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あんたはすごいよ【アルツハイマーな母の話】

今年81になる母はアルツハイマー型認知症で施設に入所している。
母に立派な肩書きがあるわけでも、自慢できるような特技があるわけでもない。
ごくごく普通の人だが、その母のボケた姿を見て思うことがある。
あんたの子育てと終活は完璧だ、と言うこと。

◆介護の窓口

母のアルツハイマー発症から今日まで、介護の窓口は私と言うことになっている。
父がいるのに、だ。
数年前に父と喧嘩になって1年間ほど父に任せた時もあった。
だが父も歳をとり、色々と手に負えなくなって引退宣言してきたので私にまたその役が回ってきた。

ちなみに私には妹もいる。
妹も私同様、50を超えた。
妹は晩産だったので子どもがまだ小学生。まだまだ子どもに手がかかる。
それに夫婦でサロン経営しているので、そう頼めたものではない。

そんな家族の中で、この私が介護の窓口を引き受けるであろうと、母は確信していた節がある。
母はそういう人なのだ。

◆母の子育て法

私は自営業で祖父母もいる環境で育った。
今思えば、よく従ってたなってくらい厳しい母親だった。

家は決して裕福ではなく、経済状況は中の下くらいか。
それなのに、習い事はひと通りやらせられた。
習字、算盤、スイミング、ピアノといった具合に。

社会の仕組みも知らず、自我もたいして芽生えていない未就学児の頃から始まった習い事。それはもはや洗脳だった。
辞めたいと思わず、いや、辞めるなんて選択肢があることすら知らず、小学校高学年になっていく。
おかしいなと思ったのはその頃だったか。
3つ下の妹も私に追従する形でこれらを習っていたが、妹はこれらを全て辞めたのだ。
特にお咎めもなく、さっくり辞めた。
やめた後でその件に関して母が妹にとやかく言ったことはない。

ちょうどその頃、友達と遊ぶという喜びを知ってしまった私。妹の真似をして習い事を辞めたいと言ってみた。
結果、許可されず習い事継続。
なーぜー。

ここらで少し反抗心が芽生える。
なぜ妹は許されて、私は許されないのか。

毎日毎日、親子の喧嘩。
辞める、辞めさせない——その攻防が続く。

喧嘩の途中でも習い事には連れて行かれる。
泣こうが喚こうが連れて行かれた。
時間に遅れようがなんだろうが、引きずってでも連れて行かれる。
終わると教室の前で仁王立ちで待つ母。ちゃんと逃げ出さずに終えたところを確認された。

ある日、母は言った。
「辞めるなら、ある程度のレベルまで達していないとダメ」

何で私だけ。
そう思いながらも、辞めるために習い事を続けた。
この矛盾は何だ。
もはや完全な洗脳状態だった。


おかげで習字は初段、算盤1級、水泳は強化選手コース履修、ピアノは大人になって先生ってやつになってしまった。
洗脳状態にあったが、途中でグレず暴れず、ある程度と言われたところまで続けたのは、これらをやらせるために母がパートをしていたことを理解していたからだ。

門限に関しても厳しかった。
冬は17時、夏は18時だかに防災無線から流れるお家に帰りましょうの放送。
あれより先に家に居ろと言う。
時間になっても帰らないと母と祖父による長女捜索隊がでる。
ちなみに、次女捜索隊は出たことはない。
いい子に家にいたから?いやいや、そもそも妹に門限はなかったのだ。

中学生になって部活が始まると当然帰宅が遅くなる。
だから部活が終わる時間になると、母か祖父が校門の前で待つようになった。
思春期真っ只中、友達の手前、恥ずかしいったらありゃしない。
しかも祖父はサザエさんの波平そっくりときた。
思春期女子の恥ずかしさは無限大に膨らんだ。

