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続・空転する教育論 - 序にかえて -

 前回『空転する教育論』をnoteで連載したのは、昨年の冬からことしの春まででした。

 一年前の夏、長野の方々にお会いしたいという気持ちと京都で起きた理不尽な出来事への疑問を抱えつつ、それでも参加した信州の学習会。

 その日までにと、毎日ちくちく仕立てていた浴衣を着てひとり参加した学習会で「今の時代に独学はできない」「若い受賞者は堕落する」と、まるで、私が間違っているような「空気」づくり、壇上から、私に対しての振る舞いや言動を「教育者」という立場で正当化するようなお話をされ、私は悲しさ、悔しさ、馬鹿馬鹿しさに込み上げる涙をこらえて帰り道の新幹線に乗りました。


 「これが、本当に正しい教育論?これが、保守言論人の教育論?これが、言葉を仕事にする人間の言葉の使い方?」


 それらの教育論について批判した原稿の不掲載。
 一連の出来事に社会的な判断を仰ぐべく、原稿やメールの資料を抱えて何度も法曹の街を駆けまわった秋。
 公に言葉を紡ぐ決心に、ふたたび万年筆を手に執った冬。
 そして、それらの出来事に、ちらりほらりとではあるけれど、理解を示したり、意見を下さったりする人が現れた春。


 初めは、コメントも反応も少なく、一度つけたいいねを取り消す人もいたり(その気持ち、理解できます…)、コメントを削除される方もいたりと、これはネガティブな問題、「臭いもの」として蓋をされるテーマだという認識が私の中にもありました。

 しかし、投稿時から今でも『空転する教育論』シリーズは、私のノート記事の中で、群を抜いてアクセス数の多い記事となっています。
 「教育」というもの、あるいは「保守」、そして「言葉」に至るまで、実は多くの方々が疑問を抱き、注目し、思索をされているということが伝わってきています。

 このような形での発信、個人でのか細い試みですが、記事が残り続けるということ、時間をおいて考え直すことができるということは、月毎に本屋さんの棚から入れ替わってしまう定期刊行物ではできなかったことです。
 それゆえ、私はこれからも、必要だと思うことを、長い時間残る場所、気軽に開くことができ、多くの方々に届く場所、そして、私の責任において発信できる場所で書き続けていきたいです。

 昨年起きた出来事を、私がもし「よくあること」とあきらめて、泣き寝入りしていたら、ここに含まれるさまざまな問題を、私はこの先も見て見ぬふりをして、健康に考えることができなくなっていたと思います。

 この出来事に向き合うまでの私は、言葉によって問題を取り上げ、さまざまに議論を交わす言論というものに、なんの意味があるのだろうと葛藤することもありました。
 しかし、そこにはやはり、意味がある。
 それは、目に見えないまま醸成される空気や世論の中で「王様は裸じゃないか!」と一声あげる役割を担ってはじめて、人々の生活にも役に立つものなのではないでしょうか。

 さて、今年も長野県で浜崎洋介先生の講演会が開催されるというメールが届きました。今年のテーマは「日本人の信仰心について」だそうです。


 武士道、死生観、信仰心、作法、師弟、etc…

 いかにも「保守」の好むテーマで、事実、考えるに大切なテーマでもあると思います。しかし、それらが単に「語られる」とき、私たちは、それを「語る」人が、あたかも、それを「体得」しているかのように勘違いしてしまう恐ろしさがあります。
 そして、もっと危ぶまれることには、それらを学術や書物によって得て「語る人」自身が、自分があたかもそれを「体得している」かのような錯覚を起こし、そのように振る舞ってしまっていることです。

 たしかに、学術は自分の知らない世界へ導き、新たなる地平を切り開いてくれるという素晴らしいものです。しかし、同時に、そこに身を置く人にとって、そのことは、もっとも警戒するべきことではないでしょうか。

 書物や情報から生まれる考察と、体験から生まれる考察は、まるで違うもの。

 たとえば、学者を例にとっても、西田幾多郎は参禅を重ねた末に、その体験、体得したものから、深められた思索から、日本の哲学の礎を築きました。西田幾多郎以外にも、実際にそのような門をくぐり、体験、体得された大先生が大勢います。保守思想の西部邁先生も、幼少期を戦中、物心ついた時には占領下の日本で過ごし、激しい学生運動を身をもって体験されています。

 武士道、死生観、信仰心、作法、師弟、etc…

 それらの体験や体得もなく、書物や知識だけから、同じように体験や体得のない聴講者、読者に向けて、それらが扇情的に語られるとき、何が起こるでしょうか。事実、そのような人々が保守論壇、保守政党に集っているのです。

 しかしながら、論壇の中には学者然、研究者然として、ひたすら書物や論文と向き合っている誠実な学者さんもいます。
 そのような人たちは、決して私たちを扇動したり鼓舞する事なく、また、道や師弟の体験を持つ人に、いつも耳をすませ(破壊などとは程遠い謙虚な姿勢で)ありのままのものをじっくり見つめた考察、思索を提示してくれます。

 浜崎先生は、自身の大学時代に受けた教育について、師弟関係の象徴として「灰皿で殴られた」というエピソードをご自身の体験としていつも話されるのですが、もしそれが、今の自分を作るために必要な教育であった、と思われているのならば「灰皿で殴られた」と、傷害事件になりかねないような、暴力的な指導として誤解を招くような雑な伝え方をすることは、師に対して不作法であり、表現としても稚拙ではないしょうか。

 灰皿で殴られた経験をただ披露したいのか、武勇伝の如く、「大袈裟に」語っているのか。それとも、灰皿で殴られることにある程度の必要性を感じていたのか。浜崎先生がそこに何を感じているのか、全く伝わってはこないのです。

 私はここに、「保守」が嫌なものとして見られる原因を感じます。
 そこに、ただ暴力的な経験を語って、自分を強く見せたいだけの幼さを、私は感じてしまいます。

 昨今の「保守」を掲げる人の、慎重さや謙虚さを欠いた粗野な物言いに、私は落胆のため息が出ます。

 体験を丁寧に語らずして暴力的なものをちらつかせることは、インテリジェンスの敗北であり、同時に、真の道・師弟の関係を持つものに対する冒涜です。伝統的な芸や道を極める人に対して、品を欠く言動は慎んでいただきたい。

 教育問題にはじまり、指導者の振る舞いや組織の構造、わたしたちの生き方に至るまで、あらゆるテーマが含まれる出来事が、ニュースや情報、書物の中からではなく、実際の体験として、私の身に起きたこと。さらに言えば、ほかでもない「私に起きた」ということにおいて、私は言葉を紡ぐ資格を与えられていると感じます。

 浜崎先生、はずれくじに大当たり。
 「教育」というものに少なからざる疑問を覚えて、このような人生の選択をしてきた、はずれっくじの私に、あろうことか「教育」と称して「破壊」を企てるとは。

 神様が、それを乗り越えてさらに良い世界を見つけることのできる者に試練を与える、とするならば、この出来事は、私にとって、それからこの出来事を知り、読み、考えるすべての人にとって、本当のことはなんなのか、考えることのできる機会だと、私は思いたい。
 考えるということは、全て、自らの生活と、出来事と、出会いと関係することによって生まれるはずです。

 教育論や哲学書、権威ある有名な学者の言葉を借りて引用しなくとも 、私は私の体験の中から思考し、私の言葉でさまざまなテーマについて思索を巡らせることができます。信仰心にしても、師弟関係にしても、日本人の作法にしても、私の体験、体得、そこで感じた事、そのような事を、私の言葉で紡いでいきたいと思っています。お付き合いいただければ、幸いです。



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