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小説|青い目と月の湖 30

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 ハンスには何も取り憑いてはいなかった。
 壁側を向いてベッドに寝ている。
 寝ているところを起こすのは悪いなと考えながら傍に歩くと、横向きのハンスの顔は目を覚ましていた。
 静かに壁を見つめている。
 クロードもその表情に倣うように、そっと声をかけた。
「起きていたのか」
 ハンスはゆっくりと瞬きをして、鼻から息を吐いた。
 それが返事の代わりだった。

 クロードは温かさを確かめるために、ハンスの額に手を差し伸べた。
 ハンスはすぐにその手を払い除けた。
 そして寝返りを打ち、体を仰向けにした。
 手を払われたクロードは肩をすくめて言った。
「熱はないみたいだな」
「ないよ。もう平気なんだ。母さんが寝てろって言うからさ」
「平気か?元気はなさそうだが」
 ハンスは少し笑った。
「目が覚めたばかりなんだ。今すぐ走り回れって言われたら困るけど、元気だよ」
「そうか。それなら良かった」
「どうしたの?今日は。仕事?」
「ああ。ジョルジオ農園まで行ってたんだ」
「成功したの?」
「ああ。そういう言い方が正しいならね」
「そう。良かったね。これでまた評判が良くなるよ」
 クロードは鼻で笑い、ベッド脇に腰掛けた。
 そして、一呼吸置いて言った。

「話したいことがあるんだ。ハンス」
「明日の配達のことでしょ。多分大丈夫だよ。熱はないんだから」
「いや、そうじゃない。配達は、きついのなら遅れたって構わない。それに」
 クロードは、また一つ息を吸い、吐いた。
 深呼吸のようになった。
「ハンス。私はこの村を出ようと思っている」
 ハンスの表情にそれほど変化はなかった。
 ただ口元が痙攣するように、わずかに動いただけだ。
 視線は初めから静かだった。
 寝起きのハンスは、いつもより大人らしく見えていた。

 しばらくクロードの目を見つめていたハンスは、皮肉にも見える笑みを浮かべて口を開いた。
「急だね。なにそれ」
「初めに、お前に言っておきたかったんだ」
「村長さんには言ってないの」
「まだだ。今日か、でなければ近いうちに」
「そう。でも、どうして」
「ここには長く居過ぎている」
「失敗した訳でもないのに、変じゃない。追い出されもしないのに出て行く魔法使いなんて、僕は聞いたことがないよ」
「でも悪いことじゃないだろう?私だって、一度くらい惜しまれながら旅立ってみたいよ」
 クロードは微笑みながらそう言ったのだが、ハンスは笑ってはくれなかった。
 皮肉も顔から消え去り、睨む瞳には少しずつ光るものが浮かんできていた。
 クロードはかぶりを振って、言葉を続けた。
「急にこんな話をして、悪いと思っている。でも判ってほしい。ハンス、私は、マリエルと一緒に村を出ようと思っているんだ」
「マリエルと」
 ハンスはそう呟くと、口を引き締めた。
「彼女を城に閉じ込めていたくはないんだ。しかし、彼女がこの村で暮らすというのも私は安心できない。これが、一番いい選択だと思っている。許してくれるかい、ハンス。彼女を連れて行くことを」
「マリエルは……なんて言ってるの」
「付いて行くと言ってくれている」
「だったら、だったら僕が、何か言えるわけないよね」
「結果、私は君たちを引き離すんだ。すまなく思うし、マリエルだってお前に会えなくなることは淋しがっているよ」
「でも行くんでしょ」
「ああ」
「すぐ戻ってくる?」
「すぐには無理だ」
「いつか戻ってくる?」
「判らない。でも便りは出す。一生会えなくなる訳じゃない。お前が大人になったら」
 ハンスは布団を跳ね除けて上体を起こした。
「僕が大人になったら?その時クロードが何処にいるかなんて、僕には判らないよ!手紙なんて、そんなの当てにならない。届かないかもしれないし、そしたら、二人が何処にいるなんて判らない。一生会えないのも同じさ!」
「それは違う。お前が望むのならいつかきっと」
「僕が望むなら?僕の望みが判るの?判ってないじゃないか。僕は行ってほしくないんだ」
「ハンス」
「ばれなきゃいいんでしょ。そうすれば戻って来れるじゃないか」
「一度村を出れば、そう簡単には戻れないよ」
「その間、誰も雇わなきゃいい」
「こちらの都合通りには行かないだろう」
「どうして」
「ハンス、判ってくれ。いつか」
「判らないよ!世界中旅して回ってる厄介者の魔法使いが今何処にいるかなんて、判るわけないじゃないか!」
 ハンスが激高する様を見て、クロードは昔を思い出していた。
 ロバートが死に、エレンが泣き、ハンスは肩を震わせ食ってかかってきた。
 
