創作『あさってイエロー、まっさかピンク』第1話・異聞
異聞
何かの事件に関する、普通は伝えられない話。

その川の上空には、ぶ厚くどっしりした黒灰色や深灰色の雲たちが重なりあっていて、動かない。
それらの色の下を、薄灰色の細い雲たちが、疾く流れていく。
筋が目にみえるかのような雨が、河岸の水に侵された黒土、あるいは大小の石々に強く当たっている。
地面と水面に波紋が、くるぶしまでの高さでは飛沫が、止まない。
まだ日没まで十分な時間があるはず、それながら辺りはとても暗く、また、ただならぬ重たい空気が立ち込めている。
この雨のせいだけではないかもしれない。
一人の女が、立っている。
少女というには、背格好など、大人の領域に踏み込んでいる。
もし現代からここ、つまり享和2(1802)年の権現堂川畔へとドローンがタイムリープして空中にホバリングし、搭載のカメラで女の姿をとらえるなら、観る者は思うかもしれない、
「今でいえば高校生くらいだろうか…」
と。
女の身の、ほんのわずか先に、もう濁流がきている。
猛り狂い、轟轟としているその茶色の群れと、女は単身対峙しているようにも見える。
水のしぶきが、彼女のずだぼろなわらじに、撥ねてくる。
ぶるっと、女が、身を震わせた。
寒さの厳しい季節ではない。
今でいう、6月終わり。
けれど、この岸辺に連れて来られるまでに、だいぶ長いこと雨に打たれていたのもあるし、心がわなないてしまっているのもある。
女性は、木の板のへり近くに立っている。
女のすぐ後ろ、まさにへりに、大きな石がまさに鎮座して在った。
この暴れ水に乗ってころがり、はるか上流から辿り着いたか。
あるいは堤を造成ろうという⸻しかし、果たしてやっと完成したとなっても、必ず豪雨で切れてしまい、やり直しとなる⸻長い工事の間に、土中から掘り出されたか。
なんにせよ、長く厚いその板を、石は固定している。
猛烈な流れに向かって突き出すその板は、しかし、橋のように対岸まで届いていはしない。
流れの、最も速くまた深そうな位置へとせり出し、そこがもう一方のへり。
板はそこで終わる。
(私の命も、そこで終わる)
女性がまとう濃い色の旅着には、汚れやほつれが目立つ。
雨に濡れ、色は一層濃くなり、水を吸い重く、そして肌に張り付いてくる。
女は、目の端をぎゅっとつむる。というのも、目に髪が入り不快なのだが、後ろ手に縛られてしまっているから、拭うことができない。
旅でかぶり慣れている笠は、かぶっていない。
かぶることが許される状況ではない⸻川に入る、入らせられる、この状況では。
どうしてこんなことに…?
そういうことに、もう、決まったから。
女性の背後に、十数人の男たちが立っている。
彼女を、いや、彼女の最期を、見届ける者たち。
土地の僧が、横から差し出された傘の下で、高らかに読経している。
さらに後ろ、あちこちで、遠巻きに、岸辺の彼女を見ている人たちが、かなりの数、いる。
堤奉行や代官所の兵士たちが、そうした衆を怒鳴るとか弓で威嚇するとかで、追い払うそぶりはない。
むしろ、大勢の人らに見届けさせようということかもしれない。
この、我らのための尊い犠牲を。
風の音が止む。
女性の耳に、聞き慣れた声が入ってくる。
一心不乱な念仏。
それは土地の僧が唱えるものとは違う。
女がよく知るもの。
合間に、嗚咽。
ふりさけ見ずともわかる、それは、母の声。
(かあさんは、生きて。
こんなことになったのは、私のせい。
私だけで、ここを引き受けないと)
堤の工事を見に行った時、堤奉行の息子に見そめられた。
その日以降、しつこく付き纏われ、言い寄られた。
「そなたはあまりにも美しい。巡礼には惜しい……」
「懇ろになれば、妾にしてやる……」
「築堤が終われば、江戸で連れて帰れるぞ……」
いろいろ繰り出される誘いの言葉を、しかし、女は悉く、断り続けた。
若侍の言葉と態度に、しだいに、焦りと怒りが強くなっていった。
ある日、待ち構えられ、不意に地面に組み伏された。
恐怖で、腹の底から叫ぶ、するとちょうど堤奉行の一行が馬で来ていた。
息子が拒まれる姿を、父は目にした。
その日もう、母子が身を寄せていた宿に、奉行所の男たちが来た。
渡された書状に、こう記されていた。
「堤を築き、それが末代まで揺るがないために、人柱が必要。
その役目、信仰に篤い旅のそなたらの、どちらかひとりに任じたい」……
とつぜん、女の背中に、鋭い痛みが走った。
尖った刃物、おそらく槍で、小突かれたのだ。
堤奉行の手下だろう。
無言で、促す、それは強いメッセージだった。
早くしろ、先へ足を進めろ、そう言っているかのような。
川の中へ飛び込め。
いけ。
さっさと、逝け。
去ね。
(ほんとうは)
両の掌を、合わせ……ようとして、ああそうだ、手は縛られているのだと、改めて気づく。
手は、思念だけであわせる、そしてこの時のために練習した、特別な念仏をはじめる。
体のあちこちが震えそうで、それをこらえる。
一歩、一歩、踏み出す。
背後の人たちが、息を呑む。
(ほんとうは。
私、ひとつの土地で、暮らしたかったな。
行く町や荘で見る子たちみたいに、寺子屋で学んだり、したかった。
お米や麦や野菜を育てて、一休みしたり、したかった。
秋のお祭りで、素敵な男の子に話しかけたり、したかった)
歩む脚が、震える。
念仏を唱える、その口にも、震えがくる。
ほんとうは、立ち止まりたい。
体の向きを反対にして、板を駆け戻りたい。
けれど、脚を、なんとか、運ぶ。
川の流れの方へ。
(私、ほんとうは……、もっと……)
念仏の言葉と、違うことが、彼女の心を占めてしまう。
生きたかった。
生きたいなぁ。
ぐるるる、きゅうぅうぅ〜〜〜〜。
……んんん?!
