向き合うべきだった問いとテーマ
昨冬、私は『空転する教育論 -雛が卵からかえるとき-』という記事で、
教師は、自分の理想通りに子供を育てることを求めるべきではありません。それは単に教育する者の理論や計画が成就したに過ぎないのです。教育が求めるべきは、むしろ、一人の人間の可能性を引き出すことだと私は思います。
と書きました。
しかしながら、昨日投稿した記事『主体性のありか ~ 稽古と教育 ~』から私は「教育の主体性は、生徒ではなく教師にある」ことに気がつきました。昨冬、私は教育の方法や理想を語るばかりで「教育そのものの性質」に目を向けていなかったのです。
私はどこかで、生徒が主体性を持つものが正しい教育だと考えていました。それゆえ、私は「それは教育ではない」と言い続けてきた。しかしながら、その指摘も「教育論」にとどまっていたのです。
私は「教育」という罠に、捕まえられたひよこだったということ。
「教育論」に疑問を抱くのではなく、私は「教育そのもの」に疑問を抱いていた⎯⎯そのことに、ようやく気がつきました。
教育者が「破壊も教育だ」とすれば、その理論さえ成立する⎯⎯暴力、暴言、破壊、それら全てを含むことのできるもの、それが「教育」というものなのです。それゆえに、それらを防ぐためのコンプライアンスが、あらゆる教育機関で定められています。
これは、私にとって強烈すぎる気づきでした。
教育そのものを否定しているわけではありません。それは、むしろ、人類に普遍的に存在する営みであるのだと思います。
だからこそ、「教育」、それが孕んでいる特別性(異常性)を理解していることが、教育者に限らず、私たちすべてにとって最も必要なことではないでしょうか。
年長者から若者へ、上司から部下へ、先生から生徒へ、先輩から後輩へ――誰かに何かを教え、育てるとき、その根底にあるべきは(理念があろうと、権威的立場であろうと)相手への責任と倫理なのです。
「教育」という言葉を概念的・観念的にとらえすぎると、そこに何でも許されてしまう危うさが生まれます。
本当に大切なのは、抽象的な「教育」という枠組みではなく、具体的な関係性の中での倫理だと思います。
さて、そのようなことを理解した上で、さらに明確になってきた疑問。
大学での学びとは違った角度から、文化や伝統の感覚を身体的、時間的、空間的に養いたいと日々を重ねてきました。
しかし、なぜ、保守論壇に身を置く教育者が、「破壊」という形で、その積み重ねを壊そうとしたのか。
また、そもそも大学を含めた学校教育は、伝統や文化、風土に根ざしているのか。
そして、保守の立場をとる指導者たちは、伝統や文化をどのように理解しているのか。
「教育がどうあるべきか」よりも「人はどう”学ぶ”のか」、私はどのようにして学びたいのか ⎯⎯これは、私が十七歳のときに向き合った問いでもありました。私が向き合うべきだった問いやテーマが、これまでの経験と思索を巡った今、再び、目の前にリアルに現れてきます。
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