだろうけれど、先程まで一緒のトレーニング・プログラムをやっていた連中は肉体美の見本のような輩ばかりだ。
 彼女はにっこりと微笑んで、首を振った。
「タカさん、ゼロG上がりなんでしょ? MG馴らしだって突貫工事で来たみたいってキリーさんから聞いていて、ラスまで絶対、もたないと思ってたの。ビックリしたわ」
「キリー?」
 俺が聞き返すと、女が面白そうに笑いながら言った。
「霧島さんのキリでキリーさん。なんか、竜とか虎とか、任侠小説の登場人物みたいな名前、気に入らないんですって……」
 そういえば、飛竜の弟の名前というのもまた凄かった。同じ航空宇宙専門学校の3学年下の奴の弟は、飛竜さえ霞むほどの好男子で、その名前が翔虎しょうこ。あの霧島兄弟の名前は、上の字をとって並べれば「飛翔」。で、下の字をとれば「竜虎」。まったく、もう一人息子ができたら、どんな名前をつけるつもりだったのか、あるいは、男の子がもう一人生まれなかったら何人まで子どもを作るつもりだったのか、一度でいいから直接オヤジさんに聞いてみたいと前々から思っている。
 ついでに、飛竜の上の三人のお姉さんの名前は、霧島運輸の現社長である松姫まつきさんしかはっきりと知らないが、残りの二人には、竹と梅がついている筈だ。「いにしえの名酒ですか」と、突っ込みたくなる。
 航空宇宙専門学校でも、見た目でも能力でも、家業がらでも抜きんでて目立っていた二人は「竜虎兄弟」などと一括りに呼ばれることに、いつも強い不満を示していた。
 俺と同じで、親からもらった大切な名前が気に入らないという罰当たりには理解を示さなくもないが、そうはいっても勇壮な「竜」なんだからちっとは満足しろよと俺は思う。飛竜の分際で「キリー」とは何事だ。まったくふざけている。

「おーっ。生きてるじゃん。すごいすごい」
 スポーツドリンクのボトルを手に重力室に戻ってきたキリーちゃんを見て、俺は意地悪く微笑んでみせた。
「キリーちゃん、それオレに?」
 飛竜の顔が思いっきり不愉快そうに歪んだ。
「そんな呼び方して、いいのかな? ゆうびちゃん」
 インストの女が一瞬目を丸くして、それからコロコロと楽しそうな笑い声をたてた。
「タカさん、ゆうびさんってお名前なの? ステキですね。字はやっぱり優雅に美しいって書くんですか?」
 俺が苦虫を噛みつぶす前に、キリーがにっこりと微笑んで割り込んできた。
「その通り。優雅に美しいで優美ちゃん。キレイな名前だからそっちで呼んでやって」
 俺は力一杯殴ってやった。テラG男に宇宙人がパンチを入れるのに、遠慮する必要は全くない。
「……痛いなぁ……。なんて硬いんだ」
 やっぱり俺の拳の方が負けた。クソ……腹の立つ。

 飛竜がドリンクのボトルを、俺の耳の下に押しつけてきた。ヒヤッと気持ちいいが、インストの子のタオルのほうが断然好みだ。ボトルを取りあげて捻ってキャップをとろうとしたがびくともしない。諦めた。こんな固いのは、宇宙仕様にチューンダウンした力では太刀打ちできない。黙って飛竜の目の前に突き返したドリンクボトルを、間に入った小さい手がかすめ取った。そして、指先だけ使って開封して俺の手に戻してくる。
「ゆっくり飲んだ方が良いですよ。一気にあおると吐いちゃいますよ」
「ありがとう。気をつけるよ。ところで、おねえさん」
「……なんですか?」
 今どき、ライダープールに棲息する男どもでも、若い女の子をつかまえて「ねえさん」呼ばわりするご時世じゃないのだろう。微妙にあいた間は、不愉快の意思表示かもしれない。
 けど、こちとら、ナマの女の子と間近にいるのはめちゃくちゃ久し振りなのだ。小振りだが、若さではち切れそうな、しかも、テラG仕様でとびきり上物の筋肉の魅力は、俺の煩悩をタップリ刺激してくれる。もうすぐ死ぬかもしれない身なんだから、今生こんじょう悔恨かいこんを残しちゃァいけない。
「俺、若い女の子とナマで話すの、5年ぶりくらいなの。60分頑張ったご褒美にほっぺにチューでもくれない?」
 言い終わる前に背後から飛竜の掌が後頭部に降ってきて、俺はフロアに問答無用で沈められた。クソ…身動きできねぇ。こいつに宇宙人に対する労りってのは無いのか?

