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連載小説『五十人格作家』④

 

🩶第4章 声の分岐点


ーーー過去ーーー

 午後の光は、曇りガラスを通って柔らかく崩れていた。喫茶店の時計が十五時を指している。店内は静かで、客は少ない。彼女は窓際の席でコーヒーに指を伸ばした。湯気はもう消えていて、表面には自分の顔が薄く映っていた。だが、その表情がほんの少し“自分ではない”気がして、指先が止まる。

 向かいに座るのは、旧友の千佳だった。学生時代の同期で、いつも軽口を叩く。 「ねぇ、また寝てないんでしょ? 原稿、締め切りギリギリって噂よ」  冗談めかした声に、空音(そらね)は小さく頷いた。 「うん、でも……最近、少し変なの。書いているときの記憶が途切れるのよ」 「寝不足でしょ、それ」 「たぶん。でもね、起きたら、書いた覚えのない文章が出来てるの」

 千佳は眉を寄せ、ストローを回した。 「夢で書いたのかもね」 「そう思ってた。でも……“あの人たち”の文体なの」

 千佳の手が止まった。「あの人たち?」  空音は頬にかかった髪を指で払う。 「プルースト、ドストエフスキー、サガン、シェイクスピア……あの節を書いたときの声が、まだ残ってる。夜中に誰かが喋ってるみたいで、でもその“誰か”が私の声なの」

 少しの沈黙。
 BGMのジャズが途切れ、グラスの底で氷が鳴った。

「……で、今も?」 「うん。たとえば、今こうして話してても、時々、言葉の“響き”が変わるの。誰が喋ってるのか、わからなくなる瞬間がある」

 冗談めかしていた千佳の目が、真っ直ぐに空音を捉えた。 「たとえば……今とか?」

 空音は一瞬、笑った。けれど次の言葉が、別の声で落ちた。
「――愛とは、記憶の残響だ。」

 声が低く、響きが硬かった。まるで自分ではない誰かの声。

 千佳は目を見開いた。 「……今、何て言った?」  空音はまばたきをして、首を傾げる。 「え、何か言った?」 「いや……声が……違った」

 空気が微かに冷えた。
 外では風が動き、街路樹がざわめく。
 その音が、誰かの囁きのように耳をかすめた。

 千佳はカップを置き、息を呑んだ。 「……空音、文体もだけど……あれ、直さないの? 混ざってるよ?」

 空音はしばらく黙り、コーヒーの表面に視線を落とした。
 そして、ゆっくりと言った。

「直したら、“誰の言葉だったのか” わからなくなるの。
私の文体で塗りつぶしちゃうから。
……だから触れられないんだと思う。」

 千佳は目を細めた。 「でも……あれ、あなたが書いたんでしょ?」 「そう。手は私が動かしてる。でも……」

 空音は少しだけ息を吸った。
 言葉を選ぶように、静かに続けた。

「“あの文”は、私が書いたんじゃなくて……
私を通っただけなの。
だから、直す権利がないの。
触った瞬間に、あの声が死んでしまう気がする。」

 千佳は返す言葉を失ったように、ただ彼女を見つめた。

 空音は微笑んだ。恐怖ではなく、受け入れた者の笑みだった。

「不思議なんだけど……怖くはないの。
むしろ、懐かしいの。
昔、どこかで会ったことのある声みたいで。」

 その瞬間、喫茶店のドアが開き、外の風がひと筋入り込んだ。
 木の葉が紙片のように舞い、光を受けて回転する。

 世界のどこかで、
まだ書かれていない物語が、
そっと息をした。


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