短編小説①『言葉のない恋、火を囲んで。』
第一章:「待っている」
──紀元前30万年──
夜は、空の底にあった。
月はまだ完全に今のように光っておらず、
満ち欠けの境目に、鈍く濁った影を引きずっていた。
風が岩肌をなめるように通り過ぎると、
洞窟の奥で、小さな火が揺れた。
火はまだ“意味”を持っていない。
暖かさ、明るさ、恐怖、安心。
そうした感情の輪郭が、人の中に生まれる前の時代だ。
男は、獣の皮を被っていた。
左の肩には、乾いた血。
右手には、骨ごと裂いた肉。
それを、火の脇に置いた。
獲物の血の滴が、熱で一瞬にして消える。
焼ける香りは、言葉にできない。
けれど、
彼の鼻はそれを知っていた。
彼女も、それを嗅ぎ分けて帰ってくるはずだと、
本能ではなく、理由のない“待つ感覚”で信じていた。
空は、星で埋め尽くされていた。
天の川という名前はまだない。
でも、彼は知っていた。
星は動く。
火も揺れる。
そして、彼女も、戻る。
そうであるべきだと。
日が沈む前、彼女は山を越えていった。
獣を追って。
男は止めなかった。
止める言葉がなかった。
でも、
彼は“止めるために手を握る”ということを、
その夜、初めて思った。
火は小さくなっていく。
肉は半分残っている。
食べずに置いてあるのは、
空腹よりも、彼女が帰ってくる確信の方が強かったからだ。
音はない。
言葉もない。
だが、
焚き火の周囲には、待つという行為だけが、確かに存在していた。
第二章:「戻らない」
二晩、星が動いた。
男は、同じ姿勢で火の前にいた。
獣が一度、肉の匂いにつられて洞窟に近づいたが、
男が石を投げつけると逃げた。
彼は肉を守った。
それが彼女のものだから。
火は、昼には消えかけた。
枝を足す。
燃え上がる。
それを見つめる。
それだけが、男の一日だった。
三日目の夜。
風が変わった。
西の山から吹いていた風が、北に回った。
彼女が向かったのは、西。
だから、風が変わったことに、
男は気づいた。
獣の血が、
腐った匂いを出し始めていた。
彼は立ち上がった。
立ち上がるのに、時間がかかった。
足に感覚がなかった。
けれど、彼は歩き出した。
獣の骨を手に持って。
獣道に入る。
木の影が、黒い線のように地面に落ちている。
何かが通った跡は、
もう風にかき消されていた。
それでも、
彼は“何かを探す”という感覚だけで進んだ。
夕方、崖のふもとで、
彼は見つけた。
草の上に散らばった獣の毛。
その中に、
小さな骨が一つ、転がっていた。
彼女がいつも持っていた石の先具。
石英の白が、血で黒ずんでいる。
声は出なかった。
何を発するかも知らない。
でも彼の胸の奥に、
**“うめき声のような痛み”**が生まれた。
それを表現する術はなかった。
だから彼は――
ただ、
その場に座り込んだ。
そして、
その石の刃を、
そっと拾った。
それが、
人類で最初に“失われたもの”に触れた瞬間だった。
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