女は、気づいた。
お腹が鳴ったことに。
(こんな時にでも、人は、お腹が減ったと感じるか……)
絶対に笑うような場面ではないはず、笑えない状況なのに。
うつむいた顔の下で、女は、口の端を曲げている。
空腹で、お腹が鳴る音。
女のいまの生活のなかでそれは割とつきものではあったが、そうなったのも、巡礼の旅に出ざるを得なくなったここ数年のことだった。
一方で、旅で出会う子どもたち。
親や大人に従って田畑の手伝いをし、弟や妹をあやす普通の子たちのほとんどみなが、いつなんどきもお腹を空かせ、お腹を鳴らしていた。
この幸手の地でも、それは同じことだった。
川べりに、いま、見に来ている子たちも。
見になど来ず、何が起こっているか知らず、働いている子たちも。
みな、お腹を空かせて、お腹を鳴らして、居るはずなのだ。
(食べたい。
食べさせてあげたい。)
今この期におよんでも、思うのは、それだった。
(せめて、もう一度、あれが食べたかったなぁ……、
母さんにも、食べさせてあげたかったし……、
もちろん、みんなにも……、
お腹いっぱいに……幸せな気持ちで……みんなで食べる……、
生きる、幸せって、きっとそういう……、
味わいたかったし、見たかったなぁ……)
《生きたかった……》
「うわあぁぁ……!」
女の後ろで、ただならぬ叫びが起こり、そして、誰かが、木の板を走って向かってくる。
木の板が大きく揺れる。
女の中で、その皮膚の下まで充ちて膨らんだ希求は、一瞬で凍らせた。
「かあさん!こないで!」
叫んだ次の瞬間、川に飛び込んだ。
即座に、物凄い勢いに、身がもっていかれる。
流れに巻かれ、体が回される。
焦って口を少し開けた、そこで、がぼっと、泥まみれの水を飲んでしまった。
パニック状態に陥る彼女の指先に、何か、かすった。
(?!)
母の手、ではなかったか。
つかもうとしてくれた。
女性は直感した、それで目を開けたが、視界は茶一色。
目が痛み、瞑った瞬間、ごんっと後頭部に衝撃が走った。
岩かなにかにぶつかった、とそこまで思い、彼女の意識は飛んだ。
あまりに速い流れの中で女の体は翻弄されつづけ、それで、人としての姿は削られ、折られ、砕かれていった。
あるいは、臓器や皮膚の下に水を吸い、ぶよぶよと白けていった。
それでも、彼女が川に入る前に発した
《生きたかった……》
は、放たれていた。
はるか先で、月は、その聲を、《聴いた》。
土地の人々は、みな岸辺から去っていた。
夜。
例のぶ厚い雲たちは、午後のそれとは違う雲にせよ、見目としては川の上の空に、在り続けた。
雨は、さぁぁと川面に、岸辺に、村の家々に、街道に、降り続いていた。
月が空に浮かぶ姿を見る者は誰一人いなかった。
けれど、月は、たしかにそこに在った。
板を押さえていた、あの大きな石を、照らしはじめた。
光でというより、ある種の《波を放った》。
イシあるいは他の土地のカミたちは、むしろその波のことを、ツキと呼んだ。
石は、波を受けて、イシに成り、ふだん縛るものから自由になった。
だから、翼で空へ飛び出すことができた。
目が出て、上空から、探しはじめた。
飛び込んだ母子は、いま、どこか。
だが、水の中が、よく見えない。
それで目は、流れを探すのにいちばん適していて、知っている姿⸻水龍の姿をとった。
うねうね流れに乗り、あるいは自在に逆らい、水中の茶色の世界を、行き来する。
そして、まずは母親、やがてだいぶ離れた流れの下で、女を見つけた。
正しくは、「母親だった」「女だった」骸を。
《ふたりに、この一帯の人たちを見守らせてみようか。
それをしている、このイシのウチに、新たに取り込もうか》
イシは、それが《よきこと》におもえた。
それで、ツキに力を借りる《刻を充し》、動くことができた。
川の流れの中から、ふたりの、それぞれの、残る最も大きな肉の破片を引き上げ、背に乗せた。
しばらく進み、良さそうな場所を見つけた。
水流の最も猛るところで、その力を利用して、2つの骸と自らを、はじき出させた。
そうやって岸に上がると、そこで、じっとした。
イシのウチで、この地に先に来ていたものたちが、ふたりを出迎えた。
この創作を解っていただく「補助線」として、「このまちが好き幸手市」様の以下の記事を引用させていただきます。
この小説はフィクションです。
実在の人物・団体とは関係がありません。
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