ある夏祭りの日、門限を大幅に破り、夜遊びを満喫した。
怒られるのは覚悟の上。
帰宅するやいなや、母と祖母に顔が腫れるほど引っ叩かれた。今だったら大問題だろう。
そんな私と対峙する母の後ろでは、夜店で買ったわた飴をなめながら帰宅した妹がいる。
まったく——本当に——まったくお咎めなし。
私はその様子を見て、「絶対にこの家の子じゃない、どこかで拾われた子どもなんだ」と真剣に思ったほどだ。

まだまだあるがそこは割愛。
こんな感じで、母の子育てというやつは、長女と次女で全く違うものだった。

それから長い長い時間が経った。

こんな環境で育ったからか、私は無駄に責任感のある大人になってしまった。
気づけばボケた母の後始末をすんなり受け入れちゃってる自分がいる。
何で私が?とか、たまには妹にみさせてよとか、逃げ出してしまいたいとか、本当に1度も思ったことはない。
今ここで初めて文字に起こして言葉にしたくらいだ。
すんなりと、恐ろしいほど自然に受け入れちゃってる自分がいる。

妹は早くに家を出ていた。
彼女は根っからの自由人だ。
その昔、母は妹のことを糸の切れた凧と言っていた。まさにその通り。
でもそれを羨ましく思ったり、恨んだりと言う気持ちはない。
逆に、自由すぎるその様を見て心配になるくらいだ。
妹に対して、何も思わないし、逆に何もせんでええよという自分がいた。
強いて言えば、困った時にお金だけよろしく、ってくらいか。

私の中の結論。
こんな私を作ったのは母だ。

ボケたあとで家族が困らないように、長い時間をかけて仕込んでいたんだと思う。
自分も、父と妹と円満に暮らせるように。

◆アルツハイマー確定

これが遺伝する病気なのかどうか知らないが、親戚中を見渡してもアルツハイマーな人は居なかった。
だから母がアルツハイマーになるとは思わなかったし、母も思っていなかった。

なるとしたらガンか卒中か?と言う話をしたことはある。
痴呆症は想定外だった。

母は子育てをしながらずっとパート勤めをしていた。
40になる頃に近所のパートを辞め、とある有名飲食店に勤めるようになった。
夜はノーネクタイじゃ入れないところに、朝から夕方まで働きに行っていた。
60で定年、その後嘱託で残り63〜4まで働いてたかと思う。
そして身体がおかしいと言って仕事を辞めた。
加齢だと言い張っていたが、後になって気づく。
それはアルツハイマー発症だった。

プライドが高い人だったからその病気を認めて受け入れるなんてできない。
癌やそのほかの病気なら早くに受け入れ自主的に治療をしただろう。
だがプライドが高くて「痴呆」は受け入れられなかったようだ。

国保で受けられる年1の健康診断。
そのオプションで認知症の検査をつけた。
その検査の途中で母はブチ切れた。記憶力の検査でブチ切れた。
私をバカにしてっ!
そう言って病院を飛び出した。
同行し待合で待つ私の耳にも聞こえる大きな声だった。
その後でご家族の方・・と呼ばれた私。
お医者さまの話だとよくあることだと言う。
痴呆初期でも年齢的にみても、この反応は良くあることだったらしい。
プライドが邪魔をして、わからないと言えなかったんだ。

こんな調子で母自身が病気を受け入れる前にアルツハイマーは悪化して、母自身、わけがわからないまま全てを忘れ、今に至る。

その後、知らない人が家にいる、お金を取られる、お金を取られた、お金がなくなったなどと数々のアルツハイマーあるあるを発信し、ご近所にまで迷惑をかけ始めた。

それと同時に、母がまだ半分は生きていた脳で考えたのが、財産関係を全て私に委託することだった。
母は悪化の一途を辿っていたので、私はそれを快諾し、同時にシングルファミリーとして過ごした賃貸マンションを引き払い、子どもたちを連れて実家で同居することにした。

