刑務所にいた、「なぜここにいるか分からない受刑者」の話
刑務所には、世間を騒がせた凶悪犯から、無期懲役受刑者、長期刑の受刑者、そして、いわゆる「ションベン刑」と呼ばれる刑期一年未満の受刑者まで、実にさまざまな人間が収容されています。
長い刑務官人生の中で、私は数え切れないほどの受刑者と接してきました。その中には、「この人は、本当にここに収容されるべきなのだろうか」と、考え込んでしまった受刑者もいます。
今回は、そう感じずにはいられなかった受刑者の一人を紹介します。
その受刑者は、入所当初から病棟に収容されていました。
病棟とは、突発的に体調を崩した者、感染症などで隔離が必要な者、高齢者、大病を患っている者、医療上、単独室が望ましい者などが収容される棟です。どの刑務所や拘置所にも、必ず存在する収容棟です。
高齢化社会を迎えた日本では、どの刑務所でも慢性的な過密状態が続いており、病棟も例外ではありません。
その受刑者は高齢で、片方の足に障害があり、松葉杖なしでは自力歩行が困難な状態でした。
自分の名前を聞いても、答えられるのは苗字だけ。なぜ自分がここにいるのかも分からない。あるいは、すでに忘れてしまっている様子でした。
そうです。彼は、重度であろう認知症の受刑者だったのです。
刑務官として現場で勤務する中で出会った、一人の受刑者。もうかなり前の出来事ですが、その姿は今でも鮮明に記憶に残っています。
現場で直接接した受刑者ですので、知り得た情報は限られています。ただ、ここで書ける事実として一つだけ言えるのは、彼が社会で自動車を運転中に人をはね、重傷、もしくは死亡させてしまったということです。
彼は、何度も刑務所に出入りする常習犯ではありませんでした。
たった一度の出来事――その一件の事故によって実刑判決を受け、刑務所に収容された人間です。
私たちも、決して他人事ではありません。車の運転ひとつ、ほんの一瞬の判断ミスで、人の人生を奪い、そして自分自身も刑務所に送られる可能性があります。
刑務所に入るか、入らないかは、決して特別な人間だけの話ではありません。それは、驚くほど紙一重の世界なのです。
私は、彼の人生そのものを知っているわけではありません。ただ、これまでの様子や振る舞いから想像すると、彼が刑務所に収容されるまでの人生は、ごく普通のものだったのではないか――そう感じてしまいました。
認知症はすでにかなり進行していましたが、日によるムラはあるものの、態度は終始穏やかで、礼儀正しく、声を荒らげることはほとんどありませんでした。
もし、社会で出会っていたなら。刑務所という場所でなければ。
きっと、近所にいそうな、どこにでもいるような、少し物静かで愛嬌のある「おじいちゃん」だったのだろうと思います。
しかし、彼は重度の認知症です。拘置所や刑務所という拘禁状態の中で認知症が進行したのか、それとも、逮捕時すでにこのような状態だったのかは分かりません。
ただ一つ確かなのは、彼自身が、なぜ刑務所に収容されているのかを理解していなかったということです。
刑務所で義務付けられている作業はできず、共同部屋での生活も不可能でした。話し相手といえば、巡回に来る刑務官くらいです。
しかし、刑務官も彼と長々と話ができるほど暇ではありませんし、受刑者と必要以上の会話をしないのが基本です。
自分でトイレに行くことも困難で、オムツを着用していましたが、床に漏らしてしまうことも多く、部屋は強い悪臭を放っていました。
もちろん、刑務所には看護・医療体制が整っており、定期的な清掃は作業を任された受刑者が行い、彼の状態についても看護師や准看護師が随時確認していました。
彼は夜中や早朝になると、「誰か来てください」と扉を叩くのが日課のようになっていました。
夜間や早朝の静穏な環境を乱す行為ではありますが、彼の部屋の近くで生活する受刑者たちも、日頃から彼の声を聞いて状態をなんとなく理解していたため、苦情や文句が出ることはほとんどありませんでした。
実際に対応すると、彼は決まってこう言います。
「私はなんで、ここにおるんやろう」
「明日、帰れる?」
対応が終わると、しばらくして、また扉を叩く。その繰り返しです。
いつの間にか眠り、食事をして、そして、また同じことを繰り返す――それが彼の日常でした。
そんな彼にも、面会に家族が訪れてくれたことがあったそうです。
上司から聞いた話では、彼自身は「誰が来たのか」まったく分かっていなかったとのことでした。本人に尋ねても、「誰か来てくれたのかどうかも分からない」という返答だったそうです。
ただ、一つ忘れてはならないことがあります。
彼の起こした犯罪には、確かに被害者がいるという事実です。
しかし、その本人は、すでに何も覚えていない。
罪も、理由も、そして、面会に来た家族の存在すら――。
この行き場のない想いは、いったい誰が、どこで受け止めればいいのでしょうか。
ここで問題になるのが、「責任能力」「処遇」、そして「人道」という三つの言葉です。
彼に、いま現在の責任能力はあるのでしょうか。
自分がなぜ刑務所にいるのかも分からず、作業も生活も成り立たない状態で、「罰を受けている」という認識すら持てていない人間に、刑罰は成立しているのか。
一方で、彼が過去に起こした犯罪には、確かに被害者がいます。
被害者や、その家族の立場に立てば、「覚えていない」「分からない」という事実が、救いになるはずもありません。
責任を問われるべき人間が、責任そのものを理解できない――この現実は、あまりにも残酷です。
では、彼を「受刑者」として処遇し続けることは、正しいのでしょうか。
それとも、医療や福祉の領域で引き受けるべき存在なのでしょうか。
しかし、現実には、彼は刑務所にいます。
医療施設でも、介護施設でもなく、「刑務所」という場所で日々を過ごしている。そこにあるのは、制度上の都合であり、明確な答えではありません。
人道的であるべきだ、という言葉は簡単です。
けれど、人道とは誰のためのものなのか。
本人のためか、被害者のためか、それとも、社会全体の安心のためなのか。
刑務所の現場では、その境界線が曖昧なまま、今日も人が収容され続けています。
そして私は、その線のどこにも、はっきりと立てていない自分自身に気づかされるのです。

