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連載小説『五十人格作家』⑧


🩶第8章 混ざりきらない声



〈空音がこの節を書き始めた頃、彼女は四つの異なる温度の夢を見るようになっていた。〉

―――夢―――

白い部屋は、前よりも少しだけ狭くなっていた。壁の白は乾いた骨の色を帯び、床には細いひびが走っている。そのひびのどれかが、最初の足音を連れてきた。

最初に現れたのは、裸足の女だった。床を気にしていない。ひびも、冷たさも、どうでもいいという顔で立っている。彼女の足首には、細い血の跡があった。切った記憶はなさそうなのに、滲んでいる。女は空音を見て、すぐに視線を逸らした。代わりに、床に落ちている《赤い糸の切れ端》をつまみ上げる。「書くってさ、だいたい自傷よね」
そう言って、糸を歯で噛み切った。唾液の匂いと、鉄の味が一瞬で部屋に広がる。
「でも、傷が残らないやつはつまらない」
彼女は笑わなかった。その代わり、唇の内側を軽く噛んで、何も言わずに消えた。床には、体温だけが残った。

次に現れた影は、きちんと靴を履いていた。黒く磨かれた革靴が、ひびの手前で止まる。中年の男は、部屋を一通り見回してから、静かに空音に向き直った。手には、《古びた万年筆》を持っている。
「夢というものはね、厄介でして」
男は筆記具を指で転がしながら、続けた。
「意味を与えようとすると、すぐに逃げる。だが放っておくと、不意に居座る」
彼は、床のひびに目を落とした。
「人間の内面も、あれと同じです。割れているからこそ、光が入る」
万年筆の先から、インクは落ちなかった。代わりに、ため息だけが、白い部屋に静かに沈んだ。

突然、空気がだらしなく緩んだ。白い部屋に、酒の匂いが混ざり込む。ぐしゃりとした足取りで、男が現れた。上着はずれている。ネクタイもない。だが、その目だけが妙に鋭い。男は床にしゃがみ込み、ひびを指でなぞった。
「壊れてんのが当たり前なんだよ」
そう言って、笑ったのか、歪めたのかわからない表情をする。
「人間も、文学も、倫理もさ。ちゃんとしてるふりをすると、全部嘘になる」
彼はポケットから、《くしゃくしゃに畳まれた原稿紙》を取り出した。文字は滲み、ところどころ塗りつぶされている。
「だから、正直に堕ちればいい」
原稿紙は、風もないのにばらけて消えた。残ったのは、妙にあたたかい虚無だった。

最後の影は、音と一緒に来た。言葉になる直前の、連なった思考のざわめき。男は歩きながら、既に語っていた。語っているのは声か、それとも空音の頭の中か。
「見る、見られる、書く、書かれている、君は線で、線は音で、音は思考で、思考はまだ未整理で、未整理なものほど真実だ」
彼の手には、《割れた眼鏡》があった。片方のレンズだけが、白い部屋を歪めて映す。男は眼鏡を差し出す。
「意味は、後から追いつくものだよ。追いついた時点で、もう別物だけどね」
言葉は途切れなかったが、姿だけが溶けた。音も、意味も、同時に消えた。白い部屋が、きしんだ。

壁の白が一瞬だけ剥がれ、赤、墨、影、文字になり損ねた音が、同時に流れ込む。床のひび割れが拡がり、その裂け目の縁に――四つの気配が、同時に立っていた。裸足の女は、赤い糸を指に巻きつけながら言う。
「ねえ、これ全部、あんたでしょ?」
革靴の男は、万年筆を胸にしまい、咳払いをした。
「いや、そう急に同一視されても困りますな。人間というものは、もっと不器用で……」しゃがみ込んだ男が、それを鼻で笑う。
「不器用? 違うね。都合よく取り繕ってるだけだろ。壊れてるって白状しちまえよ」
その言葉の途中に、別の声が重なる。速く、滑り、途切れない。
「壊れる、壊れない、統合、分裂、順番なんてない、同時、今、ここ、君は書いているし、書かれているし、夢を見ているし、夢そのものでもある」
四つの声は争わなかった。混ざりもしなかった。ただ、同じ場所に在るという形で、重なっていた。空音は息を呑んだ。問いを口にする前に、四人が同時にこちらを見た。
「選ばなくていい」
「整理しなくていい」
「意味は後で腐る」
「今は、混沌を置け」
次の瞬間、声は消えた。白い部屋には、もう誰もいなかった。ただ床に、四つの影が重なったひとつの歪みだけが残る。それは絵にも、言葉にもならなかった。けれど、確かに書かれる前の核だった。

空音が目を覚ましたとき、胸の奥にあったのは理解ではなく、これを逃したら二度と書けない、という名もなき焦りだけが、胸の奥に残った。
混ざりきらない声の余韻が、まだ耳の奥で揺れている。


