名前のない悪魔(かのじょ)第四章
著者紹介

⚠️タイトルは悪魔と書いてカノジョと読みます。
これまでのあらすじ
可愛くて、誰からも好かれて、男たちを虜にする完璧な彼女。
――けれど、その本性は、牧野にだけ牙をむく理不尽でわがままな“悪魔(カノジョ)”だった。
温泉旅行では、計画も気遣いも全無視で振り回され、快楽と疲労の底なし沼に引きずり込まれていく。
旅の終わりには高熱で倒れた牧野のもとへ、彼女は“看病”と称して恐怖のヘドロ粥まで持ち込んできた。
ついに別れを決意した牧野だったが、悪魔の罠はまだ終わっていなかった――。
第四章
僕は今日こそ別れ話をするぞ、と心に誓って彼女の家を訪れた。
すると、なぜか彼女の両親を紹介されてしまった。
彼女の母親が準備してくれた昼食を囲み、父親からビールを注がれ、どういうわけか接待を受けている。
品定め、というところだろうか。
彼女の両親は、彼女にあまり似ていなかった。
だいぶ年老いて見える。六十代半ばくらいだろうか。
派手な一面が一切見当たらない、真面目そうで地味な二人組だった。
どちらかというと、僕タイプだ。
シンプルな純日本人、というところだろう。
彼女の父親が生まれた頃に建てられたという古い二階建て住宅を、水回りだけリフォームして、今も住んでいるらしい。
ギシギシと音を立てる床からは、お世辞にも裕福な家庭とは言い難い雰囲気が漂い、彼女だけが古めかしい昭和の一ページに異様に浮いていた。
「娘から聞いてるわよ? 商社で企画開発のお仕事をしてらっしゃるんですって?」
彼女は大人しく、ニコニコと笑っている。
まるで借りてきた猫のお人形のようだ。
「はい。大学は二流大学でしたが、就職活動だけは成功しました」
「立派じゃないか。なぁ、母さん」
彼女の両親は、えらく僕を気に入っている風だった。
いつもお喋りな彼女が、なぜかほとんど喋らない。
相槌を打って笑顔を浮かべ、母親の手伝いを率先してこなしている。
両親は、自慢の娘を褒めちぎっている。
ご近所でも評判の、とても良い子らしい。
「僕なんかが娘さんとお付き合いさせていただけるなんて恐縮です」
歯に腹黒い腹巻きを巻いてそう伝えると、
「この子、あまり自己主張しないでしょ? あんまり会社のこともお友達のことも話してくれないから、心配していたのよ」
と耳を疑うようなことを言っている。
僕は、嘘だろ? と即答しそうになった。
「今日から後輩が入ってきたんだけど、ぜんっぜん使えなくて仕事増えちゃって、チョー大変だったー! 使えないから明日射殺してやろうかな? 肩凝っちゃったから、肩もんでよ、マー君!!!」
とか、
「元カレがストーカーになっちゃって別れるの大変だったの! まじキモい。未だに家の近くにいるかも! だから必ず家まで送って!」
とか、
「なんで今日のワンピース褒めてくれないの? お給料はたいて奮発したのに、ヒドイよマー君!目、腐ってるんじゃないの!」
とか、
「ねー。ここのお店行ってみたいんだけど、オープン前から並ばないと入れないの。マー君の家から近いでしょ? 私はオープン前には間に合うように行くから並んどいて」
などなど。
思いつく限りの彼女の暴言を、僕は一人、脳内でリプレイした。
僕は途方に暮れそうになった。
実際、時刻も夕暮れに近づき、
「そろそろ帰ります」
と伝えて、ふざけた茶番劇から立ち上がった。
帰りは一人でゆっくり帰りたかったが、彼女が
「雨が降りそうだから駅まで送ってくるね」と親の前で良い子ぶって、僕の前をのうのうと歩いている。
「あれ? 雨、止んじゃったね。マー君、傘持って!」
雨が降ると、僕は傘に入れてもらえないのに、雨が止むと僕は彼女の傘持ちだ。
自宅でのぎこちない彼女の様子を思い返して、
きっと彼女には、大金持ちの秘書と執事がいるような、女王様気取りになれる豪邸が似合うはずだ、と僕は確信した。
そろそろ駅に着く。
タイミングを見計らってもズルズルするだけだから、僕は歩きながら彼女に伝えた。
