ミステリー長編『100人自主-裁けない国の物語-』第1章⑦
この物語は、本編としてはすでに完結しています。
talesでは第56話まで連載しました。
エピローグは、まだ書いていません。
物語そのものは終わっていますが、
「忘れられていく過程」だけが、いまも手つかずのまま残っています。
正直に言うと、本編を書き終えたあと、僕は力尽きました。
小説を書くのが、嫌になった。
しばらく、触れたくなかった。
登場人物を裁かず、
救いも与えず、
逃げ道も作らず、
「成立してしまう正義」をそのまま固定する。
それをやり切ったとき、僕の中の何かが、完全に空になりました。
エピローグを書く前に、止まりました。
そこから二ヶ月。
ようやく、この物語にもう一度向き合えています。
第7話は、この物語の転換点にあたる回です。
ここまでは、主に「個人」の話でした。
選ぶ人間、演じる人間、逃げる人間。
しかしこのあたりから、物語は「世の中の動き」へと視点を広げていきます。
個人の選択が、
どのように社会の空気になり、
どのように整い、
どのように固定されていくのか。
第7話は、その接続部にあります。
この物語は犯人探しではありません。
どんでん返しでもありません。
「正義が成立していく過程」を、
ただ記録した物語です。
結末を知っていても問題ありません。
むしろ、知っている方が重くなる構造です。
ここから先、
世界は静かに整っていきます。
そして整ったあとに、何が残るのか。
それを、一緒に見てもらえればと思います。
第1章 選択
第7話 白石悟が選んだ事件の男
テレビの音が、
突然、意味を持った。
歯を磨いていた。
泡だらけの口のまま、
画面を見た。
地名を聞いた瞬間、
思考が止まった。
――違う。
違うはずがない。
その地名を、
ニュースで聞き間違えるはずがない。
《〇年前に発生した殺人事件について、
本日、警察署に男性が出頭し、
犯行を認める供述をしているということです》
歯ブラシが口から落ちた。
洗面台に当たって、
乾いた音がした。
……おかしい。
その一言が、
やけに遅れて浮かんだ。
誰が。
何を。
何を認めた?
画面には、
被害者の名前。
発見時刻。
場所。
全部、合っている。
合いすぎている。
自分が知っている形そのままに、
別の口から、
別の人生として、
語られている。
男はテレビに近づいた。
音量を上げた。
だが、
それ以上の情報は出てこない。
供述の中身は伏せられ、
動機も語られず、
ただ「自首」という事実だけが、
静かに置かれている。
次のニュースに切り替わる。
交通情報。
天気。
世界は、
何も起きていない顔をしている。
膝が、わずかに震えた。
自分でも気づかないうちに、
呼吸が浅くなっていた。
――これは、俺の事件じゃなくなるということか。
問いは浮かぶ。
だが、答えが来る気配はない。
誰かが、
自分の罪を名乗っている。
それは告発でも、
暴露でもない。
ただ、
事実として処理されている。
男は思った。
逮捕ではない。
再捜査でもない。
事件が、
自分を置いて、
先に進んでいる。
もし、このまま供述が固まれば。
もし、記録が先に完成してしまえば。
そのとき、
自分は――
何になる。
捕まっていない。
だが、
救われてもいない。
否定もされず、
肯定もされず、
ただ、
置き去りにされる。
男は、
口の中の泡を吐き出し、
洗面台に手をついた。
鏡の中の顔は、
驚いているようで、
どこか冷静だった。
――意味が分からない。
だが同時に、
理解してしまう感覚もあった。
これは、
罠ではない。
偶然でもない。
誰かが、
正しく線を引いた。
それだけのことだ。
この世界で、
“自分だけが知っているはずだったこと”が、
もう自分のものではなくなった。
その事実だけが、
胸の奥で、
遅れて重さを持ち始めていた。
男は、息を吐いた。
……先に、決まったか。
そう思ったとき、
自分が震えていることに気づいた。
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