空転する教育論 - 破壊と創造 -
前回記事、「私がされた破壊について」「法と言論」の続きです。
破壊や嫌がらせ、卑怯なことをされれば、人は誰でも不快になり、悩まされる。そういう困難が、たしかにその人を強く成長させて、真理に気づかせることもあるけれど、それは単に結果論であり、教育が意図してすべきことではないと思う。
破壊と創造。よく聞く言葉、最もらしい言葉であるが、さて、浜崎氏は一体私の何を破壊しようとしたのか。そして、何を創造しようとしたのか。
教育の名の下、「破壊」を意図的に行ったのであるならば、私の何を破壊しようとしたのか、来るべき創造に対する責任としても応じるべきではなかったのか。破壊だけして、あとは無視。全ての物事に対する姿勢が丸見えである。今も、私はこの一件に関して無視され続けているわけだけれど、氏がもし本当に「創造」を求めていたのであれば、それについて話をすべきである。が、私が見せられているのは、言い訳ばかり、逃げてばかりの教師の、言論人の姿でしかない。
破壊とは、他者に対して行うべきことではない。起こるものである。人が人に「月に一度してあげられる破壊」とはなんなのか。
爆弾落として街を一掃、古い街を壊して、新しい街を作れるようにしてあげた。そのような思想と、一体何が違うのですか。そのような破壊者たちでさえ、破壊するものを選別し、創造の計画を実行してきたが、もし氏に創造の計画があったのならお聞きしたいところだった。
他者に向けて行われる、創造なき破壊とは一体何なのだろう。
創造すること。
創造という言葉の「創」という字には「きず」という意味がある。創造、その一言に「破壊」の意味を含んでいる日本の言葉に、私はひとつの知恵を感じる。破壊と創造は裏表の関係であって、何かを作ろうとするときには必ず、破壊が起こる。創造という、次の一歩を踏み出すとき、必然的に起こるものなのである。
破壊を目的とした破壊は、破壊しか生み出さない。創造を求めたときに引き起こされる破壊は、創造の一部となる。
心の奥底で静かに燃えている、創造への情熱。それのみが、本当に必要な破壊を引き起こす。私は、自分自身で創造するために、それに伴って起こる自身の大きな破壊や変容を臆することなく選んできた人に学ぶ。彼らは手取り足取り教えたりはしない。その姿から、私はごく自然に学んでしまう。教えずして、教え、破壊せずして、破壊する。
氏が破壊と称して行ったことの先には、一体どのような創造のビジョンがあったのか。もし、なんの目的もなく、ただ私を破壊したというのなら、それではただの破壊屋である。そして、そもそも、人が頭で考えて意図した、他者への「破壊と創造」が現実の世界で思い通りになるわけがないのだから、人を破壊するときには、それなりの覚悟が必要のはずだ。
・五年間表へ出ないこと
・物理的な一人暮らしが自立
・大学進学はした方がよかった
これらは、仕事の内容についてでもなし、振る舞いについてでもなし、創造に向かうものではなく、単なる「人生の支配」である。私が選んだ生き方をやめなさい、ということ。これらは氏個人の理想の押し付けでしかなく、教育として正当化されるべきものだとは少しも思えない。
いくら人前で正当な理屈を並べることができても、学術のさまざまな情報を持っていたとしても、現実がこれではどうしようもないでないの。これでは保守どころか、教育どころか、人を破壊しているだけの破壊屋である。
私が大学に進学せずに、今のような暮らし、家事を軸にして随筆を書いたり、美術や文化に触れりしていることには、一つには本当にシンプルに「生きる」ということがしてみたい、ということと、そうしてそれを、かつて日本の、昔の女性たちは体現していたということを知ったことにある。
私が惹かれた女性たちは、純粋に家庭の人で、一人で暮らしたり、お金を稼いだりするわけではなかったけれど、子供を育て、家の中を切り盛りし、そうして生活を豊かにするコツや知恵、生きてゆく強さと美しさを持っていた人たちである。何の専門職も持たず、しかし「生きる」ということから絶対に離れない彼女たちは、とても創造的な仕事の持ち主だった。衣食住のあらゆるところに手業を持ち、ときに詩歌や文学をも嗜んだ。彼女たちは自立していたと、私は思う。現代の価値観の中で忘れられてきた、そのような女性たちに私は魅力を感じたし、実際にそのように生きたいと思った。
この頃よく思うことだけれど、これは思想やイデオロギー、国境をも超えて、世界各地で母なる人々がその手で紡いできた「生」のとても当たり前の、普遍的なことなのだと思う。