「ごめん、ザキさん。アホダチで。こいつは普段人間と暮らしてねぇから、礼儀っていうか、常識ってのを完全にどっかに廃棄処分にしちまってるみたいで……。あとでちゃんとシメとくから、許してやって」
 飛竜の奴から「ザキさん」と呼ばれた彼女は、またしてもコロコロという形容が似合う、楽しそうな声をたててひとしきり笑ったあと、乱暴な飛竜の手を俺の後頭部からどけてくれた。
「了解です。ナイスファイトでした」
 驚いたことに、ザキさんは惜しげもなく柔らかい唇を俺の首筋に押しつけてきた。場所が場所だけにくすぐったいが、堪らなく気持ちいい。こいつは紛れもなく懐かしい、ナマモンの女の子だぁ……。

 それから、ザキさんはわざとらしく派手な音を立てて、冗談の意思表示をしてから俺の後頭部を3回ほどタッピングした。手加減はしてくれている筈だが、かなり衝撃がくる。痛い。もともとがアホの上にネジまで抜けそうだ。
「明日は90分プログラムなんですけど……。最後まで頑張ったら、リクエスト通り、ほっぺにしてあげても良いですよ」
「……いや。首筋でも十分気持ちよくて……、ナイス・キスでしたぁ……。ごちそうさ……」
 またしても言い終わらない内に飛竜の手が俺の襟首をとっつかまえて、強引に引きずりだした。いいですよ。どうにでもしてください。俺は今ちょっと感動しているのだ。
 飛竜に撤去されつつある俺をみて、ザキさんはまたしても可愛らしい顔を更に笑顔で上物にして、軽く手を振ってくれた。俺も人指し指と中指を立てて小さく振ってみせた。

「ザキさん……。まさか、こいつみたいなのが趣味だって言うんじゃないだろうな……」
 扉を出るときに飛竜がぶつくさと言っているのが聞こえた。なんだ、こいつ、あの女の子に惚れてるのか? ちっとマズったかもしれない。いくらなんでも、親友の恋人にちょっかいかけるほど俺のデリカシーはすり減っちゃいない。念の為確認しておこう。
「キリーちゃん。ザキさんに惚れてる?」
「彼女、シャトルライダーの中じゃ、ちょっとしたアイドルなんだよ。今の他の連中に見られてたら、お前、問答無用で半殺しにされるぞ……」

     * * *

 今日も耳を塞ぐような大音量。ザキさんの指示に合わせて、ハイキックだのローキックだのしている連中に、昨日と同じようにハッパをかけている。彼女が最初に「インストラクターのオザキです」と言ったのが今日は聞こえたので、ザキさんがザキさんと呼ばれている理由はよく判った。キリーといい、ここの連中はとことん単純に通称を決めるらしい。
 ザキさんはジャンプさせておいて、低く回し蹴りを喰らわせてきたり(彼女の足を踏ん付けないように、無理にでも高く跳ばなきゃ成らない訳だ)、ダッキングさせておいてエルボーを喰らわせてきたり(ちゃんと低く沈まないと、ノックダウンまでは行かなくても痛いこと必至だね……)、元気一杯に走り回っている。
「まだまだぁっっ」
 コロコロと同じ器官から、どうしてあんな声がでるのか、何度聞いても不思議だ。

「声聞こえないよぉっ。元気ーっ?」
 と、ザキさんが叫ぶと、「ウォォ」という男たちの怒声みたいな掛け声も音量がさらに上がる。やっぱり異様な空間だ。はっきりいって、ザキさんのチューに下心がなければ、ここにはお近づきになりたくない。
「ちゃんと息はいてっ。タカさん! 生きてるぅっ?」
 ザキさんが俺を名指しにすると、隣にいた野郎の目つきが危ないものになった。ザキさん、励ましてくれるのは有り難いですけど、俺……命はまだ惜しいんです。俺は仕方なく卑屈な笑顔を作って、不愉快そうな野郎の顔に会釈した。飛竜がいれば庇ってもらえるかもしれないが、今日は仕事で地球に突っ込んでいる。気象条件がよければ、明日に地球側の港(ポート)とサンガがミートする時間に出てくるはずだから、今日の護衛の用はなさない。
「あと4回、もっと跳ぶ。もっともっとぉ。高く、高く、高くだってばぁっ」
 ザキさんの肌にも汗が玉になって浮いている。Tシャツを脱ぎすててタンクトップになる。鍛え抜かれた筋肉が、そういう格好にはエラく似合う。みとれていたいが、俺は限界だった。……キツ……い。マジで死ぬ……。

