連載小説『五十人格作家』⑨
第9章「続けて見た夢」
―――夢―――
玄関の引き戸が、いつもより軽く動いた。
音は小さく、けれど家の空気だけが先に揺れた。
廊下の板は冷たく、足裏に春の終わりの固さが残る。
台所の水は止まっていて、流しの底に、傾いた夕光が沈んでいる。
居間の灯りは点いていないのに、畳の縁だけが淡く見えた。
空音は立ち上がらず、呼吸だけを整えて待った。
来る時の気配は、言葉より先に布の匂いでわかる。
線香ではなく、紙袋と甘い蒸気の匂い。
その匂いが近づくほど、胸の奥がほどけるのがわかった。
風が逆へ流れたみたいに、時間が少しだけ戻った。
その瞬間、灯の芯が沈み、水面が静まり返った。
「遅くなった。」
声はいつもの高さで、昔の夕方のまま。
廊下の奥から、お父さんが出てきた。
背広ではなく、家の古い上着。
袖口に小さな白い粉がついていて、どこかで包み紙を触った跡。
片手には、紙袋がひとつ。
袋の口は少し湿っていて、湯気の温度がまだ残る。
空音は立たずに、手だけを伸ばした。
お父さんは歩幅を落とし、差し出す前に一度だけ止まった。
その止まり方が、昔、叱る前の間と同じ。
叱られないのに、背筋が自然に正された。
「ほら。」
紙袋が掌に乗る。
重さは軽いのに、妙に確かな重さ。
袋の角が少しへこんでいて、中身がやわらかいのが伝わる。
空音は袋を開けず、頬に一瞬だけ当てた。
ぬくもりが残っていて、息が浅くなる。
お父さんは笑わず、畳に座るでもなく、柱にもたれた。
その姿勢が、講義の前に資料を見直す時の癖に似ていた。
空音は袋の中から、一つだけ取り出した。
白い饅頭で、表面に薄い粉がふわりと乗っている。
指先に粉がつき、擦ると消えるほどの淡さ。
「これ、好きだったろ。」
空音は頷いたが、声は出さなかった。
饅頭の皮は指に吸い付くみたいに柔らかく、割れ目から餡が少し見えた。
餡の匂いが、子どもの頃の夕飯前の台所と同じ匂いを連れてきた。
空音はひと口だけかじった。
甘さが広がり、同時に喉の奥が熱くなった。
熱さは涙ではなく、ただ温度として上がってくる。
お父さんはそれを見て、何も言わなかった。
言わないことが、いちばん優しいと知っている沈黙。
空音は饅頭を握り直し、粉を掌で落とした。
落ちた粉は畳に残らず、光の中で消えた。
「……やっと、来てくれた。」
声にすると、部屋の空気が少しだけ軽くなった。
お父さんは頷いた。
頷き方が、結論の前の合図みたいに静か。
空音はもう一度饅頭を見た。
その白さが、別離の白ではなく、家の白に見えた。
お父さんは紙袋の底を指で叩き、残りを示した。
空音は笑ってしまった。
笑いは短く、でも確かで、身体の奥がほどける音だった。
お父さんも、ようやく口角だけを上げた。
その瞬間、遠くの風鈴が一つだけ揺れ、音は鳴らなかった。
水面は静まり、灯の芯は沈んだまま。
それでも、部屋は暗くならなかった。
「また、持ってくる。」
そう言って、お父さんは引き戸の方へ歩いた。
歩幅は急がず、確かで、迷いがない。
空音は追わなかった。
追わないことが、戻ってくる道を残すと知っていた。
引き戸が閉まる直前、紙袋の匂いがもう一度だけ濃くなった。
甘い蒸気が、胸の奥まで届く。
空音は饅頭の残りをそっと包み、膝の上に置いた。
何も変わらない夕方の形。
その形が救いだと、身体のほうが先に決めていた。
風が止まった。
―――夢―――
翌日の夢は、妙に現実に近かった。
玄関の戸が、少しだけ重く鳴る。鍵の音はしない。なのに、来たとわかる。空気が先に変わるからだ。畳の匂いに、甘い湯気が混じる。
「まだ起きてるか」
声は昔と同じ高さで、少しだけ間延びしている。振り向くと、お父さんが立っていた。昨日と違って、今日は上着を着ている。仕事帰りの顔だ。
手には紙袋。見覚えのある店のロゴ。
「また買ってきたの?」
そう言うと、お父さんは少し困ったように笑う。
「昨日のが、うまかっただろ」
紙袋の中には、饅頭が二つだけ入っている。数が少ないのが、やけにリアルだった。売り切れだったのかもしれない、と思う。
テーブルに置くと、紙がこすれる音がした。夢なのに、ちゃんと音がする。
「仕事はどうだ」
「うん、まあ」
空音がそう答えると、お父さんはそれ以上聞かなかった。代わりに、湯飲みを探すように視線を動かす。
「茶、あるか」
「あるよ」
湯を注ぐと、湯気が上がる。その湯気越しに、お父さんの輪郭が少しだけ揺れる。消えそう、という感じではない。ただ、長くはいないとわかる揺れ方だった。
饅頭を一つ、半分に割る。中の餡が、きれいだった。
「ちゃんと食え」
それだけ言って、お父さんは湯飲みを持たなかった。代わりに、空音の手元を見ている。
「無理すんなよ」
声は低くもなく、重くもない。昔、風邪をひいた時と同じ調子。
空音が何か言おうとした瞬間、玄関の戸が、また少しだけ鳴った。今度は閉まる音だった。
気配が引く。布の匂いが薄れていく。
テーブルの上には、饅頭が一つだけ残っている。もう一つは、いつの間にか消えていた。
目が覚める直前、最後に聞こえたのは、あの声。
「また来る」
断定でも、約束でもない。
昨日の続きみたいな言い方だった。
―――夢―――
三日目の夢では、姿が見えなかった。
朝とも夕ともつかない時間の台所で、空音は流しに立っていた。窓は開いていないのに、風が通った気がする。布の匂いが、ほんの一瞬だけ混じる。
「……いる?」
声にすると、少し笑ってしまう。返事はない。けれど、背中の後ろで気配が止まる。近すぎず、遠すぎない距離。
卓の上に、昨日はなかった包みが置いてある。白い紙に、簡単な結び。店の名前は書いていない。だが、もう迷わない。
「また?」
独り言みたいに言うと、椅子がきしんだ。誰も座っていないはずなのに、重みだけが残る。
包みを開く。饅頭は一つ。昨日より小さい。指で触れると、まだ温が残っている。買ってきた、というより、置いていった感じ。
湯を沸かす音がする。火をつけた覚えはない。湯気が立ち上がり、視界が白くなる。その向こうで、咳払いが一度だけ聞こえた。
「熱いぞ」
声ははっきりしているのに、姿はない。いつもの調子。注意でも命令でもない言い方。
「わかってる」
そう返すと、気配が少しだけ近づいた。肩に、触れない程度の温が来る。触れないのが、逆に優しい。
饅頭を半分に割る。餡が崩れない。うまくできている、と妙なところで感心する。
「ちゃんと寝てるか」
「まあね」
答えると、ため息が一つ。叱るでも、笑うでもない。
「無理すんな」
それだけ言って、気配が離れる。玄関の音はしない。代わりに、布の匂いが薄れていく。
台所には、饅頭の半分と、湯飲み一つ。椅子は元の位置に戻っている。
目が覚める直前、どこからともなく、あの声。
「今日は、これでいい」
夢は、そこで終わった。
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