「僕たち、別れようよ?」
彼女は、一時停止した女優の映像みたいに止まった。
「え? なんで?」
と声だけが再生される。
「前から考えてたんだ。君のワガママにはもう付き合いきれないよ。疲れたんだよ」
動きを止めた彼女は、
「なんで?」
と瞳を潤ませていく。
「なんで? って言われても。君には僕よりお似合いの人がいると思うよ?」
正直に答えると、
「私のこと、もう好きじゃないの?」
と、いつものセリフが出たから、僕はゲンナリしてため息をついた。
「だって私、マー君にしか本音、出せないんだよ? なんで、そんな悲しいこと……言うの? 私……わたしにはマー君しかいないのに。ひどいよッ!」
話にならない彼女に、僕はとどめを突きつける。
「それは君のワガママだよね? 僕が本音を出したら、認めてくれないっていうワガママ」
僕は念願の正論を彼女にぶつけた。
彼女は涙をいっぱい溜めて、走って僕の前から消えていった。
これで良かった。
金輪際、彼女の顔も見たくないし、接点も放棄したい。
会社は同じとはいえ、別の部署で良かった。と、心から思った。
安堵の空を仰ぐと、春の雨が再びパラリと僕の顔に雫を落とした。
僕は、彼女の傘を持たされていたことに気がついた。
傘だけ返しに行こうかと頭をよぎったが、振り出しに戻る気がして、行き場を失った花柄の傘を見つめた。
傘を持たない彼女は濡れているだろうか? と疑問が湧いたが、考えても意味のないことだと振り払う。
パラつき始めた雨は一瞬で本降りになり、僕は、温かい珈琲でも飲んで心をリセットしてから自宅へ帰ろう、と決めた。
目の前に佇む小さな喫茶店に入った。
こじんまりとした客の少ない喫茶店で、僕は窓際の席に座った。
蝶ネクタイに白髪の無精髭、黒縁の眼鏡をかけたマスターが一人で経営しているらしい。昭和にタイムリープしたみたいな気分になった。
マスターが、お冷やとメニューと温かいおしぼりを持ってきた。
マスターの立ち姿は、紳士のように姿勢が良かった。
木製の年輪が刻まれたメニューを開くと、ブレンドは四百円だった。
値段まで昭和レトロだ。
行き交う人々が傘をさし、足早に帰路に向かう。
穏やかに降っていた春の雨が横殴りに傾き始めると、喫茶店の年季の入った窓ガラスを揺らすほどの突風が吹き荒れた。
使い捨て傘をさしている人の傘が逆さキノコになり、外を歩く人も少なくなり始める。
みんな避難したのだろう。
重たい葉をぶら下げた常緑広葉樹が、焦点を失ってライブ会場で頭を狂ったように振る人々みたいに、大きく揺れている。
嵐だ。
今朝のニュースで、確かに
「夕方から春の嵐になります」
と報道されていたことを、思い起こした。
年季の入ったドイツ製の美しいコーヒーカップに、マスターがゆっくりと魂を込めて淹れてくれた珈琲が僕のもとに届く。
僕は嵐を横目に、優雅に珈琲を啜った。
ここからは見えないが、救急車のサイレンが鳴きながら耳を通過していった。
嵐の音と仲良く共鳴している。
怒り狂う彼女のような天気を眺めながら、解放という祝杯の一杯を僕は噛み締める。
今日の珈琲は、いつもより少しだけ苦く感じた。
すると、知らない電話番号から着信が鳴った。
聞き覚えのある女性の声がする。
「突然の電話、ごめんなさい。娘と連絡が取れなくて。牧野君、いま娘と一緒じゃないかしら?」
あぁ。迂闊にも彼女の両親に名刺を渡したんだった、と我に返る。
「大雨が降り出す前に駅前で別れました。どこかで雨宿りでもしているんじゃないですか?」
と伝えると、
「そう……ならいいんだけど……ごめんなさいね。あの子から連絡があったら教えてくれるかしら?」
もう別れてしまったので、僕の方には連絡は来ないと思いますよ。
とは、口が裂けても言えなかった。
「わかりました」
とだけ伝えて電話を切った。
ここから彼女の家までは徒歩十分くらいだ。普通に帰れていれば、とっくに到着している。
傘も忘れていったし、ファミレスかどこかで鬱憤をぶつけて、やけ酒でもしてるんじゃないのか?
