見出し画像

村上春樹の「旭川」と神居古潭吊り橋事件

村上春樹の「旭川」と神居古潭吊り橋事件


村上春樹が自らの小説の中で言及する「旭川」を現実に当てはめることはあまりにも短絡的である。しかしこの評論では、小山鉄郎の「村上春樹を読む」を参考にしつつ、敢えてそれをやって見ようと思う。

Ⅰ.村上春樹にとっての「旭川」

1. 村上作品における「旭川」の共通した位置づけ

村上春樹の小説において「旭川」は、単なる現実の都市としてではなく、「死者の世界」や「霊魂の世界」へと繋がる入口の土地として一貫して描かれている。

2. 各作品における「旭川」と「死・霊魂」の繋がり

  • 『羊をめぐる冒険』 主人公の「僕」は、死者の世界・霊魂の世界そのものである「十二滝町(これより先には人は住めない土地)」へと向かう。その死者の世界への入口に位置しているのが旭川である。

  • 『ダンス・ダンス・ダンス』 『羊をめぐる冒険』の闇の世界(死者の世界)に侵入できるフロント係のユミヨシさんは、作中で「ホテルの精(精霊)」のように形容される。彼女の実家は旭川の近くで旅館を経営していると設定されている。

  • 『ねじまき鳥クロニクル』 ノモンハン事件という戦争の記憶(死者の世界)を抱え、物語において重要な役割を果たす老霊能者・本田さんの故郷が旭川である。また、作中のニュースで旭川における死亡事故が流れた直後に綿谷ノボルが襲われる場面があり、ここでも旭川、死亡事故、霊能者(本田さん)のテレビが意図的に結びつけられている。

3. 『ノルウェイの森』におけるレイコさんの発言の真相

作中でレイコさんが放つ「あそこなんだか作りそこねた落とし穴みたいなところじゃない?」「でも人は旭川で恋なんてするものなのかしら?」という言葉の真意は、作中のレキシカルな仕掛けと結びついている。

  • レイコさん=「霊魂(レイコン)」の象徴 レイコさんは東京の「僕」の元を訪れる際、自殺した直子の遺品である服を身にまとい、「棺桶みたいな電車」(新幹線) に乗ってやってくる。彼女は直子の「お化け(霊魂)」であり、2人の4回(死回・死界)におよぶ性交は「死の世界のセックス」を意味する。

  • 言葉の真意 「恋なんてするものなのかしら?」というつぶやきは、現実の旭川市民に向けられたものではない。霊魂(レイコさん)が、死者の世界への入口である「旭川」に向かうにあたり、「霊魂が恋なんてするものなのかしら」、あるいは「霊魂の世界の入口で恋なんてするものなのかしら」という、作品世界の内的な構造から生じた問いかけである。

小括

小山は、村上作品における「旭川」を「死者や霊魂の世界への境界線」として読み解く。そして、このような忘れられない死者や大切な記憶(歴史)と対話し、そこから聞こえてくるものに耳を澄ませることこそが、村上春樹が描き続ける「人間の成長」というテーマを受け取るための最大のポイントであると結論づけている。

Ⅱ.旭川神居古潭の吊り橋(端)はし

村上春樹が敢えて「旭川」というトポスを選び、小山鉄郎がそこにある神話性を診るならば、アイヌ語で「神の住む場所」を意味すると同時に、激流渦巻く「魔の潜む場所」とされてきた神居古潭、そしてそこにかかる吊り橋(神居古潭橋)を巡る陰惨な記憶に触れないわけにはいかない。

第一章 神居古潭という「魔の磁場」と、欄干から落とされた霊魂

小山鉄郎が『村上春樹を読む』の中で提示した「異界への下降」という回路を、現実の旭川の地図に重ね合わせるとき、その最深部に現れるのが「神居古潭」である。石狩川が山に挟まれて急激に川幅を狭め、無数の不気味な深い「甌穴おうけつ」が川底に口を開けるこの場所は、古来より水難事故が多発する、文字通りの生と死の境界線であった。

そして、この評論が敢えて現実の事件を虚構に重ね合わせるならば、神居古潭の橋の欄干に座らされ、冷酷に激流へと突き落とされたという、あの陰惨な事件の記憶を呼び覚まさざるを得ない。

この現実の事件が持つ「理不尽な死」と「深い闇」の構造は、村上文学における『ノルウェイの森』の底流を流れる、直子やキズキの「自死」、あるいはレイコさんをかつて破滅に追い込んだ13歳の少女の「底知れぬ悪意」と、不気味なほどに共鳴している。

神居古潭のはしの欄干という、この世とあの世の文字通りの境界線から、真っ逆さまに冷たい底へと落とされていった霊魂。

小山流の神話解釈をここに導入するならば、旭川というトポスは単なる静かな回復の場などではない。そこは、そうした地元の土着的な記憶に刻まれた「理不尽に奪われた霊魂」の叫びが、今なお底の方で渦巻いている、極めて危険な精神の臨界点なのである。

第二章 欄干の記憶を生き直す〜レイコさんの「下降と超克」

作中でレイコさんが旭川に赴き、そこで生きるということは、この神居古潭に象徴される「理不尽に奈落へと突き落とされる恐怖(=過去のトラウマや、直子の死という絶対的な闇)」のすぐ傍らに、自らの身を置くことを意味する。

かつて精神のバランスを崩し、社会の「欄干」から突き落とされるようにして療養所サナトリュームの阿美寮へと隠棲したレイコさんにとって、旭川という土地が持つこの陰惨な磁場は、彼女自身の過去の傷を容赦なく刺激するはずだ。