そして母を病院に連れて行くことを父に提案する。
しかし父はその提案を却下した。
なんと、父も母がボケたということを認めなかった。
母は元々ちょっと天然だし、歳をとって物忘れがひどくなった程度だからと言い出した。

いやいや、これは明らかに病気の域。
確かにこの頃は「まだらぼけ」という状態でいた。
たまにだが健常な意識が戻ることもある。
だから私に財産を委託できたのだ。
だが欠落した記憶は戻らないのがアルツハイマー。
私たちはド忘れするという現象に遭遇することがある。
その忘れた部分は後で思い出せるのがド忘れだ。
アルツハイマーは忘れたら忘れたまま、何を忘れたか、忘れたということにすら気がつかない。

そんな記憶の欠落が原因で母はパニックになる。
記憶の欠落を文章で例えるなら
「今日はとてもいい天気だったので洗濯をしました。庭の花に水もあげました」は
「今日……した。…水…」となり、ただ水を持って立ち尽くすことになる。
欠落した洗濯や庭、花というワードは2度と復活しないのだ。
ふと気づいたら水を持って立っている自分にパニックを起こす。
なぜそこにいて、なぜ水を持っているのかわからないからだ。
この時の「なぜ」はいくら考えても出てこない。
だから暴れているんだと私は解釈していた。

後になってわかったことだが、この頭のモヤモヤをどうにかしようとしていた履歴を見つけた。
そんな近所ではない初めて聞く脳神経内科の診察券と領収書、予約表が複数枚出てきたことがある。
多分受診はしたんだろう。だが結果を聞きには行ってない様子。
受診したことも、結果を聞きに行くことも忘れちゃったんだねとわかった。

話を戻そう。

アルツハイマーが引き起こす行動にはいろんなパターンがあるらしいが、母のそれは最悪だった。

とにかくお金に執着し、暴言、暴力が酷かった。
すれ違っただけの見ず知らずの人に暴言を吐いた。
そのうち家の中でものすごい力で暴れ、とうとう怪我人が出た。
私の息子は熱湯をかけられ、娘たちは真夜中の寝ているところを重たい木のハンガーで殴られた。
ある日、私がパン切り包丁で切りつけられるという事件がおこる。
Tシャツはビリビリ、お腹は少し刺さったくらいで絆創膏程度で済んだ。
だが母を取り押さえた時に手のひらはかなり切った。
私は、母は痴呆症だ、アルツハイマーだと確信していたので、病気がそうさせるのであってこれは本来の母ではない。だからこれは仕方がないと諦めた。

父は目の前で私が切りつけられたことでやっと観念し、初めて地域包括センターの職員を家に呼び寄せることができた。
まさに怪我の功名。
ケアマネージャーが家に来るなんてことは、誰よりも世間体を気にする父には受け入れができなかった。
電話で相談をしたらケアマネージャーさんら3人がその当日に駆けつけてくれた。
こんな時、母はよそいきになる。外ヅラが格段に良くなる。
しかしケアマネージャーはプロ中のプロ。そんなのとっくにお見通しだった。

母と面談をした3人が口を揃えて言った。
「十中八九、アルツハイマーだと思われます。
医者ではないので確定ではありませんが、まず間違いないと思われるのでそのように動きます」と。

私の視界が一気に晴れた瞬間。
と同時に、父が更に目と耳を塞いだ瞬間だった。

最短での病院の予約、要介護度申請、すぐに認定されるだろうとデイケア場所の選定と申し込み、山ほどの書類と手続きスケジュールを組んでくれた。そして精神科受診もおわり、あっという間にアルツハイマー型認知症が確定した。

そこからは昼はデイサービスを利用。その間私は仕事に行けた。
夜は徘徊して出て行かないように、母が不穏な日は玄関で寝た。
私が疲れていると次女がその役目を変わってくれた。

