展覧会がはじまるまで.3
↓前回の記事はこちら
新幹線の車窓から眺める街々の風景は時速300kmで過ぎ去っていく。
そこでの人達はどのような暮らしをしているのかと、想像を寄せる間も無く、東西500kmが連結された都市という人工物のあまりの巨大さに、思考が追い付かなくなる。
3時間足らずで東京と行き来できるようになった私達から、何か、欠け落ちたものがあるのではないか。
取材記録
品川駅(2025年10月25日)
品川駅、再訪。
前回、高輪口の再開発の様子を見て回ることができた。
この時は、港南口側を中心に見て回った。
ドコモのレンタルサイクルに乗って、駅から南へ、品川宿のあった辺りへ向かう。
旧東海道沿いに行くと商店街のような雰囲気の親しみやすい街並み。品川宿交流館という観光案内所もその並びにあり、東海道の残り香が守られているような気がする。
にもかかわらず、この頃はまだ、この記事に対する意識が低く写真が撮れていない。
大井町駅の辺りに品川区立歴史館がある。

リニューアルオープンして間も無いらしい。
幕末の土木技術で砲台を置く人工島を作っている時のジオラマなど、面白い展示があった。
品川は古くから陸・海交通の要衝だった。
新幹線駅のある街の歴史を調べると、そもそも鉄道以前からその地域の交通機能を担う場所であったことが多い。

港南口に戻る。
品川駅と言えばこの駅前広場周りだろうと、近辺を行ったり来たりぐるぐるとしていた。
駅前に交番がある。鳩みたいにきょろきょろウロウロと、何百枚かの写真を撮っていたが職務質問はされなかった。
怪しまれていなかったのだろうか、いや、怪しまれてはいただろうと思う。

品川駅南側からも再開発の様子を眺められる。
東京ではその後、新国立美術館や東京都写真美術館に行った。
品川駅にはまた訪れることになる。
新横浜駅(2025年10月25日)

新横浜駅北口。
奥に見える円柱形のビルは新横浜プリンスホテル。右手前には、駅ビルのキュービックプラザ横浜で2008年開業。
北口側には新しめの景観が広がる。




1964年に新幹線駅ができるまでこの地区には国鉄横浜線の線路が通っていたが、駅はまだ無かった。以前見た新大阪駅や三河安城駅と同じく、田畑の広がる地帯だったそうだ。
なぜ新横浜駅がこの場所に造られたのか。
新幹線の建設計画があった当時、日本初の鉄道駅である横浜駅にはもうすでに国鉄以外にも京浜急行電鉄や相模鉄道の私鉄路線が入り、これ以上の駅拡張が困難だった。
限られた工期で山越えのルートや、用地買収が複雑な市街地を通るルートを避けて、迂回をせずに済む立地として現在の新横浜駅が作られ、同時期に、駅前に自動車道の環状2号線が開通した。
開業当時はまだ、駅があるのみの田園地帯だったが、その後大きく発展する。
1985年横浜市営地下鉄で横浜駅と繋がり、2008年にのぞみ列車が止まるようにもなった。2023年には東急電鉄、相模鉄道の新横浜線が開通する。
新幹線以前から交通の要衝として栄えていた品川に対して、新横浜駅周辺は新幹線によって交通の利便性が生まれ発展している。




駅の中を通り抜け南側の篠原口へ。


新横浜駅の北側と南側の風景の違いは有名らしく、確かに全く別の駅と思えるほど違う。
地形の起伏が激しく、再開発も難しそうだ。都市計画案がたびたび出ているそうだが地域住民から反対があるらしい。
このギャップのある今のままが面白いとただの観光客としては思う。
この日は横浜で泊まり、次の日は高校時代の友人に誘われて山梨へキャンプに行った。
小田原駅(2025年10月27日)
存分に自然を感じ、小田原駅へ。
友人が車で送ってくれた。ありがとう。

小田原の街は、戦国時代の小田原城主、北条早雲によって城下町として整備された。
写真では影になってるが商店街のアーケードの下には、北条家の家紋が掲げられている。かっこいい。




左手にはミナカ小田原という複合施設。土産物店や飲食店の入った建物と、ホテルやオフィス、図書館、観光案内所の入ったビルがある。
もう夜。
小田原には再び訪れることになる。

