社会学における統計の授業と頻度主義・ベイズ
終わらない計算
社会学の計量分析では、サーベイ実験などの一部の潮流を除けば、大きな観察数・多数の設問を含む調査観察データの分析が多くを占めます。質問紙調査の設問はほとんどがプリコードなので、データはカテゴリカルです。順序尺度の変数もたくさん出てきます。つまり最初から最尤法の世界です。
また、最近では何らかのかたちでクラスター情報を含むデータ(国や都道府県などの地域、反復調査における個人など)もふんだんに手に入るようになりました。
以上のことは、社会学の分析研究の実務においてコンフリクトを生じさせます。ひとつには、データもモデルも複雑になるので、頻度主義(最尤法)のアプローチだと実用的ではないことが増えています。特に(私のお気に入りの)混合効果モデルでは、変量効果、変量効果と固定効果の交互作用、変量効果どうしの交互作用など(分散成分)、計算機に負荷がかかると同時に、計算(iteration)が終わらないことが多くなります。
私の経験では、ML、ReMLだと、特にクラスター水準の変量効果の級内相関が大きくない場合、収束しないことはもちろん、MLとReMLの結果が食い違ったり、MLだと0を返してきたり、といったことが頻出します。他方でMCMCは、とにもかくにも結果を示してくれます(変量効果なし、という結果を含めて)。
ベイズ統計への移行の難しさ
世界的には、統計の授業で、最初から頻度主義ではなくベイズ・MCMCを想定したものが増えているようです。「昔の論文の読み方がわからなくなる」というデメリットもありますが、純粋に統計学を教える側からすれば(おそらく教わる側からしても)頻度主義より楽なことも多いはずです。特に帰無仮説に関連するあの説明の回りくどさをスキップできるのが大きいでしょう。
実感としても、データを固定してパラメータ値をばらつかせる(サンプリングする)という考え方の方がしっくりくる人は多いはずです(だって現にデータは一個しかないのだから)。
しかし、こと社会学となると、おそらく経済学や心理学よりも頻度主義からの離脱に障害があるように感じます。
特に日本の大学の社会学課程では、社会調査士課程との兼ね合いもあり、統計学の授業が社会調査論の授業とセットで受講されることが多いです。すると、古典的な標本抽出理論(無作為抽出や層化、欠測処理等)の知識と、統計学の知識の接続を意識せざるを得ません。
古典的な社会調査論の標本抽出理論では、手元のデータは「他でもあり得るサンプル(から得られた観察値)」、つまり確率変数であるという実感を徹底的にすり込まれます。この観察データの地位の認識を、確率変数から固定的な前提に転換させるのが大変です。逆にこれまでは固定的に存在しているとされていたパラメータは、今度はちょこちょこと動かされるようになります。有効サンプルサイズという(自由度と違う紛らわしい)概念も顔を出します。そもそも、ベイズの世界に入れば調査の苦労は「わりときれいなデータを手に入れる作業」みたいな説明で済ませようと思えばできてしまいます。
他方で、調査の実際は…
とはいいつつも、社会調査に学生が携わるようになるとすぐに経験されてしまうことですが、調査の現場は「ガチャガチャ」です。教科書のあの前提はどこへやら、みたいに感じる学生もいるかもしれません。欠測や回答エラー(矛盾)への対応こそが調査実習のコアな実務です。国勢調査でさえ、欠測処理(不詳補完)を経た結果は、特に都市部では元のデータの結果と明確に食い違います。
莫大なコストや手間も障害になります。住基台帳からの無作為抽出は、調査実習の授業では今では無理です。オリジナルの調査をしようと思えば、ネットモニター調査か、さもなくば授業などを利用した集合調査でしょうか。
結局は、なんとも頼りない手元のデータを出発点として、ベストエフォートの推定をやっていくしかないわけです。どうやっても、「p値になんの意味があるのやら」となっていきます。
というわけで、「頼りないデータをもとにいろいろ工夫して結果を出していこう」という方針のなかで、頻度主義に拘る必要が薄れている気もします。
「データサイエンス」との接続
ここが一番大きな「脱頻度主義」のモチベーションかもしれません。ただ、「世の中、デジタルデータ(ビッグデータ)を使った分析が隆盛している、乗り遅れるな」ということ(だけ)ではありません。
瀧川裕貴先生も強調していますが、社会学にとってデジタルデータは独特の強みがあります。それは、振る舞い・実践の観察データだからです。
「質問紙調査でも観察データだろう」というツッコミがありそうですが、確かに「実験vs調査」の語彙ではそうです。しかし社会学には分厚い参与観察・フィールドワークの伝統があり、これらには質問紙調査や聞き取りといった介入的実践によって生まれるデータとは異なった価値が与えられてきました。
デジタルデータは、日常生活ではあまりない不自然な介入を経ずに直接に観察されたデータを多く含みます。このようなデータについて、標本抽出理論はあまり意味をなしません。
要するに、社会調査論の古典的な組み立てを再構築すべき段階にきているわけです。デジタルデータは、量的な質問紙調査のデータよりも、質的な参与観察のデータに近いものです。扱い方も当然違ってきます。
以上のように考えると、社会学においてこそ、古典的頻度主義から距離を置くことのメリットがあるのかもしれません。
