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空転する教育論 - 雛が卵からかえるとき -


 これまでに三本、この出来事について書いてきました。


 私は、私の思うところを書いてきたつもりですが、うまく伝えることのできなかったところもありました。

 それはひとえに、私のみが、このことについて発言していたからです。
 そのときの状況、見たもの、感じたことへの思いが、読んでくれている人に伝える、伝わるよりも前に先走ってしまったから。けれど、私ははこの不快を伝えたいのではない。そうではなくて、これはすごく人間的で、根源的な問題だと感じて考えているのだけれど…

 と、考えていた折、ちょうど浜崎氏が教育について語る動画が二本投稿されました。

子育て論から読み解く「個人主義・能力主義」が社会を崩壊に導く理由

子育てから読み解く現代社会の問題点(京大レジリエンスフェスティバル)


 氏のいうところの教育が、そっくりそのまま語られているその動画。
 私は自分が感じたことの違和感や拒否感の原因を多く見、またそれが、教育に限らず、社会において人々を苦しめ、不和を引き起こしている原因の一つであると感じました。

 動画で、浜崎氏は踏み込むことの重要性を語りながら、「友達にでも誰にでも、踏み込みまくっていた。それで傷ついたこともあった」とおっしゃっていました。
 が、しかしそれならば、私に対して踏み込んだことも「教育」ではないはずです。

 友人にしているそれを、年下のものに向け、指摘され時にだけ「教育」として、さも正しいことのように呼ぶなんて、そんなおかしな話がありますか。それであなたが傷ついたのはあなたの勝手です。
 しかし、なぜ、それで人のことを傷つけたり、不快にさせているのではないかということに思いが至らないのでしょうか。どうして、人の生に踏み込むことを、教育を盾に全く正しいことのように考えていらっしゃるのでしょうか。

 浜崎氏がこの件について「こういうことはよくあることです」とおっしゃったように、本当に、こういう不和が世の中には多くあるのだろうと思います。が、よくあって良いものか、ない方が良いのか、どうしてそうなったのか、そういうところまで話を進めなければ、どんな言論にも全く意味はありません。

 そういったことを無視して語られる言論や評論は、ただ論戦という戦いを引き起こすための旗印にはなっても、真の安穏とはほど遠いものです。
 本当に、地べたに足の裏をくっつけて生きているものがいなくなり、あとには生の抜け殻のような活字たちが、紙の上に小さく散らばっているにすぎない、そんな言論にどんな意味があるでしょう。

 私はこういうことが、よくあることではない方が良いと思う一人です。
 そして、そこにある当事者の悲しみや苦しみが、素直な心をいよいよ塞ぎ込めてしまうような、そういうことは、ことの大小に関わらずない方がいいと思うひとりです。

 この件については、教育という土俵で語られることではありません。
 また、その土俵に持ち込んで良いものでもありません。

 これは広い現実世界と、それに目を向けられない教育との間にある問題であって、教育の中で、その範疇で語られるべきことではありません。教育と現実の、その関わり方、そのずれが問題だと私は思います。

 ことの起点を教育にすり替えられたとはいえ、こんなことは本当は人間同士の、すぐに解決できることだったと思います。が、教育にすり替えられるということが問題なのです。
 そこに、師弟とか生徒と教師という特別な関係が存在していない場合、「教育」という枠に当てはめて考えられること自体、おかしなことです。

 私は、生徒でも弟子でもないけれども、氏のことを一人の大人として、そうして自分にはないたくさんの知識と、経験を持つ言論人として、尊敬していたし、そのように接していたつもりです。

 しかし、そういう関係性や、様子を利用して「教師」や「教育」という言葉を何にでも使い始められると、若い人と年配の人間との間に、まともな関係が築けなくなってしまいます。そこには、長幼の序をふくみ持った人間関係があったはずです。


 その関係の中で起きた違和感について尋ねただけなのに、そこへ、「教師」とか「教育論」というものを持ち出されることに、私は何か、言い訳めいたものを感じざるを得ません。

 たしかに、現実にある微妙な関係性を、理屈で操るにはそうする方が楽に違いありません。教師としての指導だった、と。
 が、私に言わせてみれば、教師だからこうしたとか、教育者だからこうしたとか、そんなことは単に理屈に過ぎず、相手が教育という仕事についていてもいなくても、同じことなのです。いいえ、そこへ、教育を持ち出すことは、もっと悪いことではありませんか。自分の行いが、教師という立場によって守られているとき、その言動が省みられるどころか、正当化されている。そのことを私は言っているのです。

 すなわち、教育者の傲慢について。
 教育、教師、それを盾に自分の身を守っているだけではありませんか。
 それは、教育だから、教師だから、という理屈によって現実の出来事から逃げていることにほかなりません。そうして現実を傷つけて、傷つけた現実に向き合えずに、教育という世界に閉じこもっているに過ぎません。

 現実を理屈に当てはめることは確かにできます。が、その時、現実の多くの部分は切り捨てられ、忘れられているということにも、気をむけておく必要があるはずです。
 そこに不可能性や可謬性があることを忘れて、理屈や理論や理想に基づくと、人は現実を、生を取り逃してしまいます。

 何にせよ、自分の頭の中でぬくぬくと可愛がられた理屈が、そのまま現実に通用するはずはないのです。
 教師は、自分の理想通りに子供を育てることを求めるべきではありません。それは単に教育する者の理論や計画が成就したに過ぎないのです。教育が求めるべきは、むしろ、一人の人間の可能性を引き出すことだと私は思います。

 まだ孵らぬ卵を、よその鳥がノコノコやってきて外から割ることは教育でもなければ、創造でもなく、単なる破壊に過ぎません。
 卵は、親鳥に温められて、そうして雛は自ら、内側から殻を割って出てくるものです。

 教育者にできることは、卵を割ることではなく、卵を温めて、そしてただ、待つことです。時期が来れば自然に起こることを、自分が起こしてやったというのは傲慢です。それは、何かが生まれる時には破壊が起こると言うそのことだけを抽出して、どんな卵をも闇雲に割っていることに過ぎません。

 生まれた後には、ひなは大人の真似をするのみです。
 大人がひねくれていれば子供もひねくれ、大人が素直であれば、子供も素直に生きられるでしょう。

 大人は子供に何かを与えてやらねば、と努めるより先に、一人の人間として伸びやかに、そして毅然と生きていくことに努めて良いはずです。それは子供を放任することではありません。ただ自然に湧き上がる愛情で、子供を育てること。それ以上に温かく、子供を温め、包み込んでくれるものはないはずです。



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