 1テラGの人工重力をどうやって発生させているか。これはもう、スペースコロニー建造時の科学力の限界で(今もそうは進歩していないが)、遠心力しか選択肢は無かった。1MG程度の回転は、はっきり言って人間の感覚器官をそれほど苛めない。高速で移動する乗り物が危険すぎて使えない程度の不便さしかない。ところが、ライダープール程度の質量の居住空間に遠心力で1テラGを作り出すとどうなるか。足と頭にかかる重力が厳密に言えば違うという特殊すぎる環境になる。
 ライダープールというのはただでさえ宇宙酔いしやすい空間なのだ。そこでジャンプなんかした日にはどうなるか……。一応飛び跳ねた地点と落下地点は地球上での普通の運動で起こる誤差と同等程度の違いしかないが(ジャンプした地点に着地できるということ。めでたいでしょ?)、軌道がまるで違う。足が床から離れた瞬間に、円筒形のシリンダーの回転方向に対して正の方向に移動し、落下をはじめた途端に、それが負の方向に変化する。そして、ジャンプした高さの分だけ感じる重力(実質も)変化する。今日は昨日と違って二日酔いではなかったが、飛び跳ね出した途端に酔っぱらってしまった。胸がムカムカする。気持ち悪い。

「まだまだぁっ」
 ……ザキさん。元気すぎ。

――ナイスファイトでしたっ。
――お疲れさまでしたぁっ。
――次回もお待ちしていますぅっ。

 今日も遠くからザキさんが元気に野郎どもを見送る声が聞こえてきた。なんとかラスまで辿り着いたと……言えるだろうか? 一応立ってはいたが、最初から筋肉痛で千切れそうな体には、90分は最低に長かった。
 突っ伏している俺に、今日も彼女は冷やしたタオルを乗せてくれた。ザキさん、優しい。

「キリーさんに頼まれたから、仕方ないけど……、本当は宇宙人さんにはこのプログラム凶悪過ぎますよ。適当にサボればいいのに、タカさんって、もしかして物凄く……意地っ張り?」
「馬にニンジン……。狐にお揚げさん……。河童にキュウリ」
 俺がそう言うと、ザキさんはクスッと笑って、俺の頬に昨日みたいにふざけていないキスを軽く落としてくれた。
「それって……、つまり、こういうこと?」
 ついでにこの人は……凄く、頭も切れる。
「ご名答」
 短くしか答えられない俺に、ザキさんは顔をくしゃくしゃにする笑顔を寄越した。

「タカさんって本当に変。なんか面白いわ」
 面白い。それは学生時代に付き合った女の子からよく言われたお馴染みの言葉だ。いい人と面白い人は、遊び相手で、ホンキ相手の用はなさないというのが定番だ。遊び相手。充分でしょ。
 俺はザキさんの頭を引き寄せて彼女の唇にそっとキスしてみた。相手はテラGで鍛えている女だ。筋力ヒエラルキーでいえば、あちらが貴族でこちらは奴隷。なぁに、俺が嫌なら虫でも潰すように捻れるのだ。遠慮はいらない。
「……タカさん。フザケすぎ」
 ザキさんは今度は俺の腕を掴むと、床に向かって逆手に捻じあげた。……痛い。
「宇宙人でなかったら、張り飛ばしてやるのに……。いやね」
 ゼロGの人間が、テラGの人間からホンキで殴られたら、かなりの割合で骨が砕けるだろう。そうすると、俺はザキさんの優しさに付け込んだ極道か?
「ごめん」
 俺が素直に謝ると、ザキさんは肩をすくめて首を振った。
「謝るくらいなら……しなきゃいいのに」
「だから、そこは……それ、河童に……」
 ザキさんが、今日もコロコロと笑った。
「タカさんのバカ」
……そうだ。鈴を振るような笑い声って表現があったな。まさしくアレだ。

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