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「人権」と「排除」、根っこは一緒

タイトルは、ちょっとわかりにくいかもしれません。下のように置き換えるといいかもしれません。

なぜ「人権派」(あるいは「リベラル」や「フェミニズム」?)の人は「がなり立てている」ようにみえるのか。

この問いに、(短くも)丁寧に答えてみたいと思います。前回の記事に引き続き「親密性コード」が登場しますが、今回は「人格(個人)の尊重」という、親密性コードを裏から支える、より根源的なコードが主役です。ここから話をしないと、上記の問いは上手く解きほぐれないのです。

▼「個人の尊重」のアナザー・ストーリー

近代は、機能分化の時代でありつつも、同時に「個人」の時代です。前近代社会では、身分制のもと、支配者のさじ加減で自由や命が剥奪されました。フランス革命などの近代化を通じて、「基本的人権」が徐々に確立されました。「人間が人間であるというだけで持っている、侵すことのできない権利」ですね。国民から委託されてそれを保障するのは政府(国家)です(社会契約)。近代化によって切り分けられてきたさまざまな機能分野(経済や教育など)でも、この人権は尊重するように、一応デザイン(構造化)します。派手な「例外」は戦争ですが…人権というのは、そもそも嘘くさく聞こえる概念でもあります。ただその話はまた今後。

「基本的人権の尊重」。教科書で習うでしょう。しかし社会学は、近代における「個人の尊重」の「もうひとつの物語」を描いてきました(こっちは不思議と教科書で微塵も習いませんが)。

「人の尊重」のアナザー・ストーリーを最初に立ち上げたのは『自殺論』で有名なE.デュルケムですが(万人が「人」として尊重される「人格崇拝」という概念を提起しました)、デュルケムの遺志を継いで一番わかりやすく示したのは、北米世界においてパーソンズ先生と立ち並ぶもう一人の社会学の巨匠、カナダ出身の社会学者、E.ゴッフマンです。

アーヴィング・ゴッフマン

ゴッフマンは、街角、電車内、エレベータの中など、「会話」しないまでも、人と人とが居合わせる場所(公共空間public places)を分析しました。なんでまたそんな場所を、と思うかもしれませんが、実はここにこそ、近代社会の「個人=人格=人であること」への尊重がわかりやすく示されるのです。

前近代のような身分制社会では、人々は「個人」である前に「特定の身分の一員」でした。したがって身分に応じて「人にアクセスできる」「人に注意を払う」権限が厳しく差異化されていました。庶民は貴族に気軽に話しかけてはなりません。貴族の側は、庶民に注意を払うことはしません。庶民をリスペクトすることは、身分秩序の破壊です。「貴族は人である前に貴族、庶民は人である前に庶民」です。

近代社会では、個人の平等意識のもと、人格の尊重の範囲が格段に広がったので、たいていどんな人でも、別の人を「いないかのように」振る舞うと「失礼」になりますし、話しかけられたら無視することも難しくなります

みなさんも、「こんな人に話しかけられたらウザいなあ」と感じても、公共的な場では露骨に無視せず、最低限は応じますよね。これは、「自分は人を最低限尊重していますよ」という自己提示(presentation of self)です。そんな配慮をしなくていい、むしろ「配慮してはならない」のが身分制社会です。実は現代でもまだ残ってます。学校ですね。学校の空間は、近代的公共空間ではなく身分社会的に作動する側面がありますから(スクールカースト)、「ウザい」人は無視してOK、というより無視しないと自分の「身分」があやうくなります。(学校が居づらい人は、学校が限定コードの空間だけ、つまり授業や試験だけの空間だったらどんなに救われるか。)

注意すべきは、公共空間のルールは「人として尊重する」というコードに基づいていますが、たまに内部で矛盾する、ということです。「明らかに危ない人からのアクセスを拒否する」のは、アクセスされた側の人権の尊重だと解釈できる範囲において、OKです。危険を避ける権利は無視されない権利よりも優先されるからです。しかし線引きは曖昧です。私は仕事の特徴(?)から、リラックスした格好で平日真っ昼間のマンションのエレベータに乗ることがあるのですが、ベビーカーを押す女性からそこはかとなく警戒されることがあります。プチ傷つきますが、「そらそうか」とも思います。

▼「楽しいおしゃべり」のルール
ところで、さきほどの「学校身分制社会」の話、少し気になるところないですか?

