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映画『ぼくの名前はラワン』『愛がきこえる』を観て考えた聴者の視点

先日、ひさしぶりに映画のハシゴをしました。

1本目は『ぼくの名前はラワン』というイギリスのドキュメンタリー映画で、2本目は『愛がきこえる』という中国映画。

どちらも“ろう者”を扱った作品。

この2本を続けて観たことで、ろう者の生活を少し理解することができ、聴者の視点がいかに重要かを感じ、考えさせられた。

『ぼくの名前はラワン』で見えたこと

イラクで生まれたクルド人の少年ラワン。
ラワンはずっと、ろう者は自分だけだと思っていた。自分は”よそ者”だと。

ここでの生活は困難だと思った家族(両親と兄)は、難民としてイギリスに亡命し、ろう学校に入学する。

そこでようやくラワンは、手話を学ぶ。

ろう学校の先生がしっかりラワンの声を待つ。
決して急がず、ラワンのタイミングでラワンしか表現できないことを。

ろう学校での友だちもでき、ろう者は自分だけじゃないことを知り、自分の居場所を見つけるラワン。

次第にラワンの表情が明るくなっていく。

思い出したくない難民キャンプの生活も話すことで、本来の自分を取り戻していく。

ラワンの家族は手話ができず、口話でのコミュニケーションを望んでいましたが、手話を学んでいく。

手話は言語であり、表現手段でもあり、相互のコミュニケーション手段でることが自然に描かれ、感じられた。

『愛がきこえる』で見えたこと

こちらはフィクション。

7歳のムームーは、ろう者の父親シャオマーと二人暮らし。

ろう者ができる仕事も限られている。
手の器用なシャオマーは、ムームーがもってくる機械を修理する。ムームーがいないと仕事ができない状態。

雀荘の片隅で暮らしている。この雀荘に集まる人たちはみなろう者。
だからムームーは自然に手話ができ、みんなの耳になっていた。

聴者のムームーがろう者のためにできること。

これがこの映画の視点であり、大人になったムームーはろう者の声を聞く仕事をしていた。

事実と違うことを受け入れようとする父シャオマーを見て、ムームーは警察署で手錠をかけられた女性の声をしっかり聴く。

「ろう者は初対面で笑顔になる。だから彼女がろう者だとすぐにわかった」

心に残るセリフだった。

聴者の視点が問われる

2本の映画に共通するのは、聴者の視点である。

ろう者だからと言って我慢することはない。
諦めることはない。

私はこの2本の映画で“ラワン”と“ムームー”と出会い、少しだけ理解できた。

“多様性”を受け入れることは、知る必要がある。
知ることで偏見を減らすことができる。
でもこれの繰り返すしかない。

そして忘れてはいけないのが“ろう者”は一様ではないということ。
私たちがみんな違うように、“ろう者”も“多様”なのだ。

聴者は、ろう者の声を聞くことができる。
その情報をどのように受け取るか。
そんなものを問われていたような気がした。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

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