ロミー・シュナイダーとオーストリア皇后エリザベート
ロミー・シュナイダーのプリンセス・シシー三部作を観ていた。シュナイダーがオーストリア皇后エリザベート役を演じた映画で、監督はすべてエルンスト・マリシュカである。
「プリンセス・シシー」(1955)ーエリザベート
「若き皇后シシー」(1956)ーエリザベート2
「ある皇后の運命の歳月」(1957)ーエリザベート3
エリザベートのことをかなり理想化してロマンティックに描いているメルヘン的な連作で、それを若き日のロミー・シュナイダーが実に初々しくけなげに美しく演じている。
ロミー・シュナイダーは、初作の「プリンセス・シシー」で爆発的な人気を得てアイドルになり、シシーも彼女の愛称になる。そのイメージが強烈すぎて、シュナイダーは役者の自身のイメージで苦しむことになるくらいだった。
例えば、シシーが川岸で釣りをしていて釣竿を投げると、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の服に釣針がひっかかって、ヨーゼフ1世がシシーを見そめるというロマンティックな出会いなども完全にフィクションである。
歴史的事実は重視せずに、シシー=皇后エリザベートの若々しい純粋な輝き、魅力とカリスマを描くことに専念している。
ここでの、若き日のロミー・シュナイダーは、美しいというよりは基本的にはかわいい感じである。だが、戴冠の場面、パレードのシーン、ハンガリーの反体制派と対話する場面などの、ロミー・シュナイダーは驚くような威厳と美しさを感じさせる。
これはちょっと演技のレベルを越えていて、持って生まれた作為では不可能な役への本質的な適性を感じさせるところがあるのだ。
それだからこそ、このシシー役でシュナイダーは爆発的な人気を得て、シュナイダー本人は自分に「くっつくおかゆのようだ」と表現してその画一的な役者イメージに苦しんだのだが、後には、「あのシシーも自分の重要な一部」だと認めるようになったという。
だが、このシシー三部作の明るい屈託のないエリザベート像とは違って、実在の皇后エリザベートもロミー・シュナイダーも光だけではなく影の部分も多分に抱え込んだ複雑な存在だった。この二人には驚くほど共通点が多い。
性格面では、皇后エリザベートは内気で恥ずかしがり屋で、宮廷の厳格さに苦しんで孤独を好んだ。
ロミー・シュナイダーも、内気で恥ずかしがり屋で、公の場で母親に「笑顔を強要」され、プライベートでは孤独を好んだ。
皇后エリザベートは、乗馬や旅行で自由を求め、宮廷の束縛を嫌い、一方で強い意志でハンガリー支援では政治的影響を発揮した。
ロミー・シュナイダーも、野心的で独立心が強く、シシーのイメージを脱却するためにフランス移住して、深刻な役に挑戦した。
二人とも自分の美への強い執着があり、皇后エリザベートは、極端なダイエットで体重50kg維持して、髪の手入れには3時間かけて、30歳以降には写真撮影を拒否した。拒食症の兆候もあったという。
ロミー・シュナイダーも、役柄で自らの美を強調した。一方で、アルコールや薬物への依存症があり、自己破壊的な側面もあった。
精神的にも、皇后エリザベートはうつ病、メランコリー、不安発作の傾向があった。
ロミー・シュナイダーも、うつの傾向があって、母親との関係に問題があった。
恋愛面でも、皇后エリザベートは(一番)映画とは違って夫のヨーゼフ1世との結婚は形式的なさめたもので、自分個人の自由を優先した、。
ロミー・シュナイダーも、アラン・ドロンとの激しい恋愛もあったが、結局失敗して、幸福とは言えなかった。
このように、二人とも映画のイメージとは異なって、人間的に光と闇を同時に抱え持つ複雑な存在だったのである。
人生の境遇面でも二人には共通点が実に多い。
皇后エリザベートは、バイエルン公爵家生まれだが、家風で自由で奔放な少女時代を過ごした。
ロミー・シュナイダーも、少女時代には自由に育った。
皇后エリザベートは、16歳で皇帝と結婚して皇后になり、美しさでヨーロッパのアイコンと呼ばれた。
ロミー・シュナイダーも、15歳でシシー役として映画主演デビューして国際スターになり、「永遠のプリンセス」イメージが定着した。
