見出し画像

「形而上学」はなぜこんなにわかりにくいのか - 日本語の翻訳語にひそむ、知的なかっこつけについて

「形而上学」という言葉は、何度聞いても意味がぱっと入ってこない。

調べてみると、英語の metaphysics の訳語で、形を超越した、目に見えない理・道理・抽象的な概念という意味だ。

形 = 形あるもの
而 = それを越えて
上 = 上のレベル
学 = それを考える学問

つまり

「形あるものを越えたところを考える学問」

になっていて、これは metaphysics の意味とかなり近く、考えてみればよくできた訳語だとわかる。

けれど、そういう説明を一度聞いたあとでも、なお「形而上学」という日本語自体は身体になじみにくい。
言葉を見た瞬間に意味が立ち上がってこない。

一方英語のわかりやすさにはいつも感心する。フィジックは物理学で、それを超越するからメタフィジック。わかりやすい。英単語のこういったものはいつも絵が浮かぶようだ。合理の美を感じる。

この言葉には、日本語の翻訳語が持つ独特の癖がよく表れている。

要するに、わかりやすく伝えることより、少し格好よく、少し知的に、少し漢文的な奥行きをまとわせることが優先されているように感じるのだ。

「形而上学」は、中国古典の『易経』の「形而上者謂之道、形而下者謂之器(けいじじょうしゃ いわゆるみち、けいじかしゃ いわゆるうつわ)」に由来する訳語だという。
形のない抽象的な真理・原理を「道」とし、形のある具体的な物質・道具を「器」と呼び、この世の全ては道(本質)が器(現象)として現れる「道器一如」の関係であることを表す概念だ。
つまり、目に見える形あるものの背後にある原理や道を、「形より上」として捉える発想である。

それ自体は、教養としてはきれいだ。
訳した人の知性もわかる。
苦心もあっただろう。

でも、それが今の日本語としてわかりやすいかと言われると、かなり怪しい。

この種の言葉には、日本の翻訳文化の一つの性格がよく出ている気がする。
意味を直截に渡すのではなく、一度ひねる。
少し古典の香りをつける。
少し格調を上げる。
そのことによって、知的な雰囲気を言葉にまとわせる。

それは、ある時代には魅力だったのだと思う。
共通の教養があり、漢語の響きに権威があり、そういう圧縮された表現を面白がれる社会があった。
その中では「うまい訳」だったのかもしれない。

ただ、時代が経つほど、その文脈は薄れていく。
共有されていた教養が消えるほど、言葉だけが硬く残る。
すると、本来は概念を伝えるための言葉だったはずなのに、逆に概念への入口を塞ぐ壁になってしまう。

自分はこれを考えるとき、いつもジンベエザメのことを思い出す。

ジンベエザメは、英語では whale shark という。
クジラみたいなサメだから。
非常にわかりやすい。
皆が使う道具なのだから、こうあるべきだろう。

ところが日本語では「ジンベエザメ」になる。
あの水玉模様が甚平の柄に似ているからだという。

当時の人にとっては洒落ていたのかもしれない。
けれど、もはや人々は甚平という着物をイメージできないし、知っていたとて、なぜ水玉模様のほうを採用したのか。というのが率直な疑問だ。
なぜ翻訳者は「クジラザメ」としなかったのか?

ここに、日本語のある種の美意識が見える。
ただ伝えるのではなく、少し気の利いた言い方をしたい。
少し雅に、少し粋に、少し知的にしたい。
そのひねりを面白がる文化がある。

もちろん、それ自体が悪いわけではない。
言葉には遊びも、歴史も、含みもあっていい。

ただ、翻訳語や学術語になると話は変わる。
そこではまず、概念が伝わらなければならない。
一般の人が使う言葉になるなら、なおさらそうだ。

言葉は、訳した学者の美意識を見せるためのものではない。
読む人の頭の中で、意味が立ち上がるためのものである。

本当に知的なのは、難しいことを難しい言葉に閉じ込めることではない。
難しいことを、なるべく正確に、なるべく開かれた言葉で渡すことだと思う。

「形而上学」という言葉には、たしかに伝統の重みがある。
けれど同時に、わかりにくさそのものが権威になってしまっているところもある。
意味以前に、語感が人を遠ざけてしまう。

日本語には、ときどきこういうところがある。
わかりやすくすることより、ひとひねりあることを上に置く。
そのひねりが、知性の証明のようになってしまう。
でも、読む人に届かなければ、それは知性ではなく、ただの身内向けの合図に近い。

本当に格好いいのは、誰にでもわかるように言えることだ。
しかも、ただ幼くするのではなく、深さを保ったまま、わかる言葉にすることだ。
そこにこそ、本当の知性がある。

「形而上学」という言葉に感じる違和感は、単なる言葉の好き嫌いではない。
それは、日本語が知をどう見せたがるか、日本の翻訳文化が何を美しいと感じてきたか、その癖への違和感なのだと思う。

言葉は、飾るためにあるのではない。
考えるためにある。
そして考えるための言葉は、まず意味が入ってこなければならない。

いいなと思ったら応援しよう!