【河後森城】残念すぎる日本の名城 第119回|曲輪が多すぎて数えられない!本郭から予土線を望む境目の山城
はじめに
こんにちは!「残念すぎる日本の名城」シリーズ第119回は、愛媛県北宇和郡松野町にある河後森城(かごもりじょう)を取り上げます。

河後森城は、伊予国と土佐国の境に近い山の上に築かれた戦国時代の山城です。現在は国の史跡に指定され、続日本100名城にも選ばれています。
この城の魅力は、立派な天守や高い石垣ではありません。山の尾根に沿って、いくつもの曲輪が階段状に連なる、その複雑な構造にあります。
曲輪の番号を数えながら歩き始めても、あまりに数が多いため、途中で「いま何番目だっただろう」と分からなくなります。しかし、その迷いこそが河後森城の面白さです。
さらに、主郭にあたる本郭跡から松野の町を見下ろしていると、眼下をJR予土線の列車が走り抜けることがあります。
戦国時代の山城と、谷間を進む小さな列車。
この風景は、実際に山へ登った人だけが出会える、河後森城からの静かな贈り物です。
今回は、河後森城の「残念すぎる課題」と、それを上回る魅力を、現地を歩いてこそ分かる視点から紹介します。
1.河後森城の歴史
河後森城の築城年代は、はっきりしていません。現在確認できる城の中心部分は、主に16世紀後半に使われていたと考えられています。
城があった地域は、当時「黒土郷河原渕領」と呼ばれ、伊予国と土佐国の境に位置していました。永禄年間には、土佐一条氏の一族から養子に入った河原渕教忠が城主を務めたと伝わっています。
国境に近い河後森城は、伊予と土佐の勢力がぶつかる場所でした。土佐では長宗我部氏が勢力を広げ、河後森城周辺もたびたび争いの舞台となります。
天正13年(1585年)、豊臣秀吉による四国平定が行われると、宇和郡の支配者は戸田氏、藤堂氏、富田氏へと移りました。
藤堂高虎の時代には、河後森城にあった天守が板島城、現在の宇和島城へ移され、月見櫓として使われたという伝承も残されています。

(山の岩盤を削った跡が再現されています)
慶長19年(1614年)に伊達秀宗が宇和島藩を開くと、重臣の桑折氏が河後森城に入ったとされます。しかし翌年の元和元年(1615年)、一国一城令によって廃城になったと考えられています。
現在の河後森城は、最高所にある本郭を中心に、西側、東側、古城、新城の曲輪群が馬蹄形に広がっています。三つの川に囲まれた独立丘陵を丸ごと利用した、約20ヘクタールに及ぶ大規模な山城です。
2.残念すぎる河後森城
2.1 城があることに気づきにくい!
河後森城には、遠くから見える天守も、山裾から仰ぎ見る高石垣もありません。
麓から城山を眺めても、木々に覆われた穏やかな里山に見えます。「これが続日本100名城なのか」と、少し不安になる人もいるでしょう。

城内へ入っても、最初から分かりやすい建物が次々と現れるわけではありません。基本となるのは、土を削って造られた平地や斜面です。
しかし、曲輪、切岸、堀切、土塁などに目が慣れてくると、ただの山に見えた場所から、少しずつ城の輪郭が浮かんできます。
第一印象は地味ですが、歩いた人にだけ正体を明かす。少々奥ゆかしすぎる名城なのです。
2.2 曲輪が多すぎて数えられない!
河後森城では、本郭から西側に西第二曲輪から西第十曲輪までの九つの曲輪が並びます。
東側には東第二曲輪から東第四曲輪、その先には古城から古城第四までの曲輪があり、南側には新城の曲輪群も広がっています。これらは風呂ヶ谷を囲むように、馬蹄形に連なっています。

現地では「西第八、西第七、西第六……」と数えながら歩くのですが、曲輪と曲輪の境目が分かりにくい場所もあります。
平らな場所を一つ通過し、切岸を越え、次の曲輪へ進む。そうしているうちに、番号が一つずれ、やがて自分がどの曲輪にいるのか怪しくなってきます。
数えても分からなくなるほど曲輪が多い。それは河後森城の残念ポイントであると同時に、この城の規模を体で感じている証拠でもあります。
2.3 本郭でも建物の姿は想像するしかない
城の中心である本郭では、発掘調査によって主殿舎などの建物跡が確認されています。
ただし、建物そのものが復元されているわけではなく、現在は柱の位置などが平面的に表示されています。発掘では本郭の周囲から石垣も見つかっていますが、現地で近世城郭のような壮大な石垣を見ることはできません。

城内で最も重要な場所へ着いたはずなのに、広場が静かに広がっているだけに見える。
ここで必要になるのは、想像力です。
かつて城主が家臣と対面し、儀礼を行い、伊予と土佐の情勢を見つめていた場所だったことを知らなければ、景色のよい山頂として通り過ぎてしまうかもしれません。
2.4 予土線の列車には必ず会えるとは限らない
本郭跡からは松野町の町並みを一望できます。間伐によって視界が開かれ、山城が周辺を見渡すための場所だったことを実感できるように整備されています。
そして、眼下にはJR予土線が通っています。

(JR予土線の線路と松丸駅が見えます)
運よく列車が来れば、山間の町を小さな車両が走り抜けていく姿を見ることができます。しかし、城へ登った瞬間に列車が現れるとは限りません。
しばらく待っても、聞こえるのは風の音と鳥の声だけ。諦めて下山を始めたころ、遠くから列車の音が聞こえてくることもあります。
河後森城の絶景には、少しばかりの鉄道運が必要です。
3.それでも魅力的な河後森城の見どころ
3.1 馬蹄形に連なる巨大な曲輪群
河後森城最大の見どころは、山の稜線に沿って曲輪が馬蹄形に連なる構造です。
一つの山頂だけを要塞化した城ではありません。中央の風呂ヶ谷を囲む複数の尾根に、本郭、西側曲輪群、古城、新城などが配置されています。

