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人間も世界も「自動機械」 ライプニッツが恐れたスピノザ思想の深淵

 前回、上野修先生の『スピノザ考』を紹介する記事を書いたが、この本には触発されっぱなしなので(笑)、引き続き、この書における重要な概念について、本書を参照しつつ、私なりの考察も加えてみたいと思う。

 どうやら、スピノザという人は、「人間」という存在さえも「モノ」として捉えていたのではないかということである。本書の帯文にもこうある。

スピノザとともに、人間が消える。
モノとその真理だけが残る。

本書帯文より

 昨今はスピノザブームとも呼べる奇妙な現象がある。(『スピノザの診察室』という小説も大ヒットしていますね。)
 スピノザは「喜びの哲学」「生の肯定の哲学」という一面があり、現代ではその側面が広く受け入れられている。たしかにそれも間違いではないのだが、一方で、上野先生も指摘するように、スピノザの思想は、捉え方を間違えると、われわれ人間を恐怖にへと陥れる恐ろしい哲学でもある。

 そうでなければ、スピノザ自身が生きていた17世紀、無神論者だの悪魔の思想だのと忌み嫌われ、続く18世紀になっても、スピノザの書を読むことはまだしも、スピノザ主義者と見做されることは、無神論者のレッテルを貼られることとなり、軽蔑、憎悪、敬遠の対象とさえなってしまう「危険思想」だったという現象もありえまい。

 スピノザと同時代人であったライプニッツなんかは、実際にスピノザに会いに行き、対決を挑んでいる。もともとライプニッツは、スピノザに興味を持っており、スピノザ主義に近いところにいたのだが、スピノザの思想に触れることで、危険を察知し、回避しようとしたのである。そのことを、ライプニッツ自身が「崖っぷちから引き返した」とさえ、書簡で回想していたという。一体何が、彼をそこまで恐怖させたのだろうか。

 上野先生は言う。

スピノザの形而上学の奇怪さ。それは世界の意味性の消失にある。ライプニッツが崖っぷちの向こうに見たのはおそらくこの根源的な無意味という深淵ではなかったかと私は思う・・・(中略)・・・崖っぷちの向こうに口を開いていたのはまさにこの自同的真理だけでできている現実という怪物であった。『エチカ』は言っている。神ないし自然とわれわれの呼ぶ永遠かつ無限なる存在者は「それが存在するのと同じ必然性で活動する」。だから現実がそれであるところの神は「存在することにも活動することにも原理や目的を何も持たない」。ありてあるものはありてある。「なぜ」はもはやない。

『スピノザ考』第10章「スピノザという崖っぷち――ライプニッツとスピノザ(2)」より

 ライプニッツにとって、現実世界は「意味する構造」とでも言うべきものの中に位置付けて考える必要があった。ライプニッツが可能世界における最善を選ぶ神「予定調和」の考えを持つに至った理由には、この世界における意味の回復にあったといってよい。

 世界やすべての事実はそのような意味の奥行をそなえており、「その奥行きが、この世界が選ばれた世界であるはずだという現実の実質をなしている」。こうした意味を持つ世界の奥行は、同時に、魂の奥深さを形作るだろう。なぜなら、われわれの魂は、現実世界の意味、全宇宙を映す「生ける鏡」、「モナド」だからである。

 だが、ライプニッツが構築しようとしているモナドによる世界観は、まるで「信仰」と同じで、証明不可能なものだと上野先生は言う。

 しかし、それだけライプニッツは、スピノザが斥けた、世界における「意味」、「魂」の奥深さを、回復させたかったのであろう。

(ライプニッツが重要な価値を与えていた)不安は魂の深さ、世界の意味を意味のしるし、なのである。ところが、こうした「不安」はスピノザではまったく価値を持たない。スピノザにとって、希望や恐れは可能や偶然といった想像の産物から生じる受動的感情である。すべてを神による必然として「永遠の相のもと」に見る者は、もはや希望も恐れも持たないであろう。スピノザの奇怪な形而上学においては現在と必然が一つにつぶれて永遠になる。哲学者はいまここで永遠に、神すなわち現実と一つになるのである。ライプニッツが恐怖したのは、こういうパースペクティブの消滅であったと言えるかもしれない。

