第2章:もう一度、孤独からはじめる物語 第2話「別れの約束」
披露宴が始まり、会場は華やかな光と笑い声に包まれていた。
サキは新婦側の友人席に座り、グラスの水を一口含んだ。喉が、ひどく渇いていた。
新郎新婦の入場。拍手が起こる。
サキも手を叩いたけれど、その音が自分のものに聞こえなかった。
ユウは、この会場のどこかにいる。新郎側の友人席。サキのすぐ真横あたりのはずだった。
でも、見えない。顔を向けても、視界には入らない。
それが、かえって意識させる。
(すぐそこにいるのに)
(手を伸ばせば届きそうな距離なのに)
こんなにも、遠い。
やがて、新郎の友人代表スピーチが始まった。
「お二人は、お互いを支え合いながら、それぞれの道を歩んできました――」
その言葉が、サキの胸を、不意に刺した。
──支え合う。
それができなかった。できなかったから、別れた。
記憶が、ゆっくりと戻ってくる。
────────────────
2年半前。あの日。
「……アメリカの大学院から、返事が来た」
サキがそう言ったとき、ユウは静かにうなずいた。
「そっか。合格したんだね」
喜んでくれているはずなのに、ユウの声は、いつもより平坦だった。
二人は、いつもの公園のベンチに座っていた。夕暮れが、ゆっくりと街を染めていく。
「……行くべきだと思う」
ユウが言った。
「サキが本当にやりたいことがあるなら、今の仕事を辞めてでも、行く価値があると思う」
その言葉は、正しかった。論理的で、合理的で、サキのことを思ってくれている。
「心理学をちゃんと学びたいなら、向こうの方がいい。臨床も研究も、日本より環境が整ってる」
それなのに。
「……行かないでほしいって、言ってくれないんだね」
サキの声は、震えていた。
ユウは、少し驚いたように顔を上げた。
「え?」
「行かないでほしいって……
そう言ってくれたら、行かない理由になるのに」
矛盾している。行きたいのに、行きたくない。離れたいのに、離れたくない。
ユウは、困ったように視線を落とした。
「……でも、それは、サキのためにならない」
「私のため?」
「うん。サキの将来を考えたら、行く方がいい。僕がいるから行かない、なんて選択をしたら、きっと後悔する」
ユウの言葉は、いつも正しい。いつも、論理的で、優しくて、正しい。
それなのに、どうしてこんなに苦しいんだろう。
「……ユウは、行ってほしくないって思わないの?」
サキは、聞いてしまった。
ユウは、少しの間、黙っていた。
「……思ってる」
小さな声だった。
「思ってるけど、それを言ったら、サキが迷うから」
サキの胸が、きゅっと締めつけられた。
「迷ってもいいのに……」
「でも、サキは行くべきだから」
ユウは、また同じことを繰り返す。
サキには、その言葉の奥にある本当の気持ちが読み取れなかった。
(本当は、どう思ってるの?)
(本当は、何を感じてるの?)
それが知りたいのに、ユウは、いつも「正しいこと」しか言わない。
ユウは、胸の奥に何かが引っかかっていた。
(本当は、行かないでほしい)
そう思っている自分がいることに、気づいていた。
でも、それを言うことは、サキの可能性を奪うことになる。
サキには、可能性がある。このまま今の環境にいるのは、もったいないと思った。
自分が引き留めることは、サキの未来を狭めることになる。
それは、してはいけないことだと思った。
だから、言えなかった。
「……ユウとは、このまま、終わりなのかな」
サキが、ぽつりと言った。
ユウは、顔を上げた。
「……そうだね」
その言葉は、あまりにも静かだった。
「遠距離は、難しいと思う。お互いのために、ちゃんと区切りをつけた方がいい」
またしても、正しい言葉。合理的な判断。
サキは、もう何も言えなかった。
涙が、ぽろぽろと溢れてきた。止めようとしても、止まらなかった。
「……ごめん」
ユウが、小さく謝った。
「泣かせたくなかったのに」
サキは首を横に振った。
「違う……違うの。ユウが悪いんじゃない」
でも、何が悪いのか、わからなかった。
誰も悪くないのに、こんなに苦しい。
サキは、震える声で言った。
「……空港まで、来てほしい」
ユウは、少し驚いたように顔を上げた。
「空港?」
「うん。最後に……見送ってほしい」
サキの声は、必死だった。
ユウは、少し考えるように視線を落とした。
「……ちょうど実験の山場で。その日は、たぶん難しいと思う」
別れを決めた以上、見送りに行く必要があるのか。
ユウは、そう思っていた。それに、研究は本当に大事な時期だった。
「そっか……」
サキの声が、小さくなった。
「大丈夫。一人で行けるから」
──大丈夫。
それは、いつもユウがサキに言っていた言葉だった。
サキが不安そうにしているとき、ユウは「大丈夫」と言って、安心させた。
その言葉を、今、サキが自分に返している。