庶民が貴族に気軽に話しかけないのは、「人として敬っている」からではないですよ(それは近代的人格のコード)。身分制という社会の根本原理を無視した振る舞いだからです。「人を人として扱うこと」は、そこでは秩序を乱す罪(不正義)なのです。

では、学校では? ちょっと違いますよね。さきほど書きましたが、排除されるのは(排除する側がそう感じる)「ウザい」人であって、社会的に指定された特定の身分の人ではありません。中世社会では排除は正義でしたが、学校ではむしろ人権無視の不正義に見えます。このギャップを解いていきましょう。

学校では、いじめっ子グループは、仲間内では実に楽しくおしゃべりしますよね(漫画でもそういう描写がよくあります)。このおしゃべりの仕組みこそが重要です。個人の尊重(聖なる人格)コードは、この時点から、変奏して親密性コードとして展開します。

ゴッフマンは、会話を含む相互行為では、「内部に入ってよい情報とよくない情報のコントロールが重要だ」と論じます。この境界のことをゴッフマンは「相互行為膜(interaction membrane)」といいます。社会学では「相互行為(会話)システム」「共在」と言ったりしますが、この膜があるために、外部環境にある情報・人が膜の内側に自由に侵入することはありません。

引用します。

ほとんどの場合、出会いの中で完全に具現化されるリソースは、その特性をより広い世界で分配させているパターンと完全に照応するパターンで配置することはできないということを認識すべきである。この認識を欠いては、社会的相互行為の領域の問題を理解することはほとんど不可能といわなければならない。

E.ゴッフマン『出会い』誠信書房

これを、相互行為における「変形ルール」といいます。

わけわかんないですね。とりあえず先に進みます。

いったん会話システム(conversation system)が成立してしまうと、人々には「露骨に話を遮ったりしない」「話題を露骨にスルーしない」という厳しいルールが適用されます。これはおしゃべりだけではなく会話システム一般のルールで、人類が会話によって「物事を前に進める(いろんな仕事をする)」ための文法ですが、さらに近代社会では「人として尊重する」という要素が加わっています。

会話分析という一大分野の創始者、ハーヴェイ・サックス

ただ、それだけに、おしゃべり(chat, chitchat)というタイプの会話が楽しいものであるためには、話の最中でいきなり真面目系話題(「それって差別っぽくないですか?」)をブチ込んで場を乱したり、おしゃべりの精妙・軽妙な「ノリ」を崩してしまいそうな人を、最初から膜の外に出しておく必要があります。いったん会話システムが成立してから露骨に追い出すのは「人として」難しいですから、最初から仲間集団を作って、それ以外の人がおしゃべりの輪に入れないようにするわけですね。近代社会の会話システムが「人を人として尊重する」強いコードを持っているがゆえに、会話が特定目的ではなくおしゃべり(楽しく散漫な会話)の場合には、最初から特定の人をまるごと排除しなくてはならないのです。

他方で、現代社会において、(単なる会話ではなく)おしゃべりに参加することの心理的な利得は莫大です。単なる仕事の関係(限定コードの世界)から、「(部分ではなくまるごとの)人として承認し合う」親密性コードの世界に入る上で、おしゃべりは重要な役割を果たします。なぜか。

いくら、ノリが悪いなどの理由でおしゃべりに参加する機会が少ない人でも、限定コードの世界(商品を買うやりとり)には参加できますし、さきほど言ったとおり街角やお店などの公共空間、そしておそらく仕事などの業務主体の空間では最低限のリスペクトは得られます。しかし、おしゃべりのシステムに参加するということは、「話題が決まっていない(散漫diffuseな)」相互行為に参加することなので、まるごと「人」として受容されている、ということの、より力強いエビデンスになるのです。「話題や時間の枠が決まっている(限定的specificな)」会話に参加しても、買い物のやりとりやレンタル友達との会話のように、「人として」受容されている感覚は十分に得られません。

しかしおしゃべりに参加できる権利は、残念ながら国が保障する基本的人権のなかには入ってません(憲法にも書かれていません)。それは(不当に)「殺されない」「所有権を剥奪されない」のような基本的人権というよりは、「人生の楽しさ」を実現する手段だからです。しかしそこからの排除が「(自)死」につながるものでもあります。「人間関係がつらいから仕事を辞める」人がすごく多いことも同じような理屈です。

▼人権派はなぜ「ウザい」のか
どうでしょうか。「人を人として扱う」のが人権です。「人を人として受け入れる」のが親密性です。同じ近代的な「個人の尊重」の論理です。しかし人権の論理はすべての人を排除せず「人として(まるごと)」受け入れますが、親密性の世界では、ある人を「人として(まるごと)」受け入れつつ、別の人を「人として(まるごと)」排除します。

