ルキノ・ヴィスコンティ「ルートヴィヒ」 (1972)
この映画は、実在したバイエルン王のルートヴィヒ2世について、基本的には史実に基づいて描写している。
ルートヴィヒ2世は、戯曲・オペラに魅了され、長じては建築と音楽に破滅的浪費を繰り返した「狂王」の異名で知られる。あるいは、白鳥王、童話王とも呼ばれた。
ルートヴィヒ2世はその美貌でも名高かった。これが残されている肖像である。

ヘルムート・バーガーが演じたルートヴィヒと雰囲気が実に似ていて驚く。それも当然だろう。ヴィスコンティがこれらの資料を元に、バーガーにそういう姿を再現しようとしているので。ヘアスタイル一つ取ってもそうだろう。
ルートヴィヒ2世は、同性愛者だったこともほぼ間違いないのが分かっている。ただ、ヴィスコンティが映画で描いたような、城で男たちが同性愛的な乱痴気騒ぎをしたという具体的な記録が残っているわけではない。
そのシーンは、いかにもヴィスコンティらしい頽廃趣味に溢れた見事なものではあったが、あくまで映画的創造である。
ルートヴィヒが神父に純潔の誓いをさせられるシーンがある。ルートヴィヒがひざまずいて誓うショットに、ルートヴィヒが、城で裸で寝ている若い男に近づいていって上からソッとキスをするショットが続く。
いかにも、ヴィスコンティらしい皮肉な映像の組み立てだった。
湖畔で、歩哨が休憩時間に真っ裸で肉体美をさらして泳いでいるのを、ルートヴィヒが目撃してしまうところの、バーガーのそれにひきつけられて呆然とする視線。歩哨に、寒いだろうと自身の毛皮のコートをかけてやる恥じらいのような表情。
むしろ城の露骨な騒ぎのシーンよりも、ルートヴィヒの同性愛の生々しさを映像自体で感じさせるヴィスコンティの演出だった。
ルートヴィヒ2世は障害、歯痛に悩まされてクロロホルムを対策に用いていたという記録がある。
映画でもそれを再現して、バーガーがベッドの上で頬被りをして歯痛に苦しむシーンもある。バーガーが口を開けると歯がボロボロになっている。役作りでそこまで徹底したのだろうか。
やはり、実在だったワグナー、その妻のコジマ、指揮者のハンス・フォン・ビューローも登場する。
この映画では、ワグナーのことをかなり俗物として戯画的に描いてしまっている。
実際にもワグナーは大変な濫費、贅沢家で金銭面できわめてルースだったし、女性関係もだらしなくてそういう俗物的な側面も多分にあった。だが、ああいう音楽を書いた聖性も兼ね備えた人物であったはずだ。
ヴィスコンティはそういう側面を切り捨てて、俗物的な側面を強調している。
ヴィスコンティは教養高い貴族だったので、ワグナーの音楽も勿論理解していたのだろう。だが、ワグナーの音楽に心から感動したり震撼させられたりするタイプではなかったような気がする。そうでなければ、こういうワグナーの一面的な描写はしないだろう。
「ベニスに死す」で、マーラーの第五交響曲のアダージェットを使ったのが有名である。あのアダージェットは一見とても感傷的な音楽だが、本当は交響曲を構成する一楽章として、マーラー的な厭世、現実逃避、夢としての意味を持たせてはじめて成立する音楽である。
それを、ヴィスコンティは独立させて、まるでムード音楽のように使ってしまっている。
牽強付会かもしれないが、彼の音楽に対する俗物的な態度をちょっと感じてしまうようなところもある。
ルートヴィヒ2世はワグナー聖地のバイロイト歌劇場の建設を援助している。彼がいなければ、バイロイトも「ニーベルングの指環」も「パルジファル」もなかったかもしれない。きわめて文化的な貢献が大きかった王なのだ。
それをヴィスコンティは、ルートヴィヒのことをワグナー狂のナイーブな王として矮小化しているところがある。
ルートヴィヒ2世は本気でワグナーを愛して音楽の深い部分を理解する人間だったような気がする。
それを、これも恐らくだがワグナーを本当には理解していなかったヴィスコンティが、ワグナーやルートヴィヒを俗的に描写してしまったというのが、(あくまで)個人的な見解である。