しかし凶暴性は治らなかった。
治らないどころかひどくなった。

私も本気になれば母の1人くらいねじ伏せることはできるのだが、それではどちらかが怪我をする。
母が暴れ出すと父は自室に引き篭もるようになった。壊れて行く母を見たくないらしい。
これには私も一度だけキレた。
ふざけんなクソじじい!その目を開いて現実を見ろ!と。

私も母もあざだらけ、そして何より子どもらの精神衛生上このままというわけにはいかなかった。

だから今度は父に内緒でケアマネージャーに相談し、父に母をグループホームに入れることを進言してもらうことにした。私の提案ではなく、あくまでも専門家からの進言として。

◆母の復讐がはじまる

話は少し逸れるが…これだけ書いて読んでもらったら、そこそこ円満な家族だと思われるだろうが、実は違う。

母は嫁だった。よくできた嫁だったと思う。
そして父は長男、マザコンだった。
祖母にベッタリなマザコンなのではなく、親に何も言えない男であり、嫁より母親という人だ。
私は、母と祖母が仲良く笑っているところを見たことはないし、父が母を庇うところも見たことはなかった。

我が家の1日は母の作った味噌汁に祖母が味噌と醤油を足し、母がこっそり水で薄めるという攻防戦から始まった。
それが20年以上続いた頃、母が爆発し家出をした。
私には行き先はわかっていたし、原因は嫁姑と夫婦のことなので特に何もしなかった。
が、とんでもないことに父も何もしなかった。
どこかに電話くらいしたと思いたいが、どうだったのか、まだ聞いたことはない。
母の家出は2年に及んだ。
その間に父や祖父母が改心すれば良かったが、改心などしなかった。
久しぶりに見た年老いた祖父の姿に、情けをかけた母が折れた、という形で戻って家出事件は終結した。

その後祖父母が亡くなり、夫婦2人になった時、母はアルツハイマーになった。
父も母も、これからって時になんてこったと思っただろう。
でも今、母の介護が始まって10年ほどたち、私は時々思うんだ。これはすっごい復讐劇だって。

父はずっと母を顧みなかった。
母が困っていても助けたことは皆無だったし、嫁姑のいざこざの際は必ず母親側につく男だった。

そんな父が…だ。
母をグループホームに入れませんかとケアマネージャーから進言された席で、父は泣いた。
大の男が、娘の前で、声を出しておいおい泣いた。
そして言った。
「一緒にいたいんです。愛してるんです」って。

私は椅子から転げ落ちるほど驚いた。
この父がそんなことを言う?
「愛してる」だと?
いや、そんなキャラじゃないはずだ。
いやいや、いったい私の目の前で起こったことはなんなんだ?
まじか?夢や幻じゃなかろうかって。
それはそれは、本当に驚いた。

それに・・・本当は声を出して笑いたかった。
大声で笑いたいところぐっと我慢して、腹の中で叫んでいた。

やったね、ママ!
愛してるって言わせたよ!

私は知ってた。
母がこれを言わせたかったことを。

これまで嫁姑で苦しんで、父が何もしてくれないとぼやいていた母。
誕生日も結婚記念日もない。
なんのためにここにいるのかわからないとも言っていた。
そんな母からしたらこれはしてやったりということではないか?

だから、やったねママ!
そう思わずにはいられなかった。

復讐といっても、母はボケているからその成功をわかってはないし、現在進行形の作戦ではない。
母が数十年にわたって蒔いてきたものを、父に拾わせる。
そんなチマチマした、実にちっさい復讐だ。

だから今、母の健常な意識がないのが残念で仕方がない。

グループホームに会いに来させるという作戦。
父はもともとそんなことをする人ではない。
そんなことは絶対にやらない人だ。
だが、会いに行っている。それも頻繁に。

人見知りが激しく、寡黙で小心者な父。
そんな人が、グループホームに1人で面会に行くのだって信じられないのに、そのグループホームのハロウィーンパーティで、カボチャの仮装までして母とにっこり記念撮影をしていた。
もうびっくりだ。

母よ、やったじゃないか!
してやったりだ!