なぜ排除するのか? もう答えは示しました。「人格尊重」の論理は、「人としての安全保障」につながれば人権の論理に、「情緒的承認」「楽しさ」につながれば親密性の論理として変奏してゆきます。親密性の世界では、その場や関係が心地よいものにならないといけません。そのため、不快な要素・人は膜の外にまるごと追い出さないといけません。この膜は、おしゃべり仲間のこともありますし、国境とされることもあるでしょう。人権の世界では、楽しいとかは二の次です。仲間内の論理からすれば楽しくなくても「人としてまるごと」尊重するのが人権です。

「ノリの悪い人」と並んで、おしゃべりに参加させたくない人たちがいます。それは、おしゃべりが楽しいものであるために精妙にコントロールされている相互行為膜を、人権の槍(別名「ポリコレ棒」)で突き破る、空気を読まない人たちです。楽しさと正義は、同じ「人として尊重」という近代社会の根本原理に従う方針でありながら、鋭く衝突するのです。

これで話は一段落ですが、もう少し続けましょう。

人権の論理と親密性の論理の区別は、みえにくくなることがあります。たとえば次の文章。「みんなが互いを人として尊重して、ルールに基づいて上手いことやってるんだから、それに参加できない人は出て行ってもらうしかない」。これは人権の論理と言えそうでしょうか。微妙なところです。

「見えにくい」というのは、上から目線で「オレには見えてるけど君たちには見えてないだろ?」ということではないです。「実際にどこかあいまいだ(原理的にきっちり分けられない)」ということです。だから結局は、線引きについて(限定コードのもとで)「話し合う」必要があります。

話し合うことはいくらでもありますよ。「安全を脅かす外国人がいたら、国内の刑法に従うのではなく、退去させるべきか? だとしたらその線引きは?」「性的なポスターは表現の自由か?」など。公共空間で「人の尊重」の二つの論理(安全の論理と人格尊重の論理)が対立することを示しましたが、この線引きも上から決められるようなお気軽なものではないです。

結局、「ケースバイケースの判断」かつ「話し合いによるすり合わせ」しかありません。要するに「面倒」なんです。対立の仕組みをある程度見通した上で、丁寧に向き合って話をするのです。当事者も混ぜた方がいいです。(当事者を「人として」尊重する、というより)問題を検討する際の見通しがよくなるからです。

哲学者R.ローティがいうように、正義の理念の行き着く先は「話すことをやめない」です(トロッコ問題なんて、文脈=経緯から切り離して結論を出そうとしても時間の無駄です)。だから社会学者が「親密性」「散漫さ」「膜」「人格システム」といった概念で社会を説明してみせるのは、(ウィトゲンシュタインの方針に沿って)考えるための見通し(展望)を与えているだけです。

ただ、「お話ししてりゃいいんだ」というわけではありません。

人権を踏みにじられた人たちの「怒り」や「糾弾」を、「空気を読まない」「がなり立てている」と一蹴する人たちがいます。でも、「人として」の尊厳が、「仲間」「楽しさ」「空気」「安心」の論理のもとで長い間踏みにじられてきたとき、「(空気を読んで)穏便に(安心に)話し合いましょうよ。仲良くしたくないんですか?」みたいに応じられると、ふつうの人間なら「なんじゃ?」と思うでしょ。空気のせいで虐げられてきて、「まず空気を読め」といわれたら、相手の言い分が論理的に破綻しているように見えて、「はあ?」と思いますよね。「空気読んでたら前に進まないんだよ」と言いたくなるかもしれません。

この点も社会学の語彙で説明できます。感情ルール(feeling rules)という概念です。感情社会学で名が知れたA.R.ホックシールドが提起した概念です。

トランプ支持者へのディープインタビュー『壁の向こうの住人たち』でも有名なアーリー・ラッセル・ホックシールド

「空気を読め」「マナー(ルール)を守れ」と言う人は、たいていの場合、その場の「空気」を読むスキルを異常発達させていながら、なぜか感情ルールの「相場」を読むスキルを持っていないのです感情ルールの相場(「この場合に怒る/悲しむことは妥当か」)は、(「おしゃべりしてんだから怒るな」みたいに)その場だけでは決まらず、怒りを訴えている人をとりまく状況と経緯で決まります。当たり前ですね。私たちは、怒っている人がいたら、理由を知りたくなるでしょう。しかもその経緯は、しばしば複雑で、歴史的・制度的に沈殿したものになりえます。その場合、歴史や社会を知らないと怒りの感情の妥当性について判断できません。

まずは「十分に勉強して知ること」、次に(怒りが不当かどうかの)「判断」です。「いやそれにしても怒りすぎ」「私に怒りをぶつけるな」みたいに、解決しないなら、やっぱり話し合いして、最後に(しなきゃならないのなら)政治的決断です。順番が大事です。

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