なぜ体罰をはじめとした行為が教育と言われてきたのか
こんばんは。
今日はこのお話ですが、実はこれ、前回の洗脳の話の続きです。
洗脳とは端的に言うと、外部の人間が、対象となる人間の経験を強制的に作り上げる行為でした。我々の神経に経験を打ち込み、自分達の思い通りに考え、行動するように仕組むものだったわけです。
で、実を申し上げますと、一昔前の教育って、全部こんな感じでした。(笑)
いや、笑い事じゃないか。今は学校で殴る蹴ると言ったことを行うと、体罰といって社会問題に発展しますが、教育者の方からすれば、なんでこんなこともできんの?っていう感覚になる人もいるとかいないとか。
最近だって、体罰を行う教師は多くいます。彼らは、生徒たちのためと信じている人もいるっちゃいます。
炎天下の中、長距離を罰として走らせ、生徒が熱中症で搬送されたりし、ニュースで報道されたりとか。
確かに、体罰という手段によらずに人を成長させる、ということを考える時代になったのだと言えます。体罰は、強制的に、自分達の都合のいい経験を、その人間に打ち込むことですから、手っ取り早いのです。楽なんです。反抗する気持ちがなくなるくらい、自分達を恐れさせておく。そうしておけば、自分達の思う通り、言うとおりに動く。その通りに動けば、教育された人間の出来上がり、というわけです。
教師たちを恐れた生徒たちは、教師の言う通りに動くようになる。少なくとも、教師が見ているようなところでは、彼らは表向き、いうことを聞くようになる。上に歯向かわない人間を育てる、これが教育の本当の狙いでした。なぜなら、その方法によって、人間がどんどん成長していく、という理屈であれば、逆に私たちが先生たちに同じことをしていけば、先生たちがどんどんどんどん立派になっていくはずだからです。だから、先に先生たちを立派にしていって、ものすごい人たちにしていって、それから私たちを育ててもらえたら、私たちだって、きっともっとすごい人間になれたはずです。
しかし残念ながら、それでは全く大した人間になれないことは、歴史が示している事実であります。
今日のお話は、教育とは、実は洗脳と紙一重である、というか、全く同じである、ということを伝えたかったのです。皆さん、なんとな~く、一緒じゃね???って思ってた人もいらっしゃるんじゃないかな。
そう、教育と洗脳は、一緒なんです。例えば私たちが家庭科で編み物を学ぶ。私たちは編み物を通し、次第に編み物に慣れていく。つまり、そうした経験が打ち込まれ、次からは針に糸を通すことも楽にできるようになるし、ミシンを使うことだってできるようになるわけだし、縫い方だってうまくなっていきます。
これは教育じゃないの?まぁそうです。でも、洗脳でもあります。洗脳はすごい悪いイメージがありますけど、やってることは一緒です。どうして洗脳が悪い意味を持つかというと、主に、上の人たちにとっての都合のいい思想を植え付けるために行われる、そういうイメージが強いからですね。
北朝鮮に住んでいる人たちで、サッカー選手とか、日本語ペラペラです。スパイとかも日本語ペラペラですね。彼らは教育を受けてきた、とその時は表現されますよね。でも、それらも結局、北朝鮮の指導者たちがそういうふうにしているからであり、結局洗脳の延長線上の行為、というか、洗脳なんですよね。
ロシアは国技として、今はアーティスティックスイミングというんですか。昔のシンクロナイズドスイミングや、フィギュアスケートなどで、英才教育を施していますけれども、ああいうのだって、英才洗脳みたいなもんです。経験を強制的に肉体に作り上げ、その競技自体の天才を育てるというわけです。
今日ここで言いたかったことは、これ一つ。長々と言って申し訳ありませんが、教育とは洗脳であり、洗脳とは教育である、ということです。リンクをたどって読んでいただけたらよくお分かりいただけると思います。言葉のレトリックっていうのは恐ろしいですね!