 やはり長過ぎたのだ。
 
 流れ者が土地の者に深入りしても良いことはない。
 いつかはきっと、どちらかがどちらかを裏切ることになる。
 厄介者の魔術師は、ただ大人しく仕事だけしていればいい。
 判っていた筈なのに、ここに来てハンスに情を動かされた。
 そうなる前に、立ち去るべきだった。
 ハンスの上下する肩を見つめていると、彼が少しずつ落ち着いてきたのが判った。
 ハンスはクロードに掴みかかることはぜずに、気まずそうに目を伏せ、ふて腐れたように布団の端を両手で握った。
「ごめん」
「いや」
「クロード」
「何だ」
「マリエルが好き?」
「好きだよ」
「そう。そうだよね。だから一緒に行くんだよね」
「ああ」
「判ったよ。僕、今日疲れてるんだ。本当は体がきついんだよ。最近よく眠れなくて、変な夢ばかり見るんだ」
「そんな時に悪かった」
「ううん。だって、僕に最初に話したかったんでしょ。ねえ、すぐに行っちゃうの?」
「これから村長と話をしなければならないから、まだ判らない。近いうちに出発しようとは思うが、今日明日という訳じゃない」
「じゃあ、まだ会えるんだね」
「もちろんだ」
「明日行くよ」
「無理はするな」
「ううん。行く。朝は無理だけど、昼過ぎに行くよ」
「大丈夫か」
「うん。必ず行くよ﹅﹅﹅﹅﹅
 ハンスはそう言うと、顔を上げた。
 作り物のような微笑を浮かべていた。
 クロードは右手を上げ、ハンスの髪を撫でた。
「判った。昼過ぎだな。待ってる。明日、ゆっくり話そう」
「うん」
「ゆっくり休むんだぞ」
「うん」
 ハンスはベッドに横になり、クロードは布団をかけるのを手伝った。
「でも本当は眠りたくないんだ」
「どうして」
「変な夢を見るから」
「どんな夢なんだ?」
「変な夢だよ。とっても嫌な夢」
「じゃあ、夢を見ないくらいぐっすり眠るんだな」
「そうだね。じゃあ、また明日」
 ハンスが目を閉じると、クロードは部屋を出た。
 
 居間ではパークスが紅茶を飲んでいた。
 その前に座っていたエレンが、クロードに気付いて立ち上がった。
「何かあったのかしら?ハンスが何か大声を出したようだけど」
 クロードは軽く首を振った。
「ちょっと喧嘩を」
「まあ」
 驚くエレンにクロードは微笑む。
「大人しく眠ってくれたので大丈夫だとは思いますが」
「それならいいけれど」
「風邪は治ってきているみたいですね」
「ええ、昨日からやっと落ち着いて。このあいだ服を濡らして帰ってきて、それから熱が出てずっと寝ていたのよ」
「そうですか。でもどうして服が?」
「川で遊んでいたとか言っていたわ。まったく、元気が過ぎるのも困り者ね」
 エレンは肩をすくめた。
 紅茶を飲み干したパークスが立ち上がる。
「どうも奥さん、ごちそうさまでした」
「いいえ。あらでも、あなたもお茶くらい」
「いいえ、私は。お構いなく」
 クロードはパークスを促して先に歩かせた。
 玄関を出て、パークスは馬車に向かう。
 クロードはポーチでエレンを振り返る。
「あの」
 エレンにだけは、何か別れの挨拶のようなものを言っておきたかった。
 しかし、いい言葉は浮かんでこなかった。
 クロードはただ微笑むことしかできず、言った。
「お邪魔しました」
「いいえ。ご苦労様でした」
 クロードの妙な間に疑問を感じたようだったが、エレンはそれを口にはせず、微笑みを返してくれた。

 馬車に乗るとクロードは言う。
「すまない。村長のところまで連れて行ってもらえないか。いや、それより、やはりこの馬車を貸してもらえないか?」
「え、ああ、そりゃいいですけど」
 パークスは不思議そうに魔術師を見つめた。

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