ユウの胸が、ざわついた。
「……うん」
それだけ答えることしかできなかった。
────────────────
数日後。研究室。
ユウは、研究室で実験データと向き合っていた。でも、頭の中は、別のことでいっぱいだった。
(サキは、明日出発する)
わかっていた。別れは、もう決まったことだ。
それなのに、胸の奥に、何かが引っかかっていた。
ふと、ある記憶が蘇った。
大学3年の秋。
ユウは、マラソン大会に向けて練習していた。
一人で黙々と走ることが、好きだった。
誰とも話さず、ただ自分のペースで走る時間。
でも、その年は少し無理をしすぎた。
練習を詰め込みすぎて、体調を崩してしまった。
熱が出て、一人暮らしのアパートで寝込んでいたとき。
サキが、来てくれた。
「ユウ、大丈夫?」
サキは、買ってきたおかゆとスポーツドリンクを置いて、額に手を当てた。
「熱、すごいね。病院行った?」
「……まだ」
「ちゃんと行かないとダメだよ」
サキは、少し怒ったように言った。
でも、その目は心配そうだった。
「一緒に行こう。今から」
サキは、ユウの手を引いて、無理やり病院に連れて行ってくれた。
その後も、数日間、サキは毎日のように様子を見に来てくれた。
「ユウって、自分のこと後回しにしすぎだよ」
サキは、困ったように笑った。
「もっと、ちゃんと自分を大事にしてね」
ユウは、その記憶を思い出していた。
(サキは、いつも僕のことを気にかけてくれた)
実験が忙しくて連絡を忘れたとき。
研究に没頭しすぎて食事を抜いたとき。
サキは、いつも心配してくれた。
(……やっぱり、行くべきだ)
別れを決めた以上、見送りに行く必要はないかもしれない。
でも、サキがしてくれたことを思うと、最後くらい、ちゃんと見送るべきだと思った。
ユウは、スケジュールを確認した。
実験の合間を縫えば、何とか間に合うかもしれない。ギリギリだけど。
「……行こう」
ユウは、そう決めた。
────────────────
出発の日。
空港に着いたサキは、チェックインを済ませ、出発ロビーへ向かった。
時計を見る。あと1時間。
(……来ないよね)
わかっていた。「難しい」と言われていた。
それでも、心のどこかで、期待している自分がいた。
搭乗アナウンスが流れた。
「本日の○○便は、機材整備のため、約30分の出発遅延となります」
サキは、小さくため息をついた。
(もう少しだけ、ここにいられる)
その時。
「……サキ」
聞き覚えのある声が、背後から聞こえた。
サキは、振り返った。
ユウが、立っていた。息を切らして、汗をかいて、走ってきたのがわかる姿で。
「……来たんだ」
サキの声が、震えた。
「うん。実験の合間に抜けてきた。ギリギリだったけど。飛行機が遅れてくれて、間に合った」
サキは、涙が溢れそうになるのを必死でこらえた。
(来てくれた)
(本当に、来てくれた)
二人は、しばらく黙って立っていた。
やがて、最終搭乗のアナウンスが流れる。
「……行かなきゃ」
サキが言った。
「うん」
ユウは、うなずいた。
サキは、最後に伝えたいことを、必死に言葉にした。
「ユウ……」
「うん?」
「マラソン、続けていてほしい」
ユウは、少し驚いたように目を見開いた。
「ユウが一人で、黙々と走ってる姿、私、好きだったから。
だから……もしもいつか、また会うことがあったら、走ることを辞めてない人でいてほしい」
それが、サキにできる、精一杯の願いだった。
ユウは、しばらく黙っていた。
それから、小さくうなずいた。
「……わかった」
その声は、いつもより少し低く、何かを飲み込むようだった。
「約束する」
サキは、もう何も言えなかった。
涙が、ぽろぽろと溢れてきた。
「……ありがとう」
それだけ言って、サキは、ゲートへ向かった。
振り返らなかった。振り返ったら、行けなくなると思ったから。
ユウの姿が、視界の端からゆっくりと消えていく。
サキは、ただ前だけを見て、歩き続けた。
気づけば、スピーチが終わっていた。拍手が起こる。
サキは、慌てて手を叩いた。
(ユウは、今も走ってるのかな)
(……あの日の約束、覚えてるのかな)
それを確かめたいような、確かめたくないような、複雑な感情が、胸の中で渦巻いていた。
披露宴が進むにつれ、サキの心は、過去と現在の間を彷徨い続けた。
空港での別れ。ユウの静かな声。
「約束する」と言ってくれた、あの言葉。
それでも。
今、この場所で、再びユウと同じ空間にいる。
それは偶然ではなく、何か意味があるような気がした。
(もう一度、話せるだろうか)
(今度こそ、本当のことを言えるだろうか)
サキは、グラスを握りしめた。
その手が、小さく震えていることに、自分でも気づいていた。
次回、第3話へ続く
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