ルートヴィヒ2世の従姉だったオーストリア皇后のエリーザベトもきわめて興味深い人物である。
自由奔放に育って、オーストリア皇后になったが、世間や堅苦しい宮廷を嫌って孤独な性質で、似た人間性のルートヴィヒ2世とひかれあったという。
エリーザベトは、身長172cmの長身で(ルートヴィヒ2世も190cmの長身だった)、スタイルも抜群、ルートヴィヒ2世同様にヨーロッパ宮廷一といわれた美貌の持ち主だった。これが残されている肖像である。

エリーザベトをロミー・シュナイダーが演じているのだが、これもちょっと雰囲気まで似ているところがある。
このロミー・シュナイダーの魅力にはちょっと抗いがたいものがある。
人をひきつけずにはいない美貌の魅力や笑顔、優しさと激しさの同居、孤独な性質と親しみやすさの混合。
ロミー・シュナイダーは若い頃にも、映画『プリンセス・シシー』3部作で、エリーザベト、皇后シシーを演じて爆発的な人気を得た。そのイメージが強烈すぎて、シュナイダーが生涯役者として苦しんだくらいである。
それで、ヴィスコンティもロミー・シュナイダーをエリーザベト役に使ったわけである。
前半で、ヘルムート・バーガーとロミー・シュナイダーが乗馬でデートするシーンなども、孤独な似たもの同士の雰囲気がよく出ている。フィクションであるのを忘れるくらいお似合いなのだ。
後半で、政務をほったらかして城に閉じこもったルートヴィヒをエリーザベトが訪問するシーンがある。
ルートヴィヒが浪費してつくりあげた贅沢きわなりないが、空虚な城を見て回る。
地下の白鳥を浮かべた池の幻想的だがきわめて幼稚で悪趣味な様子もみる。
このセットは映画でも最も印象的なもので、ルートヴィヒの現実逃避、幼児性、夢だけに生きる性質を端的に表現していた。こわいくらいに。
但し、これも現実のルートヴィヒ2世とは関係ないヴィスコンティの創作だろうとは思うが。
エリーザベトが、城の二階の壮大な回廊の入口に従者と共に姿を現す。カメラが超ロングショットで回廊の奥の入口にいる二人の遠いシルエットを映す。
突然、ロミー・シュナイダーが高笑いをはじめる。カメラはそのまま動かず、笑い声だけが聴こえてくる。
カメラがさらに引いて、長大な回廊を映し出す。
このショットは、初めて映画館で観た際にも今回も圧倒的に一番この映画で印象に残った。きわめて映画的なシーンである。
これはイメージ自体として完璧に完結しているので余計な解釈など必要ないかもしれないが、一応書いておこう。
このエリザベートの高笑いは、こんな無意味な豪華なものをつくってしまって、という笑いである。そこには、エリザベートのルートヴィヒに対する呆れと同時に愛情がこもっている。
また、ルートヴィヒの同類であるエリザベート自身に対する嘲笑なのかもしれない。
さらに、監督のヴィスコンティ自身の貴族趣味、同性愛、病んだ心に対する自己嘲笑も投影されているとも解釈可能だろう。
ルートヴィヒ2世とオーストリア皇后のエリーザベトも、調べていると、事実は小説より奇なりじゃないが、事実は映画より奇なりと感じずにはいられない。
ヘルムート・バーガーもロミー・シュナイダーも、この二人をきわめて高いレベルで完璧に演じきっている。
個人的にはバーガーはそれほど好きな役者ではないのだが、この映画についてはもう文句のつけようがない。
前半の純粋であやうくて神経が尖っていて誇り高いルートヴィヒも、後半の頽廃して現実逃避して病んだ感じのルートヴィヒも。
ただ、現実のルートヴィヒ2世とオーストリア皇后のエリーザベトも、こういう映画的創作さえこえてしまう魅力や人間的な複雑さがあったようにも想像してしまう。
完全に自由に生きることが許されて、王室になじめず、複雑で近い血縁関係に巻き込まれ、政治的陰謀や策略にさらされ続けた彼ら。
ヴィスコンティが映画的想像力を総動員してつくりあげたこの映画も、彼らのありのままの生の姿には及ばないのではなかろうか。
