イングマール・ベルイマン「鏡の中にある如く」(1961)ー①ラストシーンについて
ベルイマンの「鏡の中にある如く」を久々にじっくり観て、その映像美に陶然としていた。
ベルイマンが撮影に頻繁に用いたフォーレ島を舞台に、登場人物を最小限の四人に絞った濃密な室内楽的な緻密で隙の寸分もない映像に終始する。
ベルイマンの完璧な演出能力と名撮影監督のスヴェン・ニクヴィストの繊細な光の使い方が筆舌に尽くしがたい。
個人的にはあらゆる映画の中でもベストの一つである。
この映画は「神の沈黙三部作」の第一作としての思想的宗教的意味よりも、まずは何よりも映像の見事さを現象学的に語るべきだと思っている。
だが、改めて観て昔はこの映画の唯一の弱点だと思っていたラストシーンのついて色々考えさせられるところがあったので、今回はその事について書いてみたい。
登場する四人の孤独と精神的病と苦しみと人間的な関係不全のもたらす絶望を残酷なくらいにえぐり出して、すべてが崩壊してカタストロフィを迎えた後に、父親(グンナール・ビョルンストランド)とその息子(ラーシュ・パッスコード)がラストシーンで語りあう。
父親が息子に対してこう語る。
神の証拠ならある、聞きたいか?
私の生きるよすがは、この世に愛が存在するという確信だ
崇高な愛、卑俗な愛、バカげた愛、美しい愛
すべてだよ
拒絶も裏切りもひっくるめてだ
神の証拠というより、愛が神そのものなんだ
そう考えれば絶望から救われる
空虚が満たされ、絶望が生に変わる
しばしの猶予だ、死からの....
そこまでの展開が過酷すぎたので、これは無理矢理に救いを結末に設定したような違和感がある。映画としての甘さ。私もかつてはそうだったし、批評家たちにもそういう理由で不評だったという。
そもそもベルイマン自身が、後にこのラストを失敗だったと認めている。「神の沈黙三部作」のこの後の「冬の光」と「沈黙」では、このラストに見られるかすかな神に対する希望は放棄されてゆく。
後年のベルイマン映画では、こういうキリスト教的信仰の問題など全く扱われなくなり、ベルイマン自身も無神論者だと公言することになる。
だが、神あるいは真理、愛というものに対してギリギリの緊張感を保持しているのが、このラストあるいはこの映画自体の最大の長所なのではないかと今は感じる。
父親の言葉を読むと、勿論これは単純な愛の讃歌などではない。「崇高な愛、卑属な愛、バカげた愛、美しい愛、拒絶も裏切り」、そういう人間のあらゆる美しかったり醜かったりする行為や感情を、すべて逃避せずにしっかり直視した上で無条件に受容しようとする人間のあり方。
愛はただ美しいものではなく、人間のあらゆる絶望や悲惨をも大きく包み込む、人間の根源的な存在理由と関わる何かである。
それは、実はこの映画のこのラストに至る絶望的な展開とも実は矛盾しない。四人はそれぞれ孤独で深い問題をかかえていて、そのお互いの関係性において相克しあい憎しみあったりする。その一方で、お互いに愛しあおうとする必死な努力も決して放棄していない。
この映画のラスト前の本編部分自体が、そうした憎しみも含んだ愛を求めるギリギリの実践場になっている。深く絶望しながら、諦めずに切れてしまわない緊張関係をあくまで保ちつづけている。
このラストも、絶望を愛によって救おうとしているのではなく、その緊張感をそのまま宙づりのまま保とうとする意味での、もっと深くて大きな「愛」を表現しているのではないだろうか。ほとんど、「愛」という言葉では表現しきれない何かを。
ベルイマンはあくまでキリスト教文化圏内の一神教の立場から、この神の沈黙、愛について語っている。ベルイマンは、このラストに見られる極限的な緊張感に持ちこたえられずに結局放棄してしまう。後続の「冬の光」や「沈黙」では、「愛」ではなく、「神の沈黙」の方向に向かう。
だが、この「愛」について、我々東洋の思想や宗教は全く異なるスタンスを取るケースがある。
まず一神教的な神の存在を前提としない。例えば、仏教ではすべてが仮の縁起によって成立していてその本質は実在ではなく「空」だと説く。
その仮の縁起を実在と錯覚して、人間はあらゆる憎しみや悲惨や愚かさを実行するが、その根底にある「空」はまったく揺るがない。
世界には表面上は無意味さ以外に何も存在しないように見えても、実はすべてをそのまま受け入れることが可能な真理があり、あらゆるものは本来愛するべきかけがえのない美しいものなのである。仏教では、それを人間くさい「愛」ではなくもっと普遍的な「慈悲」と呼ぶ。
ここでは詳述しないが、インド哲学・ヒンドゥー教系統のアドヴァイタ「不二一元」という徹底的な一元論でも、世界は悲惨に満ちているように見えていても、実は無条件の愛以外には何も実在しないという考え方がある。
こういう東洋的な「愛」の思想の観点からは、この映画のラストの父親の言葉は、無理な解決策、偽り慰めからそのまま深い真実の言葉に転化する。
ベルイマン映画にこの種の解釈をするのは強引で無理だと思われるかもしれない。だが、西欧においてさえキリスト教的な信仰が揺らいでいる現代において、ベルイマン映画の意味を、こうした形で他の文化圏の思想で再解釈して引き継ぐのは、決して意味のないことではないのだろうか。
また、ベルイマンがこの「鏡の中にあるごとく」で、現実を極限的な形でえぐり出していること自体が実は東洋的な部分もある。東洋的な思想ではそういう深い葛藤をいきなり飛ばして、悟りや愛に定住しかねない安易さも場合によってはある。
だが、ベルイマンのように現実を深く直視するから、それを経た愛も深みを増すという側面もあるのだ。
結論を改めて述べると、このラストシーンの「神は愛だ」という父親の言葉は決して強引な偽りの解決策、慰めではなく、現実の過酷さを受け入れた上での緊張感をギリギリに保った深い真実の言葉だということである。
以上で終わるが、個人的にはベルイマンでは「沈黙」までの中期までがたまらなく好きで、後期にも素晴らしい作品が幾多もあるがなぜかあまり深くはひかれない。
もしかするとその理由は、この映画やラストに見られる諦めてしまわない緊張感の保持をこの時期までのベルイマン映画が深いところで持ちつづけているのを感じているからではないかとフト思った。
この「鏡の中にある如く」という映画自体、その映像の素晴らしさについては、また改めて続きを書きたいと思う。
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