皇后エリザベートは、長男ルドルフを自殺で亡くしていて、ロミー・シュナイダーも長男デイヴィッドを、事故死で亡くしている。
皇后エリザベートは宮廷で義母のゾフィー大公妃と対立して苦しめられ、ロミー・シュナイダーも母親のマグダ・シュナイダーと複雑な関係性だった。
ゾフィー大公妃、エリザベートの生活・子育てをコントロールしようとした。
映画でもエリザベートがゾフィー大公妃に自分の子育て権を奪われて反抗して結局ゾフィー大公妃も折れて子育て権を取り戻すのだが、実際には子育て権を奪われたままでそれに耐えていた。
エリザベートを完璧な皇后に適合させようとしたのである。
マグダ・シュナイダーも、支配的な性格で、ロミーのキャリアを管理して、役割・外見を指導して、笑顔のプリンセス、シシーのイメージに閉じ込めようとした。
(マグダ・シュナイダーはシシー三部作でも、シシーの母親役で出演している。)
皇后エリザベートは、アナーキストに刺殺されていて、ロミー・シュナイダーも息子の死後1年で心臓発作で亡くなっていて、自然死認定ではあるが、薬過剰摂取の疑いもある。
二人とも幸福とは言いがたい形で生涯を終えている。
このように、映画のシシーの光のイメージとが反する影の部分が二人にはあり、性格や生涯にも驚くほど類似性を感じさせるところがあるのだ。
ロマンティックな人間ならば、ロミー・シュナイダーは、皇后エリザベートの生まれ変わりだと言いたくなってしまいそうである。
ルキノ・ヴィスコンティの「ルートヴィッヒ」で、ロミー・シュナイダーは、もっと大人で複雑な皇后エリザベート役を演じる機会を得る。シュナイダーはヴィスコンティを尊敬していて、オムニバス映画「ボッカチオ'70」では現代的な女性も演じている。
シュナイダーの「ルートヴィッヒ」での成熟して知的な皇后エリザベート役の演技は素晴らしくて、シュナイダー本人にも自らの純粋すぎるイメージを払拭する救いの機会になっただろう。
だが、ヴィスコンティの映画でも、皇后エリザベートの実際の性格的な不安定さまでは描ききれていない。
「ルートヴィッヒ」の記事でも書いたが、本当の皇后エリザベートは実際にはもっと魅力的で複雑な存在だったような気もするのである。ロミー・シュナイダー本人についても同じことが言えるのかもしれない。
さて、このようにシシー三部作は、実際の皇后エリザベートやロミー・シュナイダーの実像とはかけ離れたものだったわけである。
彼らの闇の部分を無視して切り捨ててしまっているという点ではそうだろう。
だが、彼らはまばゆいほどの光を放つ存在だったのも、同時に紛れもない事実である。その点にあまりにも説得力があって魅力的すぎるので、シシー=ロミー・シュナイダーがあれだけ絶大な影響力を持つことができたわけである。
小林秀雄の「 無常ということ 」にこういう有名な文句がある。
生きている人間などというものは、どうも仕方ない代物だな。何を考えているのやら、何を言い出すのやら、仕出かすのやら、自分のことにせよ他人ごとにせよ、分かったためしがあったものか。鑑賞にも観察にも堪えない。
其処に行くと死んでしまった人間というものは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりとしてくるんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな。
実在の皇后エリザベートもロミー・シュナイダーも、現実に生きている人間としては、多くの「影」、問題を抱えた複雑な存在だった。そういう部分も勿論重要だけれども、彼らがその小林の言う「人間の形」として、余計な部分をすべてはぎとった「光」としての存在の本質を、シシー三部作は実はきちんと描き出していたのかもしれない。
そういう意味では、あの史実軽視でロマンティックで楽天的すぎるシシー三部作も、実は恐ろしく深い映画なのではないのだろうかと、ちょっとだけ考えたりもするのである。
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