しかし、小山鉄郎が看破した村上文学の強靭さは、その闇から逃げるのではなく、闇の最も深い場所を通過することによってのみ、人間は真に再生するという点にある。

レイコさんが旭川の地で、神居古潭の激流のような、あるいは欄干から落ちていく瞬間のような精神のフラッシュバック(事件)に見舞われながらも、ピアノを弾き、他者と向き合い続けること。それは、あの陰惨な事件で理不尽に落とされた霊魂たちの鎮魂歌レクイエムを、彼女自身の指先から奏でられる音楽によって、静かに、しかし決然と執り行っていたプロセスとなる。

東京の夜、ワタナベと「四回しかい」の性交を経て、死の呪縛を反転させたレイコさん。彼女が旭川という、神居古潭の生々しい霊的闇を抱えた都市で日常を生き抜くという具体的な言説は、小山鉄郎の批評眼の先において、理不尽な死の引力(欄干からの転落)に対して生者が打った、最も厳粛で、凄惨なまでに美しい「生へのくさび」なのである。

第三章 「レイコ」という死者からの使者、そして生霊としての存在

小山鉄郎が『村上春樹を読む』で提示した最も鋭い着眼点の一つは、村上作品における「他界からの訪問者」の存在である。この文脈を極限まで突き詰めるならば、『ノルウェイの森』の終盤、阿美寮を出てワタナベの前に現れたレイコさんは、すでに肉体を持った生身の人間ではなく、直子の死が物質化した「霊魂(あるいは生霊)」として解釈されねばならない。

なぜなら、彼女がワタナベのアパートで交わす四回しかい」の性交は、通常の男女の愛欲の文脈から完全に逸脱しているからだ。

それは、直子という「死の世界に引き込まれた魂」の残滓を、レイコさんという巫女(シャーマン)の身体を媒介にして、現世のワタナベへとトランスファー(転移)する霊的な儀式であった。四回の交わりによって直子の呪縛を現世の「生のエネルギー」へと反転・中和させたレイコさんは、いわば役割を終えた霊魂、あるいは「死者と生者を繋ぐベクトルそのもの」として、次なるトポスへと向かう。

その行き先が、他でもない「旭川」であるという点に、村上文学が内包する国家規模の神話が隠されている。

第四章 第七師団(軍都)の構造と、「羊男」という国家システムの影

小山鉄郎は、村上春樹が『羊をめぐる冒険』以降で執拗に描き続けた「」のモチーフを、日本の近代化、とりわけ農林水産省や軍隊といった「国家の肥大化したシステム(意思)」の象徴として読み解いている。北海道の開拓と「羊」の導入は、地政学的にロシア(北)への防波堤として国境を要塞化する国策と完全に連動していた。

その北進政策の究極の結節点、最強の暴力装置として大雪山の麓に配置されたのが、歴史上名高い「陸軍第しち師団(北鎮部隊)」、すなわち軍都・旭川である。

ここで『羊をめぐる冒険』の「羊男」の存在が、しち師団の歴史的記憶と不気味に重なり合う。

羊男とは、国家のシステムによって「個」を剥ぎ取られ、その土地の開拓(=暴力的な侵略と忘却)の歴史の底に置き去りにされた「名もなき戦死者・犠牲者たちの霊魂」の集合体にほかならない。旭川がかつて第七師団の軍都として機能していたという厳然たる歴史的事実。それは、この土地の地下に、国家の意志によって「生贄」に捧げられた無数の兵士や、排除されたアイヌの霊魂が、網の目のように張り巡らされていることを意味する。

第五章 「欄干の転落」と軍都の磁場〜なぜレイコさんは旭川へ向かったのか

これらを結びつけたとき、初めて論理の全容が説得力を持って立ち上がる。

なぜ、東京での「四回しかい」の儀式を終えた霊魂としてのレイコさんは、旭川へと向かわねばならなかったのか。そして、それがなぜ神居古潭の欄干の事件いじめ事件動物園の悲劇といった「旭川の陰惨な事件」と地続きなのか。

軍都・旭川とは、国家という最大級の「システム」が、最も強固に人間の生を管理し、そして「理不尽な死」を量産したトポスである。神居古潭の吊り橋の欄干から突き落とされた命閉鎖的な同調圧力によって雪の中に凍結させられたいじめの被害者管理システムの裂け目で犠牲になった動物園職員の妻の命――。これらはすべて、かつてしち師団という巨大な暴力装置がこの土地に刻み込んだ、「個の尊厳を圧殺し、生贄を求める磁場」の現代的な変奏(フラッシュバック)と化す。

レイコさんという、自らもシステムの暴力(他者の悪意や精神の失調)によって社会の欄干から突き落とされ、一度は「霊魂」と化した存在。

彼女が旭川の音楽教室に身を置くということは、小山鉄郎が診る村上文学の闘争において、極めて明確な「霊的逆襲」を意味する。

かつて第七師団が、そして近代のシステムが「生贄の死」を求めたその血塗られた盆地(器)のただ中で、彼女は「ピアノを教える」という、最も微細で、最も徹底的な「個の表現」を試みる。軍都の記憶が呼び寄せる陰惨な事件の闇(地)に対して、彼女の奏でる音色(図)は、不条理に奪われた全ての霊魂(欄干から落ちた者、いじめられた者)に対する、時空を超えた「鎮魂歌(レクイエム)」となるのだ。

虚構の「レイコさんという霊魂」が、現実の「第七師団という軍都の闇」へと参入していくこの強烈なベクトル。これこそが、小山鉄郎の神話解釈を媒介に、現実の旭川の陰惨な事件と村上文学の深層を、一分の隙もなく、かつ圧倒的な説得力をもって結合させる批評的結論なのである。

Ⅲ.旭川の闇

いいなと思ったら応援しよう!