江戸時代、交通の要衝として栄えた小田原宿。
江戸から出発すると東海道最大の難所、箱根峠の直前の宿場町に当たる。多くの旅人が箱根の山越えに備えて英気を養った。
しかし明治に入った1889年、地元の期待に反して、東海道本線の鉄道がその地形の厳しい地域を避けて、北に迂回する現在の御殿場線のルートで通された。
そのために小田原には鉄道が通らず、宿場町は大きく衰退する。
そうした状況の中、交通の利便性を回復するために、地元からの熱烈な鉄道誘致が起こる。
1888年、馬を動力とする小田原馬車鉄道(現・小田急箱根、旧・箱根登山鉄道)が開通し、小田原駅と東海道本線の国府津駅と接続し、その後電気鉄道へ転換する。
1895年には、豆相人車鉄道(後の熱海鉄道、1924年廃止)が熱海―吉浜間で開業。翌年1896年には延伸して小田原駅まで繋がれた。人力で車両を押すところから始まり(人車軌道というそうだ)、その後蒸気機関を用いるようになる。
いくつもの鉄道会社が民間によって興されて、当初は馬や人が車両を動かしていた。黎明期らしく面白い。
一方国鉄にとっても御殿場ルートは問題が多く、熱海線開通計画が始まった。まず1920年に国府津駅―小田原駅が開通。それを受け、小田原の町では盛大な式典が開催されたらしい。
そして、1934年、丹那トンネルが15年の工事を経て小田原―熱海間が開通し、東海道本線の経路が変更されて、現行の形になる。
江戸時代には交通インフラの恩恵を受けるが、近代に入って失われ、再び鉄道として取り戻し、今も人気の観光地である小田原。
小田原に新幹線駅がある、ということは私が思っていたよりも重い事なのかもしれない。
米原駅(2025年11月24日)
取材旅行兼、あいちトリエンナーレを見に行く旅。
途中下車をし、滋賀県・米原駅へ。
まずは米原駅から東海道線で隣の醒ヶ井駅へ向かう。



風情あるいい場所だった。また伺いたい。
米原駅に戻る。

中山道、北国街道、米原湊と昔から交通の要衝であった米原駅周辺。
現在もJRの東海道新幹線•東海道本線が通り、JR北陸線と近江鉄道の起点駅である。
JR在来線の東海道本線では米原駅以東でJR東海、以西がJR西日本と管轄する会社が切り替わるそう。
母の実家が米原市の北にある長浜市だが、確かに近畿圏とも違い東海圏とも違う文化圏にあるように思う。

西側(琵琶湖側)は新幹線が開通以降に造られた新興住宅地。
この一連の旅では珍しい生活の風景。

2,3年前訪れた時、西側には平和堂という大きな商業施設があったが、今は平和堂系列のフレンドマートというスーパーマーケットに変わっていた。



駅の東側へ。

米原駅東口のすぐ側には米原湊の石碑があった。
今、米原駅のある辺りまで、かつては琵琶湖が広がっていたらしい。

米原駅は積雪時の車両待機場や、JRの施設として貨物の操車場や車両基地が備わっているそうで、何本もの線路が通っていた。
上の写真右側に僅かに見切れているが、鉄道車両の研究施設もあった。




駅の直ぐ側には古くからの住宅地。
駅東側の青岸寺も観光の人で賑わっていた。

米原駅にはこれまでに見た新幹線駅とは異なった景観がある。
名古屋駅(2025年11月24,25日)
夕方に米原駅を出て、在来線で名古屋駅に着く頃にはすっかり暗くなっている。
名古屋らしい景観は、夜に見られるのではないかということでの旅程。
かつて駅裏と呼ばれた名古屋駅西側については以前の記事に記している。



現在も商店街周辺には韓国料理店や輸入食料品店が並ぶが、戦後に帰国ができなくなった多くの外国人工場労働者の人達もこの辺りに集まって暮らすようになったことがルーツにある。

商店街に面する椿神明社には河童伝説が残るという。神社北側のゆるくS字にカーブする笈瀬川(おいせがわ)通りは、かつて流れていた笈瀬川を暗渠化して出来た道。
この地域は伊勢神宮に縁があり「御伊勢川」とも呼ばれていた。椿神明社の境内の一部は再開発の対象となっている。

シネマスコーレは1983年に映画監督の若松孝二さんが作ったミニシネマで、この頃から若者文化の街として雰囲気が変わっていったそう。
夜であっても話に聞く、かつてのような治安の悪さはあまり感じないが、当時の名残もあるように思う。
繁華街の照明と工事現場の警告灯がビカビカと輝く。


新幹線ホームから見ると再開発エリアがよく分かる。工事中の混沌とした様子にはかつての闇市時代の光景が見えてくるよう。



次の日は名古屋市美術館から愛知県立美術館のあいちトリエンナーレへ。
熱田神宮へ行って、旧東海道を歩いて宮宿跡、そこから東海道の水上ルートである宮の渡しを見学した。
つづく。