この映画はヴィスコンティの豪華絢爛な美術と頽廃趣味が注ぎこまれている。また、ルートヴィヒに自身の姿を投影しているという解釈もよくされるようだ。
だが、自身上級貴族だったヴィスコンティにとっても、さすがにルートヴィヒ2世やオーストリア皇后のエリーザベトは、なるべくありのままに表現したかった純粋な崇拝の的だったような気もするのである。
長い深刻な映画だが、笑えるシーンもはさんでいる。
エリーザベトの妹のゾフィーとルートヴィヒが婚約して、ゾフィーがピアノを弾きながら歌うシーン。残念ながらゾフィーは音痴なのである。
それを音楽を愛して神経が鋭敏なルートヴィヒがうつむいて困って聴き入るショットは笑わずにはいられない。
他にも、ルートヴィヒに愛の営みをするために送り込まれた女優を、室内にある泉に放りなげるところ、ルートヴィヒがお気に入りの役者が、テーブルに置かれたご褒美のメダルを取ろうと手を伸ばすと、テーブルが地下に移動していってしまうところ、など。
四時間の長い映画なので、こういうシーンもないとやってられない。
ルートヴィヒ2世は政務から目を背けて贅沢三昧を繰り返したために、周囲がルートヴィヒ2世の失脚を目論む。
精神科医に診断させて、パラノイアという診断を得て、ルートヴィヒ2世に王の職務遂行は不可能として退位させる。
ただ、精神科医たちはルートヴィヒ2世を直接診断せずに生活状況から推察しただけで、政治的意図による診断だったという見方が今では大勢である。
また、パラノイアという診断自体についても、実際は精神病だとしてももっと軽度なものだという意見も多いそうである。
要するにルートヴィヒ2世は政治的陰謀で退位させられたのである。
ルートヴィヒ2世は謎の死をとげている。
・ルートヴィヒ主治医グッデン博士が散歩に出る。護衛や看護人は同行を禁じられる。
・帰宅予定の午後8時を過ぎても戻らず、捜索開始。
・湖の浅瀬で、二人の遺体が発見される。
・公式発表は、ルートヴィヒはグッデン博士を殺害した上で自殺したというもの。
これについては疑問点も多い。
・ルートヴィヒ2世は溺死のはずがない。
・水深が浅い(腰〜胸くらい)。
・ルートヴィヒは非常に強い泳ぎ手だった。
・肺に水がないので、典型的な溺死ではない。
他にも疑問点が多くて、暗殺説も囁かれ続けた。真相は不明のままである。
オーストリア皇后のエリーザベトも、周囲にルートヴィヒ2世は殺されたのだという意味の発言をすることがあったという。
ヴィスコンティの映画でも、史実に即して形式上は、死の真相はよく分からないということになっている。
だが、映画の描写からヴィスコンティがどういう意図で描写したのかは一応推測できる。
・ルートヴィヒと主治医が、時間になっても散歩から戻らないという報告が入る。
・ホルシュタイン伯爵(ルートヴィヒの失脚にからんだ人物)が、見つけたら銃を撃って知らせると言って、捜索に向かう。
・待機する人間たちに、銃声が二発、やや間を置いて聞こえてくる。
・主治医とルートヴィヒが死亡しているのが発見されて、川から引き出されて、川岸に寝かされる。
・ホルシュタイン伯爵が、どこからか現れて、ルートヴィヒが主治医を殺してから自殺したのだ、と述べる。
一応、史実通りである。だが、人々は銃声を二発聞いている。
ホルシュタイン伯爵は、見つけるのを知らせるだけなら一発でいいだろう。
それを二発というのは、ホルシュタイン伯爵が自分たちに都合が悪いルートヴィヒをこれを好機と捉えて銃で殺害し、主治医も口封じのために殺害したのを暗示しているとも解釈できる。
だから、銃声が二発だったのだ。
今書いたことはあくまで推測に過ぎないのだが、ヴィスコンティはやはり実際の出来事でも暗殺説を考えていて、史実からギリギリ逸脱しない形で、自身の意見表明をしたのではないだろうか。
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