と、興味のない結論を出した。
昭和の香りの珈琲を飲み終えた僕は、再び駅の方角を確かめる。
春の嵐はまだ止みそうにない。
でも駅は目の前だ。少し濡れるだけで済みそうだし、もうそろそろ自宅に向かおうかな、と考えを巡らせていると、買い物中だったと思われる買い物袋をぶら下げた中年の女性客が二人、びしょ濡れで店に入ってきて、僕の隣の席に座った。
彼女たちは、
「せっかくだから、ゆっくりお茶でもしましょうよ」
と話している。
「怖かったわよねぇ〜。私なんか震えちゃって、しばらく動けなかったわ」
「ほんと、びっくりしましたよね。すごい音でパネルが落ちたときは、私も足がすくんじゃいました」
「五十嵐さんも無事で良かったわね? 私も五十嵐さんも、あと一歩間違えたらパネルの下敷きだったわよ」
「一人、パネルの下敷きになっていた人は大丈夫だったんでしょうか?」
「救急隊員が言っていたのが聞こえたんだけど、若い女性だったみたいよ?」
「えっ? そうだったんですか、かわいそうに……」
ドクンッ、と心臓が波打つ音が全身に響いた。
その後の彼女たちの会話が、右耳から左耳に通過していく。
頭に入らない。
冷静にならなければ、と僕は僕に言い聞かせる。
次の瞬間。
僕は財布から千円札を取り出してテーブルに叩きつけるように置くと、走り出していた。
彼女が泣きながら走っていった方角に。
つづく♡
adiós♡
寄稿者
編集後記
別れ話という、恋愛における「終わりの儀式」すら、この作品の中では安らぎにならない。
むしろそれは、地獄の入口にすぎなかった。
今回印象的なのは、“正常な世界”が提示されたことだ。
穏やかな両親、丁寧な食事、控えめな娘。
――あぁ、これが本来の彼女なのかもしれない。
そう思わせた直後に、読者は知っている。
その静けさの裏側を。
つまりこの章は、「普通」と「異常」の境界線を、静かに撫でてくる。
そしてその境界は、驚くほどあっさりと崩れる。
別れは成立した。
理屈も、言葉も、整っていた。
なのに。
嵐が来る。
偶然のように配置された会話。
断片的な情報。
そして、走り出す男。
ここで初めて、読者は気づく。
これは恋愛の話ではなく、
すでに“回収の物語”に入っているのだと。
彼女は本当に悪魔だったのか。
それとも、彼が見ていたものが歪んでいたのか。
編集長としては、冷静に見届けたい。
読者としては、もう戻れないところまで行ってほしい。
――ちなみに私は今、
花柄の傘が一番怖い。
文芸高校出版部 編集長 兼 用務員
風間静人(静月)
いいなと思ったら応援しよう!
いつも読んでいただき、本当にありがとうございます。皆さまの応援が、静月の物語を生み出す力です。いただいたチップは、すべて次の作品作りに大切に使わせていただきます。