だがその後、コロナ禍突入。
感染予防で面会不可となり、父は不満を募らせた。
そして周りの反対を押し切り自宅に連れて帰ってきてしまった。

私は母をグループホームに入れてしばらくした頃に再婚していた。そのため親と同居を解消していたのだ。

それに私が病気持ちになってしまい、日によって体調がまちまち。
急に呼ばれたとしても体調次第では手伝えない。
だから老老介護を本気で反対した。
しかし私の意見は無視されて実行された。

父はそれまで家事一切をやったことがない。
炊飯器にレンジ、洗濯機の使い方も知らなければ、スーパーでトマトひとつがいくらで、それが高いのか安いのかも知らない。
そんな父に全てをやらせている。
父に食事を作らせ、着替えの手伝い、お風呂の半介助までさせている。
これ以上の復讐があるだろうか。

自分がボケたことで、父を100%振り向かせている。
だからその作戦が見事に成功していることを理解できない母が残念で残念で仕方がない。

すでにこの頃の母は、父のことも私のことも認識はしていない。
ただそこにいる人だと思っている。

でも父は母の世話を焼く。
この父の行動とその思いが母に届いているかはわからない。
それでも父は母の世話をする。
顔を見るたびに初対面のていで「こんにちは」と言われても、せっせと母の世話をしている。


2024年、母はまた悪化した。
それまで落ち着いていた徘徊と暴力がひどくなった。
徘徊で一晩行方不明、警察にも世話になった。
転んで骨折もした。

私とケアマネージャーとで父を説得して緊急扱いで病院に入院させた。
まず穏やかに過ごせるよう合う薬を探してもらおうと言う名目で。
入院は数ヶ月に及んだ。
そして、その間、時間をかけて父を説得した。
もう、みんなの安全のため、なにより母に長生きしてもらうために、今後は自宅には戻さないと。そして老健か特養入所を目指そうと。

さすがに今回は父も観念した。
それは頑なだった父が納得するくらい病状が進んだと言うことでもあった。


◆母の終活

以前、終活は定年ごろから始めればいいと何かで読んだが、母の就活は50余年がかりで行われたと思う。
まず、私を産んで育てたこと。
無駄に責任感が強く、大した文句も言わずにこんな両親をすんなり受け入れちゃう性格に育て上げたのだから50年がかりと言っていいだろう。

次にお金のこと。
母は昔からあんたたち(私と妹)に老後、金銭面で面倒はかけないと言っていた。
母の財産を私が管理するようになってわかったことだが、母はバブリーな時代に養老年金を掛けていた。それがなかなかお高いもので、それに加えて国民年金、厚生年金が入るので、グループホームも入院も介護のお金に困ることはなかった。

保険の解約や定期預金の解約、それまで組んでいた各種ローンの残債、習い事の退会から携帯の解約まで、すべてこのボケ始めた時期に完了してあり、まだらボケながらも、きちんと健常な意識があるうちある時に、自ら支払い手続き関係を終わらせていて、私たちにお金のことで迷惑はかけないということを実行していたのだ。
財産関係を委託されたといっても私がやることなんて月々の支払いだけだった。
まさにお見事。
これが終わって安心して一気に症状が出ちゃったのか?ともとれるこの行動。
自分の人生をこれ以上ないほど見事に片付けていた。
それは私には到底真似できない、見事なおしまいの仕方だった。


今現在、母は病院から併設の老健に移動してそこで過ごしている。

まだまだ怒りっぽく、暴力的な面もあり、落ち着くにはほど遠い。
それでも、母のことだ。
これから芽吹くであろう復讐の種は、あちこちに散りばめられているはずだ。
今後、それをせっせと回収していく父の姿を見られるのだと思うと、なんだか楽しみに思えてくる私がいる。



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