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アラン・レネ「去年マリエンバートで」(1961)

アラン・ロブ=グリエがこの映画の脚本の中で、アラン・レネの映画全般についてこのように書いている。

わたしが彼の作品に認めたものは、純粋に心理的な時間と空間ーおそらく夢の、あるいは記憶の時空であり、感情的な生の全体的な時空であるーを構築する試み、それも慣習的な因果関係の鎖や、物語の純粋な時間的経緯には気をとられすぎることのない、時空世界構築の試みである。

まさに、これが彼らが「去年マリエンバートで」で端的に試みたことだろう。

女A=デルフィーヌ・セイリグ、男X=ジョルジュ・アルベルタッツィ、Aの夫と思われる男M=サッシャ・ピトエフの、三者の記憶が混乱して並立し、何が本物の現実か不明なアラン・ロブ=グリエ的迷宮にいざなわれてゆく。

デルフィーヌ・セイリグの空虚な笑いが印象的である。彼女は当初は男Xの言葉を否定して受け流すが、男Xの執拗な記憶の再現に巻き込まれて次第に不安に自分でも真実が分からなくなってゆく。
セイリグの当初の空虚な笑いも次第に失われてゆく。
セイリグの中身がからっぽな感じが素晴らしい。その演技するというよりは、ただ存在している感じが、この映画の記憶の混乱、現実の虚構性を効果的に高めていると思う。
セイリグの衣装を担当しているのが、ココ・シャネル。記憶の時間により衣装の色やイメージを変えている。そのセイリグの様々な姿が魅力的だ。

男Mのサッシャ・ピトエフのなんとも無気味な感じも強く印象に残る。ちなみに彼が行うゲームには本当に必勝法があるという。

非現実性を高める為に、銅像のように動かない人々。
あるショットにある人物が映っていたのに、カメラがゆるやかに移動してゆくと、その先にその人物がいるトリック。この手法はアラン・ロブ=グリエの「不滅の女」でも頻繁に用いられていた。
セイリグの記憶の姿を秒単位のショットで明滅させて、記憶の不確かを強調する手法。
別の時間と場所の広々として整然とした幾何学模様の庭園。
これらの映像手法、感覚が面白い。ただ、この映画のプロ監督のアラン・レネよりも、当初は映画の素人だったアラン・ロブ=グリエの「不滅の女」の方が、不思議に純粋に映像的にはうまくいっているように個人的には感じた。

「不滅の女」と比べると、アラン・ロブ=グリエが書いた言葉の占める役割が大きい。
冒頭の声だけの男Xの長々しい独白から始まり、Xの執拗な記憶の再現、混乱の言葉が映画中を覆う。いかにも文学者と映画監督の共同作業らしい。
ラストのXの独白のセリフはやはり文学者が書いた印象的な見事なものである。
ーこの場所で あなたは自分を見失っている 永久に 静かな森の中で わたしと二人きりで 

一方、「不滅の女」の方が、文学者のアラン・ロブ=グリエが監督であるにも関わらず、純粋に映像で勝負している感じなのが興味深いところだ。

音楽はフランシス・セイリグ。当初レネはオリビエ・メシアンに依頼したが、結局メシアンの弟子のフランシス・セイリグになった。映画中流れる無気味なオルガン音楽である。
勿論立派なプロの作品なのだが、ちょっと出来は微妙だ。できればメシアン本人に作曲して欲しかったところである。
そういう意味では、どんな映画音楽もテレビドラマ音楽も気軽に引き受けて書いていた武満徹は偉かった。

アラン・ロブ=グリエは脚本では、オケ作品や十二音音楽を指示していて、このオルガン音楽はレネのアイディアとのこと。
アラン・ロブ=グリエは事前に脚本を渡して撮影は完全にレネに任せている。出来にはアラン・ロブ=グリエは完全に満足したという。ただ、この例のように完全に厳密に脚本に従っているわけではないようだ。
しかし、撮影前の二人の打ち合わせで、レネがアラン・ロブ=グリエの書いた言葉だけではなく、それをどう具体的に映像化するかのイメージも全く同じように理解していて驚いたという。幸福な共同作業だったようだ。 

冒頭に書いた二人の意図は基本的には成功していると思う。特に、デルフィーヌ・セイリグの様々な姿、表現は見ていて飽きない。
こういう映画の制作意図やこの種の映画を観る知的楽しみを差し引いて、純粋な映像イメージの強度だけで判断しても評価できると思う。
想像、偽の記憶で男Mにいきなり射殺されるデルフィーヌ・セイリグがベッドから逆向きに美しい衣装で横たわる鮮烈なイメージなど素晴らしい。

この映画の日本語ウィキペディアによると、黒澤明の「羅生門」を元にしていると、アラン・ロブ=グリエが後年語ったという。

1.現在
2.Xの回想(Xにとっての主観的事実)
3.Aの回想(Aにとっての主観的事実)
4.過去(客観的事実→Mの視点)

注目したいのは、4を「客観的事実」としている点である。「羅生門」でも、芥川龍之介の原作の「薮の中」にはない、「客観的事実」が付加されている。
ちょっと驚く。なぜなら、本当の事実など分からない相対性こそが重要に思えるので。
そこに、「客観的事実」を持ち込むのは幻想性の野暮で安易な解除なのではないだろうか。
個人的にはそれが「羅生門」に一番不満な点なのだが、まさか本人が一流作家でもあるアラン・ロブ=グリエもこれを見習っていたとは。
あくまで真実は「薮の中」にした芥川龍之介が正しいようにも思えるのだが、どんなものだろう。

最後にこの難解な映画が分からないという方の為に、あるエピソードを紹介しておこう。こうして分かったようなことを書いている私も実はよく分かってない。

「だれにも、わからないだろうが、わかってくれそうな人がいる。その人にこの映画をささげよう」とロブ=グリエ氏はレネ監督と相談して、映画の冒頭に、シュールレアリズムの創始者、詩人で作家のアンドレ・ブルトン氏への献辞を入れた。
そして、試写に招いて感想を聞いた。
「わからない」
二人は献辞を外した。
(「世界シネマの旅」朝日新聞社より)


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