彼女たちはその土地土地に根ざして、調和を求めて生きた。生活を生み出す家庭の仕事。文化の根幹。それはあまりに普遍的すぎる姿であり、その姿にはイデオロギーによる違いは見当たらない。普遍的すぎるもの、それは同時にとてつもなく特別なものとなる。保守派に欠けている点はここ、生活からの視点や芸術との触れ合いやその表現であり、生活や芸術に関して言えば、左派の方が上手に取り込んでいるように見える。婦人新聞の読者や婦人活動家などに、生活の中で暮らしの芸術を実践している人たちが多いのも事実である。が、私が共鳴や尊敬を感じるのは、右派でも左派でもなく、母である。
保守言論人の浜崎洋介氏は、私の何を破壊しようとしたのか。
氏の振る舞いや発言に、私が自ら「表に出るのをやめ、大学に行って、一人で暮さなければ。」と思えるような魅力を感じ、感動させられたなら、それが氏のいうところの破壊となって私にもたらされたに違いない。
物理的な一人暮らしが、自立。
ならばお聞きしますけれども、浜崎氏ご自身はどうなのか。家族とともに暮らしているのではないのですか。
自立とは、一人でお金を稼いで、ひとりぼっちで生きていくことではない。むしろ、他者と暮らす中で、自分の役割を果たしたり、できないことは人に頼れることができる人こそ、自立している人である。
家族とともに、それぞれの力を合わせて生きていくことの中に、自立の姿はありませんか。都会で暮らす私には、「自立」と自信を持って言えることは少ないかも知れないけれど、決して一人で全てをこなそうとするのではなく、身近な関係性の中で、お互いの役割を果たせてこそ、自立はある。若い頃に一人で暮らした人と、家族と暮らした人とで経験が違うのは当然で、そしてそれらのどちらも等しく「経験」である。全てを経験することはできない。
そしてもし、一人で暮らしたり、稼いだりすることが自立だというのなら、氏が私の仕事を制限することや、これまでの人生を否定することは、筋が通らないことではないか。選んできたこと、その中から見える新たな視点、そこから書いた文章。それで、私がお金をもらっていること、もらって生活していくことは自立とは呼べないのですか。大学へ行けとか、一人で暮らせとか、五年間表に出るなとか、どこに氏のいう自立への手立てがあるのか。
もし私を破壊したいのなら、徹底的に私の原稿を批判してくれればよかったのだ。そうした方が、新しい何かが生まれたはず、創造がもたらされたはずである。なぜ、ご自身の言葉で答えることができないのか。信頼がなくて話ができないとは、言論人の言葉ではない。そんなことで、不特定多数に向けた言葉がどうして展開できようか。真理を追求したいという気持ちがあれば、話はできる。それは議論でもなければ戦いでもない。無私なる真理の追求。私がしたいのは、それである。
同じ場には、私を除いて一人暮らしの大学生しかいなかったが、彼らに対して、氏は「大学を辞めた方がいい」と言えないはずだし、言わなかった。それは、言う必要さえない。が、しかし、家庭生活をしている私に対しては「一人暮らしが自立、大学へ行け」と平気で言えるのである。
浜崎氏が教育として、私におこなっていることが、大学生に「大学を辞めろ」と発言をすることと少しも変わらないということを、氏は微塵も理解できていない。大学に行っている人はそれを選択していて、私はこれを選択しているのである。
わかりやすい、見慣れた「形式」がないから、つまり、あなたにとって私の選択や生き方が大勢と違って未知のものだから、私の生の姿を捉えられずに、うっかり踏み込んでしまったのでしょ。人は、自分の知っているものしか見えない。
大学生は大学生として見て、私のような、前例も肩書きも持たないものについてはよくわからない。それなのに、壊して、育てやすいレールに乗せよう、と。
結局のところ、氏は大学生の本質も私の本質も、見えていない。なぜなら、肩書きに関わらず、それぞれの人間が生きている人生は、全て既知のものではないからである。人が何をもって、自分の知らない人生を破壊できるというのか。一人の人間にできることは、自らの人生の創造と、それに伴う破壊を、恐れず、怯まず、ときに受け入れながら進むことだけである。
自分の臆病を破壊する創造へのエネルギー。私は、そんな生の力を感じながら生きていたい。
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