―――編集室―――

久遠は、前のページの余白に短く書き足し、
そのまま次の節をめくった。

■第5節 赤の一線

彼女は筆を持つ。その重さが、しっくりこない。布目の谷と丘を跨ぐ角度を探して、何度も空を切る。ずれている、と胃の奥が先に判断する。赤を少しだけ混ぜる。欲張らない。粘度を指で確かめると、ぬるりとした感触が皮膚に残って気持ち悪い。でも、それが必要だった。毛先に重さを乗せる。余計な感情も一緒に。キャンバスに触れる瞬間、力を入れると全部壊れそうで、肩から手首までの神経を薄く殺す。押さない。置く。置き逃げするみたいに。筆は白を傷つけず、赤だけをそこに残す。白は抵抗しない。赤は広がらず、じっとしている。その静けさが逆に不安を煽る。音はない。でも、塗料の匂いが肺の奥に絡みついて、息が一拍遅れる。彼女は、それを成功だとは思わない。ただ、これ以上触ったら、自分の中の何かが露骨に出てしまう気がして、目を逸らした。

線は、最初の一寸において躊躇した。次の一寸で、その躊躇を呑み込み、三つ目の一寸に至って、ようやく進むべき向きを定めたのである。赤は決して一様ではなかった。毛先の乾きと濡れとのわずかな差異が、自然に濃淡を生じさせ、その色は布目の谷に沈んで、いっそう深みを帯びた。彼女は筆を止めることなく、しかしながら動かす速さをほんの少し緩めた。その結果、線の脈動が指先に伝わり、自身の呼吸までもが不思議にその線と歩調を合わせ始める。息は線の長さに従って引き延ばされ、吐き終えると同時に、線もまた終りを迎えた。その止まりは、偶然にも布目の突起にかかり、そこだけが些か太くなった。彼女はそれを見て、作為とも必然ともつかぬ出来事として、心の裡にそっと留め置いた。

線は老いた血管のように震えている。だが、それは血ではない。そこに流れているのは、生きものの熱ではなく、絵具の冷たさだった。彼女は筆を置いた。半歩だけ退く。その震えを、見るためではなく、感じるためにだ。目で追えば意味が入り込む。だから皮膚で受け取った。窓からの光は薄く、妙に安定している。その安定が気味悪い。線の上に鈍い光の粒がいくつか落ちて、また何事もなかったように黙り込む。匂いは少しだけ温かく、しかし空気の温度は確実に下がっていた。音は遠ざかり、世界は必要以上に整理されてしまった。線は何も語らない。だが語らないという態度だけは、露骨なほどはっきりしている。その無言は、意味を拒むための無言であり、沈黙することでしか成り立たない誠実さだった。彼女はそれを理解したのではない。ただ、否定しようとも思わなかった。

彼女は布を持ち上げない──なぜなら持ち上げる必要がなかったからで、机の端へ筆を戻す、その途中で赤が潰れないように、潰れないように、と考えるより先に身体がそれを知っていた。戻す、置く、そっと。毛先はまだ赤を覚えている。覚えている、というより、赤がそこに居座っている。椅子へ戻る。遅い。遅くなる。背に触れる布の冷たさが、冷たいというより、背骨を数えて降りていく感じで、一つ、二つ、三つ。視線は線の中央へ──いや、通り過ぎて端へ行き、端からまた中央へ戻る。振り子。そう、振り子。動く、戻る、行き違う。その規則が安心で、その規則が次第に弱まって、弱まって、止まる。
どこで止まった?
線の上だ。
呼吸を浅くする。浅い。浅いまま、長く。吸うとも吐くとも言えない、ただ薄い時間が胸に張りつく。呼吸が残って、彼女が消える。線だけが、まだ、そこにある。

線は、そこにあるだけだった。まだ何にもなっていないくせに、何にだって転び得る顔をしている。その曖昧さが、逆に落ち着かない。彼女は手を膝に置き、指の腹を軽く重ねる。ぬるい、冷たい、その行き来で時間を測る癖は、考えるより前から身体についていた。窓の外で、鳥が一羽だけ遅れて鳴く。遅れた、という事実だけを残して、音はすぐ空に解体される。意味は残らない。線もまた、鳴らず、香らず、主張しない。ただ沈む。沈むことで、そこに在るというやり方を選んでいる。それを見て、理解した、と言うほど単純ではない。だが否定もしなかった。線が何かになる前の時間、その未完成のままの状態が、妙に正直だと思えたからだ。思えた、というより、そう感じてしまった。彼女は目を細める。深くはしない。浅く、長く。呼吸と同じだ。線はまだ動かない。動かないまま、あり得たすべてを内側に溜めたまま、沈黙している。その沈黙が、やけに騒がしく、彼女の中に残った。

―――編集室―――

久遠は、余白に箇条書きで記した。


第一段落:K.H
身体感覚が先に判断する。感情を「正義化」せず、不快さごと置く筆致。

第二段落:夏目漱石
動作を倫理と距離で測る。逡巡→決定の順序が明確。文に呼吸の比率がある。

第三段落:坂口安吾
整合を拒否する語り。正しさより露出を選び、沈黙を肯定する視線。

第四段落:ジェイムズ・ジョイス
動作が思考に溶け、意味が遅れる。時間が“感覚の連なり”として流れる。

第五段落:四者混在
声は交わらず、しかし断絶しない。線が概念になる直前の層。

それだけを書き、久遠はページをめくった。


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