(松丸駅で撮影)
歩くほどに次の曲輪が現れ、振り返れば、先ほど通った曲輪が一段低い位置に見えます。
曲輪を単独で眺めるのではなく、それぞれがどのようにつながっているかを考えながら歩くと、山全体が一つの巨大な防御装置だったことが分かります。
3.2 土の城を体で読める
河後森城では、切岸、堀切、土塁、虎口、登城路など、中世山城を構成する遺構を確認できます。
本郭南側では、岩盤を削って造られた道が発掘されています。道には階段状の足がかりがあり、登った先で右へ折れて本郭へ入る構造でした。

西第二曲輪では堀切と通路、門のような施設も見つかっています。西第十曲輪では、建物や門、土塀を支えた多数の柱穴が確認されました。
地面の高低差や道の曲がり方を見ながら、「敵はここで足を止められたのではないか」「この曲輪から隣の曲輪を守ったのではないか」と考える。
河後森城は、見る城というより、歩いて読み解く城です。
3.3 本郭から眺める予土線
本郭跡から眺める松野町の風景は、河後森城を訪れた人だけが味わえる大きな魅力です。
眼下には広見川と町並みが広がり、その中を予土線が走っています。
戦国時代、城主はこの場所から国境へ続く道や川、人の動きを見張っていたのでしょう。現在、同じ場所から見えるのは、町の暮らしと小さな列車です。

列車は、ほんの短い時間で視界を横切っていきます。
土の城に現代の時間が一本の線を引く。その一瞬は、天守から眺める大都市の景色とは違う、河後森城ならではの情景です。
3.4 西第十曲輪の復元建物
西第十曲輪では、発掘調査の成果をもとに、虎口や土塁、建物などが整備されています。
曲輪中央には二棟の掘立柱建物があり、そのうち一棟は馬屋と考えられています。柱の位置や大きさ、壁、屋根などは、当時の絵巻物も参考にして再現されました。

土の平地だけでは分かりにくかった城内の暮らしを、建物によって具体的に想像できる場所です。
続日本100名城のスタンプも、この西第十曲輪の馬屋に置かれています。スタンプを押すだけでなく、周囲の虎口や土塁まで観察すると、この曲輪が一つのまとまった空間として造られていたことが分かります。
4.残念ポイントを逆手に取った楽しみ方
4.1 松丸駅で地図と列車時刻を確認する
河後森城を訪れる際は、最初にJR予土線の松丸駅へ立ち寄るのがおすすめです。
駅には河後森城めぐりのパンフレットが用意されています。登城口の位置や曲輪の配置を確認してから歩けば、城内で現在地を見失う可能性を少し減らせます。
また、本郭から列車を見たい場合は、列車の時刻も確認しておきましょう。
列車に合わせて本郭へ到着する時刻を考える。これも河後森城ならではの登城計画です。
4.2 曲輪の番号より「つながり」を楽しむ
河後森城では、すべての曲輪番号を正確に覚えようとすると、途中で疲れてしまいます。
そこで、番号を数えることよりも、曲輪同士のつながりに注目してみましょう。
曲輪から次の曲輪へ、どのような道が延びているのか。曲輪の端は切岸になっているのか。堀切によって尾根が断ち切られているのか。
「ここは何番目か」ではなく、「ここは何を守る場所だったのか」と考えると、複雑な城の構造が生きた物語に変わります。
迷った数だけ、この城を深く歩いたということです。
4.3 本郭で少し立ち止まる
本郭跡へ到着しても、すぐに下山するのはもったいないことです。
建物跡を確認し、城主が座った場所を想像しながら、松野の町を眺めてみましょう。
風の音を聞き、川の流れを探し、予土線の線路を目で追う。運がよければ、その先から列車が姿を現します。

説明板があります
何も起きない時間も、山城では大切な時間です。
列車が来なくても、かつて国境を見張った城の静けさは残ります。そして列車が来れば、その日の河後森城は、ほかの日とは違う城になります。
まとめ
河後森城には、遠くから見える天守も、壮大な高石垣もありません。
曲輪が多すぎて番号が分からなくなり、本郭に着いても、往時の建物は想像するしかありません。予土線の列車も、都合よく姿を見せてくれるとは限りません。
しかし、そうした「残念さ」は、河後森城の魅力と表裏一体です。
次々と現れる曲輪を歩き、そのつながりを考え、切岸や堀切を確かめる。やがて最高所の本郭に立ち、松野の町を見下ろす。
そこで運よく列車が走れば、戦国時代と現代が、一瞬だけ同じ風景の中に重なります。
河後森城は、一枚の写真では語りきれない城です。
曲輪を数え、途中で分からなくなり、それでも歩き続けた人にだけ、山全体が城だったことを教えてくれます。
何もないように見えて、歩くほどに城が増えていく。
河後森城は、曲輪の数も、楽しみ方も、少し多すぎる名城なのです。
参考資料
・松野町「河後森城のページ」 https://www.town.matsuno.ehime.jp/site/kagomorijou/
・愛媛県教育委員会事務局管理部文化財保護課「えひめの文化財」 https://www.pref.ehime.jp/ehimenotakara/377.html
・愛媛県松野町公式観光情報サイト「森の国まつの」 https://matsuno-kankou.com/観光/1555.html
・Wikipedia「河後森城」
https://ja.wikipedia.org/wiki/河後森城
・デジタル城下町「河後森城(愛媛県北宇和郡松野町)の登城の前に知っておきたい歴史・地理・文化ガイド」
https://note.com/digitaljokers/n/n8e159214b19e
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