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イングマール・ベルイマン「鏡の中にある如く」(1961)ー⑤ベルイマンの古さと新しさ

以下は一連の記事の総括というよりは、とりとめがない雑感、雑文のような代物になってしまいました。

映画監督のジョナス・メカスは、ルノワールとベルイマンを比較して、こんな事を言っている。

ゲームの規則を見ると、ルノワールがベルイマンより優れていることがわかる。映画対演劇。ベルイマンがドラマティックなクライマックスによってシーンを盛り上げているのに反し、ルノワールは、どうにかしてそのようなドラマ化を避けようとする。[…]ベルイマンのヒーローは、19世紀のわざとらしい作り物のヒーローであり、ルノワールのヒーローは20世紀の満場一致のヒーローである。

ジャン・ルノワール『ゲームの規則』讃
https://pop1280.hatenablog.com/entry/2024/07/09/144906

メカスの主張は基本的には正しい。要はベルイマンは時代遅れだよ、と。
だが、マイルス・デイヴィスの口癖を借りてこうも言いたくなるというものだ。

ーSo what?
ーだから何?それがどうした?

ベルイマン映画の特に中期までは、かなり古風で現代的というよりは近代的なつくりをしている。しかし、それこそがベルイマンの良さなのだ。
ドラマチックで演劇的でロマンティックな要素に溢れていて、人間の心理の深部をえぐり、登場人物たちが哲学的な会話をかわす。今時そんな映画は流行らない、と。

だが、現代性の観点で映画を切り捨ててしまうのも実につまらない態度ではないだろうか?
そういう形式面の分類にとらわれずに、それぞれの映画監督、映画自体を即物的にありのままに評価したいものである。

例えば、クラシックのベートーヴェン交響曲解釈でも似たようなことが起きている。
古楽器派の影響もあって現代楽器でのベートーヴェン解釈もかつてとは全く異なるものになった。
かつての大家たちの解釈は時代遅れなロマンティシズムに過ぎないと言われかねない。

しかし、それでも個人的に今でも好むのは、クレンペラーやフルトヴェングラーやシューリヒトといった昔の巨匠たちの演奏である。彼らのタイプの本質はそれぞれ全く異なるが、一様に過去のロマン主義の解釈だと一様にくくられがちだ。
だが、例えばクレンペラーのあの即物性即精神性のような巨大な構築物の魅力には今聴いてもあらがいがたいものがある。他の昔の大家たちも皆そうだ。
要するに、現代対過去の図式や解釈の時代性ではなく、それぞれの演奏をありのままに先入観なしに聴いてみたいということである。

一方で、現代的なベートーヴェンも認めていて、例えばジョン・エリオット・ガーディナー&オルケストル・レヴォリューショネル・エ・ロマンティークなど本当に目から鱗の新鮮さだった。(もっともこれももう古い古典になってしまったけれど。)
現代的ベートーヴェンもスタイルだけですべて肯定せずに、誰々はよいが、あれはちょっとというように個別に判断するべきだろう。

映画についても全く同じことが言える。時代によるスタイルの図式によって判断せずに、あくまで個別に具体的に見たい。
また、過去の芸術的映画vs新しいハリウッド映画という単純な二項対立も避けたいものだ。

最近、ある方に教えていただいて、「デーヴ」という映画を見た。大統領の影武者が、ひょんな事から大統領職を本格的に遂行することになり....というファンタジーコメディーである。
スタイルで言えば、わりと新しい時代のハリウッド映画である。完全に。だが、これがとても良かったのだ。ハリウッド映画だからと言ってすぐ軽視するのもどんなものだろう。「ミッドナイト・ラン」とかも大好きだし。

昔の古典的な映画も、一律に拒否したり、逆にすべて崇拝するのも問題だろう。
ベルイマン関連で具体例をあげると、彼は不朽の名作のオーソン・ウェルズの「市民ケーン」をボロクソに言っている。

自分にとって(オーソン・ウェルズは)ただのペテン師だ。中身がなく、面白くもないし、死んでいるようだ

市民ケーンについては、批評家の寵児で、常に最高位にあるが、私はこの作品を全く退屈だと思う。とりわけ演技は価値がない。あの映画がこれほどまでに尊敬されていることが信じられない。

私自身は「市民ケーン」は好きだし、演技がひどいとも思わないし、退屈どころかその逆だと思う。
ただ、「ペテン師」というよりどこか「偽物」めいたところはあると思う。あの映画の映像は確かに美しいのだが、それこそ「鏡の中にある如く」などのベルイマン映像と比べてしまうと全く別物だとは感じる。

ウェルズでは、古典的な「市民ケーン」よりも「オーソン・ウェルズのフェイク」が好きだ。本質的に彼にはペテン師的なところがあって、それは短所ではなくむしろ長所だと思うので。

別にベルイマンが(まして私が)正しいと思ってこの例をあげたわけではない。
要は、古典的な名作についても、それぞれ個別に各人が先入観にとらわれずに自由に評価すればよいということである。

さて、話がとっちらかり過ぎて収拾がつかなくなってきた。最後にベルイマンと「鏡の中にある如く」について簡単にまとめたい。

この映画はもしかするとスタイルとしては古いところもあるかもしれない。

だが、①の記事で書いたように、これをキリスト教的な信仰・不信仰や「神の沈黙」やキリスト教的なアガペー(愛)の映画ではなく、ギリギリの緊張感、宙づりの状態に耐えているきわめてありのままの人間的な姿を、観念的にではなく直視してる映画として見直せないだろうか、ということ。
その際、「愛」についてもキリスト教文化圏によらず、東洋的な思想や宗教の「愛」で再解釈、再評価できないだろうか、ということ。

また、③や④で書いたように、神や信仰を論点として扱うのではなく、人間同士の関係性の中で生じる言葉の暴力・善意・エゴとして、もっと直接的な形で解釈できないだろうか、ということ。
具体的な精神病の描写というより、象徴的な人間の現存在のあり方の問題を、登場人物たちの造形によって読み取れないだろうか、ということ。

幼稚な試みだったかもしれないが、ベルイマンが言おうとしなかったことまで勝手に踏み込んで考える試みだった。

そもそも、映画監督が意識的に意図したことが重要なのではなく、その意図からはみでる豊穣な残余こそ大切な映画の醍醐味なのではないだろうか。
また、映画監督がその時代的制約にしばられながらも、時代的限界を図らずもはみ出している部分こそ読み取るべきなのではないだろうか。

そういう意味で、ベルイマンは古くて新しい映画だと思う。

だが、個人的には余計な新しい解釈などしなくても、十分にそれ自体で完成している映画だとも、実は感じているのである。

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