『スピノザ考』第10章「スピノザという崖っぷち――ライプニッツとスピノザ(2)」より


 スピノザの世界(現実)には、意味や目的といったものがない。人間もまた、その現実から産出される、「様態」でしかない以上、人間の存在にも意味や目的はない。ただ、生まれてくるのである。ただ、存在するのである。

 現代を生きるわれわれに浸透している価値観、考え方は、スピノザとライプニッツ、一体どちらに近いだろうかといったら、ライプニッツの方に近いであろう。われわれ現代人も、もれなく、人生の意味であるとか、生きる目的、自己実現、人間の可能性、富と成功、人類の夢、といった世界の「奥行」を求めてしまう。その奥行きはそのまま自分たちの魂と写し鏡だ。われわれが、人生だ、自己だ、世界はこうあるべきだ、というとき、それはすでにライプニッツが構築した「信仰の構造」の中にある。念のためだが、ここでいう信仰とは宗教云々の話ではない。生きることの意味や、価値を、世界という現実に求めてしまうこと自体に孕んでいる構造そのものの意である。
 
 だが、この信仰無しに、人はどうして生きていけよう。どうして、生きることの喜びを見いだせよう。とはいえ、この構造もまた、人間がこの世界を生きていくうえでの、ある種の必然、生存戦略の一つなのだと、私個人は思う。たとえ、それが表象であろうとも。
(もっともスピノザも、そのような信仰を実践的には否定していない)

 しかし、スピノザ思想の核心には、ライプニッツが考えるような「魂」の奥深さといいったものは見いだせない。スピノザの世界は、徹底的に、自動機械的であり、コンピューターと見紛うべき、ただただモノが算出され、モノが法則に従って動き、法則に従って停止していく、という生成だけがある。それこそ、生成AIではないが、与えられた諸条件とアルゴリズムで動く世界なのだ。

 上野先生は、別の書で、スピノザの思想をまさに「ウルトラ機械論」と名付けている。

神=現実だから、私たちも石ころもみんな神の一部なんですよね。スピノザの用語で言えば、私たちはみな神の無限様態の一部ということになります。この様態は他の様態によって決定され、その様態もまた他の様態によって決定され・・・・と無限に続いていって全体は無限様態になっている。だからそのどこを取っても他の様態によって決定されている。その意味で、スピノザの哲学はウルトラ機械論なんですよ。スピノザとくらべると、デカルトの機械論は中途半端なんです。彼の言う精神は機械じゃありませんから。

『哲学史入門Ⅱ~デカルトからカントへ、ヘーゲルまで~』斎藤哲也(編)(NHK出版新書)より

 デカルトは人間の身体をメカニカルな運動体として捉え、機械論的自然観を構築した人物の一人として有名である。デカルトの時代から、科学革命の時代といわれ、哲学と科学が切り離され、現在の「科学」という学問が確立されていく。

 だが、上野先生は、デカルトは中途半端だったという。そう、デカルトもまたライプニッツ同様に、「われ」という精神を、機械的な身体と切り離し、魂の奥深さを確保しようとしたのであるから。それがデカルトの身心二元論である。この身心二元論こそが、西洋哲学のメインストリームになっていき、今日のわれわれの世界観、人間観にも浸透している。
 
 それでも、デカルトの機械論は、スピノザと近いところがあて、スピノザはデカルトの画期性を認めていた。だが、スピノザは「さらに激化させ、精神だって自動機械なのだ、というところまで行って」しまう

 昨今、AIが人間を超える、「シンギュラリティ」がメディアや世間で取り沙汰されているが、これなんかは、身心二元論の現代バージョンであろう。  
 機械のAIか、心(精神)の人間か、という二項対立が前提となってしまっている。ゆえに、AIの知性が人間にとってかわってしまうのか、機械と人間の「主従関係」が逆転してしまうのか、という議論になりがちなのだが、スピノザであれば、このような対立にはこう答えるのではないだろうか。

「AIと人間? 同じモノ同士だよ。神から産出された人間(モノ)が産出したテクノロジー(モノ)、これ、すべて神の無限様態なわけだから、対立もなにも、同一の世界(=神)における、個々の存在のバリエーション(一部)でしかないよ。ただ、人間の本性と犬の本性が異なるように、人間の本性とAIの本性の<差異>だけは、あるだろうね」

 そう、AIというテクノロジー=モノが、知性を持つ、思考する、ということは何ら驚くべきことでも脅威でもない。われわれ自身が、人間というモノとして存在し、モノとしての思考を行っているのだから。


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