クロード・シャブロル「一寸先は闇」(1971)
日本でも上映されたことがあるらしいのだが、なぜこんな邦題タイトルにしたのかよく分からない。これじゃちょっとコメディー映画のようだ。
原題はJuste avant la nuit(夜のほんの少し前)で、かなり深刻で重い心理サスペンスである。
「不貞の女」と対になるような作品で、ミシェル・ブーケとステファーヌ・オードランが夫婦役で出ている。
殺人を犯したシャルル・マッソン(ミシェル・ブーケ)が良心の呵責でとことん苦しむ。(なぜか、シャブロルの夫役の名前はみんなシャルルですね。)
シャブロルらしく、殺人者という悪を、むしろ同情的に描いている。ミシェル・ブーケの重厚で抑制的で気品のある演技が素晴らしい。「不貞の女」以上にその心理に深く踏み込んでいるのだが、ブーケなしでは成立しなかった映画だろう。
「女鹿」の冒頭でわざわざシャブロルがブーケに献辞を捧げたのも理解できる名優ぶりである。
絵に描いたような幸福な家庭で、シャルルは理想の夫、父親像だ。エレーヌ・マッソン(ステファーヌ・オードラン)も、同じく理想の妻で、夫婦仲は良好そのもの、「不貞の女」のように浮気などしない。
映画の前半では、オードランはさほど目立たず、バイクに乗る姿がきわめてかっこよいくらいのものである。
だが、良心に耐え切れなくなったシャルルがエレーヌに旅先で殺人の詳細を告白すると状況が一変する。
荒涼とした海辺で、ブーケがこちら向きに立って後ろ姿で対面するオードランに殺人を簡潔に告白する。
オードランかたまり、ゆっくり一人で海岸方に少し歩んで佇む。前の方を女が歩いて通る。その「沈黙」のショットがかなり長く続く。
沈黙で全てを表現する、この映画でも最上のシーンだろう。
エレーヌはシャルルの罪を受け入れて許してむしろ励ます。ここでの、オードランのやはり感情をあまり表現しない演技がいかにもらしい。後半でオードランはあの存在感を発揮しはじめる。
殺した女の夫のフランソワ(フランソワ・ペリエ)にまで殺人を打ち明けてしまう。ほとんど強迫的な自白願望があって、告白される二人の方ももこれでは大変である。
シャルルとフランソワが並んで歩いていて、カメラがバックしながら二人を映し、シャルルが突然告白すると、フランソワの表情が一瞬固まるが、表情を大きく変えない。ここも印象的なショットで、こういう抑制的な表情の演出がシャブロルは得意だ。
フランソワも、なんとシャルルを一切責めずに、事故だから忘れろと励ます。妻のオードランはともかく、他人のフランソワまで聖人君子すぎるのは設定としてさすがに無理がある。
だが、シャルルにますます自分を責めさせるという点では、効果的な展開とも言える。
フランソワ・ペリエは、フェリーニの「カビリアの夜」でカビリアを騙す男の役も忘れがたい。
シャブロル常連のドミニク・ザルディがやはり性格俳優ぶりをいかんかく発揮している。滑稽で陽気で胡散臭いシャルルの部下役で映画の良いアクセントになっている。
シャルルの会計部下が、使い込みで逮捕されるのだが、いかにも人が良さそうで虫も殺さなそうなキャラクターだ。シャルルも疑惑が持ち上がっても一度はかばうのだが、逮捕されてシャルルが「なぜこんなことをした」と聞くと、その男は「地獄に落ちろ」と反省するどころか毒づく。
このシニカルで皮肉な人間描写もシャブロルらしいところだ。
シャルルはますます自分に耐えられなくなって、ある夜にエレーヌに、警察に自首すると告げる。エレーヌは必死に止めようとするが、シャルルの決心がかたいので諦める。
だが、エレーヌは夫の睡眠薬をわざと多く垂らす。その、オードランらしい抑制的で無表情で、内心の様々な思いがかえって感じられる演技の素晴らしさ。
シャルルは、Fais la nuit(夜を作れ)、と意味深なセリフを言う。シャルルはただ自首するとしか言わないのだが、これは死の願望の象徴表現とも解釈できる。
エレーヌも、勝手に睡眠薬を増やしたのではなく、そういうシャルルの心情を察して加担したのだとも解釈可能だろう。
二人が分かれて隣で寝ている手を伸ばして、手を結ぶ。このショットも二人がなにも言わずとも、お互い全てを理解しているとも感じさせる。
この一連のショットは、シャブロルらしい決定不能性、多義性がある。観る側の想像力を喚起して自由に解釈でき、なおかつ単純には解釈できないようにしている。
このように、シャブロルはシャルルの心理を深く洞察してかなり同情的に描いている。シャブロルは、どんな人間も憎まないと述べたそうである。
一方で、シャブロルにはブルジョワ階級への強烈な皮肉、風刺、批判もある。
この映画でも、シャルルは家庭では理想の夫、父だが、親友の妻と浮気して、なおかつ彼女の被虐的性癖につきあってSMプレイめいたことをして、それが事故的な殺人につながってしまう。
個人は憎まないが、階級は批判するという二重の視点がこの映画でも現れている。
本作は、罪そのものよりもブルジョワ社会がいかに秩序維持を優先するかを描いた風刺として読むこともできるだろう。しかし私には、それ以上に愛と罪悪感の間で揺れる夫婦の心理劇として印象深かった。
この映画に限らず、シャブロルの場合は悪をただ突き放すのではなくて、なぜそうなったのか、その必然を丁寧に描出する。これはシャブロル特有の全く独特な感性だろう。
人間は状況、環境によってはどんな悪も侵しかねない存在だというのは、ちょっとだけ親鸞が歎異抄で語った悪の捉え方と似ていなくもない。
勿論、シャブロルには冷静な冷酷さもあって、親鸞のような救いは一切ない。だが、親鸞の悪人正機のすぐ側にシャブロルは立っていたと言うと、言い過ぎだろうか。
シャブロルでは、「肉屋」と「不貞の女」がベストと評価されることが多いらしい。だが、この映画は主人公の心理洞察の深さ、重さでは、対になる「不貞の女」を上回るところさえある魅力的な作品だと思う。
原作はEdward Atiyah(エドワード・アタイヤ)の The Thin Line(細い線 / 1951年刊行)である。
この小説はなんと成瀬巳喜男が「女の中にいる他人」でも映画化している。
成瀬にしては、かなり実験的な映像表現で、普通の意味では成瀬らしくなくて、かなり無理をしている感があるので、軽く流して観てしまった。
だが、この内容だとそういう演出になるのも理解できるし、もう一度きちんと観直してみたい。
ラストは、エレーヌが海岸でチェアに座って、フランソワからの手紙を読むシーンである。
シャルルが殺人を告白した場所だが、その時のような荒天ではなく、きれいに晴れ渡っている。子供たちも無邪気に遊んでいる。
オードランの姿を、カメラが移動しながら映してゆく。ここに限らず、この映画、シャブロル映画ではこのスムーズで見事なカメラ移動も特徴になっていて、随所にある。
オードランは例によって表情をほとんど変えない。それが、夫を愛ゆえに死に追いやり、平和が回復されたが、そこには事態を荒立たせたくないというエゴイズムも潜んでいたかもしれず、そういうあらゆる複雑な感情をオードランはその無表情ですべて表現しきってしまうのだ。
ラストにこういう深い余韻を残すシーンを持ってくるのも、シャブロルの大きな特徴である。
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