『最長片道切符の旅』を旅する day39-2 どうやって四国を出るか、それが問題だ (4) 仁堀航路をたどる
「『最長片道切符の旅』を旅する」は
宮脇俊三『最長片道切符の旅』(新潮文庫)を忠実にたどる記録です。
松山 1126ー1137 堀江 1205ー1216 松山1220(バス)1255 松山観光港 1415(フェリー)1610 呉港(徒歩)呉 1640ー1656 仁方 1721ー1859 三原


松山で予讃線普通列車に乗り換える。松山から11分、三つ目の駅が「堀江」だ。いや、ここに来るまでが長かったなあ。
9時50分発の鈍行で堀江まで乗る。堀江は松山から三つ目の駅で、ここから呉線の仁方まで国鉄の連絡線が出ている。

堀江は無人駅であった。駅舎も改札口もあるが駅員はいない。出札口はベニヤ板でふさがれ、「近距離切符は駅前の西村商店でお求めください」とある。

歩いて5分ほどで「ほりえ海の駅うみてらす」に着いた。


昔の乗船場がそのまま残っている。桟橋は今でも使われているようだ。

乗船場は「海の駅」になっていた。
海の駅前に今でもある「みなと食堂」で話を聞いた。
海を見るだけでは時間をもて余すので、食堂と雑貨屋が一緒になったような店を覗く。
食堂のお姉さん
「私は生まれとらんからねえ。分かりません。昔、ここに港はあったようだよ」

仁堀航路は四国側の堀江から本土の仁方まで一日三便、1時間40分で結んでいた。当時から乗客は少なかったようだ。

仁堀航路が廃止されたのは1982年の7月。同じ年の3月に「青春18きっぷ」が発売された。従って、この新しく発売された春の18切符に限っては「仁堀航路」が使えたのだ。航路は7月廃止なので、夏季18切符ではもう使えなくなっていたのだ。果たして「春の18切符」で「仁堀航路」に乗った人がいるのだろうか。
1982年は、鉄道の新しい幕開けの「青春18切符」、鉄道の古い時代の幕引き「仁堀航路」の廃止が交差した年だったのだ。
ChatGPTに聞いてみた。
興味深い視点ですね!1982年は、鉄道ファンや旅行好きにとって記憶に残る年だったと思います。「青春18きっぷ」が初めて発売された年であり、仁堀航路のような特定の交通手段が利用可能だった最後の時期が重なりました。
仁堀航路は、鉄道連絡船として非常にユニークな存在でしたが、利用者の減少と時代の流れにより廃止されました。その年の3月に発売された青春18きっぷで仁堀航路を利用した人がどのくらいいたのかについては、正確な記録が残っているわけではありませんが、可能性は十分にあります。
当時の鉄道ファンや、青春18きっぷの最初のシーズンを体験したいと思った旅行者の中には、仁堀航路を使った人もいたのではないでしょうか。特に、鉄道や航路の歴史に興味を持つ人々が「青春18きっぷで航路を楽しむ」という目的で利用した可能性があります。
また、1982年当時はインターネットが存在せず、情報共有の場は主に雑誌や口コミに限られていました。そのため、仁堀航路と青春18きっぷの組み合わせがどの程度広く認識されていたのかは不明ですが、鉄道ファンの間では話題になったかもしれません。
もし仁堀航路を青春18きっぷで体験した人がいれば、それは非常に貴重な体験だったでしょうね!
なかなか「情感」と「しめりけ」のあるいい答ではないだろうか。ChatGPT、いいやつだな。
さて、松山に戻ります。松山からリムジンバスで「松山観光港」へ。

松山観光港はモダンないい感じの港だった。

ここで「野菜丸ごとデリーカレー」750円を食べる。


雨の中、モダンできれいな「シーパセオ号」に乗船。乗客は20人ほど。




呉から呉線で「仁方」(にがた)へ。



仁方桟橋跡までは駅から桜並木を歩いて10分ほど。
桟橋までは工場、倉庫が建ち並ぶ。





仁方駅に戻る。戦前の呉線は軍港都市の威力で幹線並みの扱いを受けていた。展望車付きの急行が走っていたという。
仁方の駅に立つと、落ちぶれたとはいえ貫禄がある。なぜかと見回すと、ホームが長いのである。十二両ぐらいは停車できそうに長い。



これから三原まで行く。今日は三原駅前に泊る。

やれやれ、長かった39日目を終わる。ようやく四国を終え、あとは広島、山口、益田方面、そして九州だ。
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次は「中欧」「北欧」「東欧」に行きたいなあ。