解析不能な迷宮「去年マリエンバートで」続編
この映画については既に一度書いた。
その際にも紹介したが、日本語ウィキペディアによると、ロブ=グリエが、この映画は四つの部分に分類できると言っている。
1.現在
2.男Xの回想(Xにとっての主観的事実)
3.女Aの回想(Aにとっての主観的事実)
4.過去(客観的事実→夫と思われるMの視点)
カイエ・ド・シネマの、ロブ=グリエのロングインタビューが原典らしいが残念ながら確認できない。
この四つをシーンごとに分類できないか、メモを取りながら注意して見直してみた。だが、それすらも難しい。
この映画のロブ=グリエのオリジナル脚本翻訳も所有しているので読んだが、映画はその脚本から大幅に削除したり、内容改変したり、順序を入れ替えたりして直接には参考にならない。
また、このような四つの分類にも具体的な言及はない。しかも、この脚本はレネが実際に撮影する前に渡したものなのだ。
最初、デルフィーヌ・セイリグの衣装によって簡単に判断できるのかと思った。
ノースリーブの黒のドレス、黒のケープ系ドレス、(しかも宝石の首輪、長めのネックレスをつけたりつけなかったり)、ラメの白系統のドレス、ケープの白のドレス、羽つきの派手な白のドレス、ラメの黒の豪華なドレス、胸元が開いた明るい色のドレス、旅行用の黒のコートなど様々ある。
ある程度はそれで判断できる。基本的にはノースリーブの黒のドレスは現在、ラメの白のドレスは過去の回想に多いというように。
だが、冒頭の現在のホテルのシーンだけでも、ノースリーブの黒、ラメの白などが混合している。
この映画は現在の何日間と一年前の何日間で構成されていて、現在と一年前でもセイリグは何種類も着替えて、現在と一年前で同じものを着ているケースがある。
つまり、セイリグの衣装だけでは単純に判断できない。
むしろ、アラン・レネはその時間的混乱を招くように意図的に撮っているようにも思える。ロブ=グリエがこう明言しているからには四つに分類できるのだろう。特に映画の実際の台本、シナリオを見ればその辺は明快なのかもしれない。
だが、じっくり見直すほどこの映画はそういう単純な分類を拒否する時間的迷宮になっているのが特徴、良さなのではないかと感じた。
特に、4.過去(客観的事実→夫と思われるMの視点)に当たる部分を具体的に指摘しにくい。そもそもMは一年前のシーンではそれほど多く登場しない。黒澤明の「羅生門」のように「客観的事実」をまとめてシーンにしているわけでもない。
男Mは男Xと女Aに一年前に何らかの関係があり、現在それをもう止められないだろうと認識している程度に思える。
むしろ、そういう「客観的事実」性がないのが、この映画の美点に思える。
2と3の男Xと女Aの主観の分類もそれほど容易ではない。
敢えて言うなら、羽つきの派手な白のドレスのシーンの多くが女Aの主観かもしれない。
女Aの部屋に男Xが入るのを男Mが目撃して女Aを射殺する幻想シーンや庭園で女Aが男Xに隠れろと叫んでそこに男Mが現れるシーン。
どちらも、女Aの男Mに対する罪悪感、恐れを表現しているので。
2の男Xの主観にしても、記憶が曖昧で明確ではない。ある時には女Aは警戒していて、ある時は女Aは逢瀬を楽しんでいる。男の正確な記憶というよりは、願望と恐れがないまぜになった心的想像物である。
あるシーンでは男Xは女Aを無理矢理おかすかと思えば(ロブ・グリエの脚本にはその明確な記述あり)、直後には女Aが男Xを笑顔で歓迎して迎えいれる幻想的なショットが続く。
そもそも一年前の二人の出会いが実際のものなのかも曖昧で、男Xの主観的なあやふやな記憶だけが頼りなのである。
女Aが当初は男Xの記憶を全面否定するのが、男Xの執拗な記憶の再生に巻き込まれて自分もよく分からなくなってゆくのだし。
彼ら三人の記憶だけではない。一年前に女Aの靴のヒールが取れるのだが、現在のホテルで関係ない第三者が別の靴のヒールが取れる話を「たまたま」している。
全員で観劇するその内容も、「たまたま」男Xと女Aの関係性を暗示するものだ。
厳密な因果律に支配されない恣意的な偶然の一致が映画全体を支配している。
女Aが、自分のメモノートや机の引きだしから、一年前の自分のラメの白ドレスの写真を無数に発見する。女本人と写真のどちらが実在なのかももう良く分からない。
この手法は、ロブ=グリエの「不滅の女」でも用いられる。
男Mも夫らしいと言われているだけで、本当の夫婦なのかもよく分からない。夫婦にしてはどこかよそよそしい。
男Mも実在というよりは、女Aを拘束する象徴的存在に過ぎないようにも思える。
男Mは男Xに、ニムというゲームで必ず勝つが、それも拘束者Mと誘惑者Xの実際的な力関係の反映である。それについては監督のレネも認めている。
冒頭に紹介したロブ=グリエの説明にもかかわらず、すべては記憶の幻想による歪曲の非実在に思える。時間も直線的に一本で流れるのではなく、多層的な時間の可逆性や混乱に満ちている。それがこの映画の素晴らしさにも思える。
勿論、すべて個人的な見解にすぎないけれども。
ーこの場所で あなたは自分を見失っている 永久に 静かな森の中で わたしと二人きりで
このラストが、自己のアイデンティティを次第に完全に喪失してしまう、この物語の本質を美しく表現していると思う。
もっとも、これらは様々な予備知識があって映画を何度も観た上でなければとても言えない話だ。
あのアンドレ・ブルトンでも、初見では「わからない」と正直に言ったのだから。
そもそも、映画タイトルは「去年マリエンバートで」だが、マリエンバートは実際には登場しない。一年前の庭園はフレデリクスバートなのだ。
映画タイトルからして、すべてが非実在だと宣言している。

