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小説|青い目と月の湖 31

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「出て行く?」
 村長はカップを手にしていることを一瞬にして忘れてしまったように、それを持ったまま、クロードを見やった。
「何か問題が?誰かと揉め事を起こしたのかい?しかし、今日の仕事は上手くいったんじゃ」
「ええ。トラブルはありません。問題は私の方にあるんです。この村ではとても親切にしていただけました。それはありがたく思っています。しかし、長く留まり過ぎたように思います。もしこの先、問題が起きたらと思うと、怖いんです。この村の人たちに恨まれて追い出される事は避けたいんです。今のうちに出て行くのが良いいのだと思います」
「しかし、それは」
「惜しまれるうちが花です。今行けば、ここでの生活は、私の一生の中で最も良い思い出になることは間違いないでしょう」
「恨まれる、前にか……」
「ええ」
「それが君の、良い思い出なのか」
 村長は溜め息をつき、思い出したようにカップをソーサーの上に戻した。
 クロードはその中の、ほとんど減っていないハーブティーを見つめた。
「判らないこともないがね。しかし、急な話だ」
「申し訳ありません。できれば近いうちに、出発したいと思っています」
「もちろん、君がそう決めたのなら、私たちにそれを止める権利はないよ。しかしね、私は近いうちに、村に越して来てくれるんじゃないかと期待していたからね」
「申し訳ありません」
「いやいや。そうか。いろいろと、こちらから条件を出す用意はあるよ。しかし、君は」
「はい。決めたんです」
「待遇の問題じゃないんだね。いや、判ってる。君はそんな駆け引きをするような人間ではない。今までにはいたがね、そんな魔術師が。そうか。なるほど」
 村長は自分を納得させるように、何度も小さく頷いた。
「それで、例の件ですが」
「あ、ああ。食糧のね。うん」
「これは単なる私の意見ですが」
「言いたまえ」
「無理をして、持って行かれる必要は無いかと」
「……うん。なるほど」
「すみません。息子さんに対するお気持ちは察します。しかし、北の森に入る事の方が、その危険が、私は心配なんです。私が行く分には構いませんが、村長がこの先遠出をするのは、私は薦めることができません」
「北の森は、そんなに危険だと思うかね?」
「何があると正確に言える訳ではありませんが、私の経験で言うなら、とても気分の悪くなることがあります。近付かない方が無難です」
「なるほど。君がそう感じるのなら、無視はできないね」
「村長」
「ん?」
「お願いです」
 村長は誤魔化すように笑おうとしたが、クロードの真面目な視線に途中で諦めた。
「今までは私が行っていたんだよ」
「いつまでも今までのままとは限りません」
「しかし」
「昔からの村のルールには、何かの理由があるのだと思います」
「ルールは、村長も例外なく守れと」
「守ってほしいんです」
 
 マリエルを失った月の湖が、どういう行動を起こすか、クロードには判らなかった。
 湖は約束を守っている。
 マリエルに正体を知らせない限り、クロードが殺されることはない。
 二人で城を出る時も、湖は黙っていた。
 静かに、冷たく、二人の乗った小舟を見送ったのだ。
 クロードにはその内心を感じることは出来なかった。
 暗く深い湖底に身を潜めていたのか、悲しみや怒りさえ伝わってこなかった。
 その時だけ、湖はまるで死んでいるように思われた。
 しかし、死んではいない。
 恐らくは、計り知れないほどの憎しみでクロードを見ていたに違いない。
 自分の意思で城を出たマリエルにも、怒りを覚えていたかもしれない。
 今まで以上に、湖に近付くのは危険だ。
 そのためにも、北の森で村人を足止めするしかない。
 誰にも手を下さないという約束を湖に取り付けたいのは山々だが、自分にメリットの無いそんな約束を、湖がする訳がなかった。
 
「約束していただけませんか」
「ルークは、やはり」
「この先絶対に北の森には入らないと約束してください」
 村長は顔を上げた。
「何故そこまで強硬に出るんだね」
「約束していただけるのならお話しします」
 口を開くまでに少し時間がかかる。
「君はつまり、ルークは行方不明でなく死んだのだと、私に認めさせようと言うんだね」
「私もそれを絶対だとは言い切れません。しかし、あなたの運ぶ食糧と息子さんの間には、もはや関連はないでしょう」
「運んでも無駄だと」
「はい」
 村長は唇を噛みしめるようにして言った。
「そんな事は、私だって」
「お願いします。あなたと、他の人々の安全のためです」
「……いったい、どんな理由があると」
「約束してくださいますか」
 諦めるように、村長は溜め息をついた。
「判っている。つまりは気持ちの問題だった。気休めのようなものだったんだ。判っているよ。約束しよう。それで、何を話してくれるんだね?」
「正直なところ、迷いました。あなたにこれを渡していいものかどうか。しかし、こうすることが一番なのではないかと思います」
 クロードはコートのポケットに入れていた青い表紙の本を取り出し、テーブルの上に置いた。
「これは、本かね?」
「ある女性の日記です。既に亡くなられている女性です。私の口から詳細はお話しできません。私も知らないことなのです。どうかこれを読んで、察して下さい」
「ある、女性の」
 クロードは、それではと言って立ちあがった。
 村長は慌てて手を伸ばした。
「待ちなさい。君は今すぐにでも出て行く気なのかね?」
「村長の許可がいただけるなら。しかし、ハンスとも一度ゆっくり話がしたいので、あと一週間くらいは」
「いや。いや、それは早過ぎる。せめてあと一月、いてもらえないかね?」
「一月ですか。それは少し……」
「わ、判った。二週間。村人達に告知もしないといけないし、そう簡単に次の魔術師はみつからない。せめてあと二週間。頼むよ」
「判りました」
「それで、馬車が欲しいんだったね?」
「はい」
「今乗ってきたやつでいいのかい?」
「はい」
「それならジョルジオ農園まで私を乗せていってくれ」
「しかし御面倒では」
「いや、私が一緒に行った方が話が早いだろう」

 村長は立ち上がると、窓際の本棚の引き出しを開けて、青い日記帳をしまい、鍵をかけた。
 その指のぎこちなさを見ると、その日記によって何を自分が知ることになるのかを恐れているように思えた。
 しばらくの間気を紛らせて落ち着きを取り戻さなければそれを読めないのだろう。
 振り返ると、村長は無理をして笑顔を作った。
「ジョルジオさんはかなりの商売人だからね。君一人じゃフェアな値段では買えないと思うよ」
「ご親切に、ありがとうございます」
 クロードは村長に頭を下げた。


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