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再録:玉の井考


玉の井・赤線地帯と売春防止法:文学・映画が描く時代と社会

永井荷風の小説『濹東綺譚』滝田ゆうの漫画『寺島町奇譚』、そして溝口健二監督の映画『赤線地帯』は、いずれも戦前から戦後の混乱期にかけて存在した日本の遊廓・赤線地帯、特に東京の玉の井を舞台に、そこで生きる人々の姿を描いている。これらの作品は、売春防止法が成立する前や成立する直前の社会状況と、それがもたらす変化を浮き彫りにする。


1. 永井荷風『濹東綺譚』:移ろいゆく美意識と性愛

永井荷風が1937年(昭和12年)に発表した『濹東綺譚ぼくとうきだん』は、彼が実際に通った玉の井の私娼窟ししょうくつでの体験をもとに描かれた小説である。この作品は、売春防止法が成立する約20年前の、比較的自由な雰囲気が残っていた時代の玉の井の情景を描いている。

  • 荷風の美意識と「私娼」: 荷風は、吉原のような公娼制度化された遊廓の形式的な美しさよりも、玉の井の路地裏にひっそりと佇む私娼たちの生活に、より人間的な美しさや「粋」を見出した。彼は、彼女たちのなかに見出した純粋さや生活の匂いを愛し、自身の隠棲的な生活と重ね合わせるように描いている。

  • 「生活」としての売春: 『濹東綺譚』に登場する女性たちは、生計を立てるために売春を行っている。そこには、国家や公的な制度による統制よりも、個人の生活の延長線上に売春が存在しているような、ある種の牧歌的な(しかし、その根底には貧困が横たわる)雰囲気が描かれている。これは、後の売春防止法が問題視する「斡旋業者による搾取」という側面が、まだ表面化していなかった、あるいは荷風の視点からは強調されなかった時代の風景と言える。

  • 失われゆくものへの郷愁: 荷風は、近代化とともに失われゆく日本の伝統的な美意識や、自由な性愛の場への郷愁をこの作品に込めている。彼は、統制されゆく社会や、欧米化する日本のあり方に批判的な眼差しを向けており、玉の井の私娼窟は、彼にとってそうした「失われた世界」の象徴でもあった。


2. 滝田ゆう『寺島町奇譚』:市井の人々の暮らしと性

滝田ゆうの漫画『寺島町奇譚』(1970年代に発表)は、戦後の高度経済成長期直前の、赤線時代(売春防止法成立前)の玉の井(旧寺島町)を舞台に、そこに生きる庶民の日常を温かく、しかし時に残酷な視線で描いている。

  • 庶民目線のリアリティ: 滝田ゆう自身が玉の井で育った経験を持つため、作品は極めて私的な視点と、市井の人々の息遣いが感じられるリアルな描写が特徴である。売春婦たちだけでなく、その家族、近隣住民、そして客たちの生活が、ユーモラスでありながらも哀愁を帯びて描かれている。作家の吉行淳之介は、この漫画を「哀しくやさしく淋しく愉しく薄幸のようで豊かな作品」と評した。

  • 「生活」と切り離せない売春: 『寺島町奇譚』においても、売春は特別なことではなく、貧困の中での「生活」と深く結びついていた。女性たちは、子どもを養うため、家族を支えるため、あるいは病気の治療費のためなど、様々な理由でこの商売を選んでいる。そこには、制度化された公娼と異なり、より生々しい人間のドラマがある。

  • 売春防止法成立への胎動: 作品の時代背景は、まさに売春防止法が議論され、成立に向かう時期と重なる。作品には、そうした社会の動きが、そこに暮らす人々の生活にどのように影響を与えていくのか、という視点も含まれていると考えられる。

・ カストリゲンさん


3. 溝口健二監督 映画『赤線地帯』:売春防止法成立直前の社会と女性たち

溝口健二監督の映画『赤線地帯』(1956年公開)は、売春防止法が成立する直前の東京の赤線(売春街)を舞台に、そこで働く様々な背景を持つ女性たちの群像劇を描いている。本作は、溝口監督の遺作であり、売春という社会問題に対する彼の最後の問いかけでもあった。

  • 「女を売る」ことの必然性: 映画に登場する女性たちは、それぞれに深い事情を抱えている。親の借金、無職でヒモの夫、子供のためなど、彼女たちが売春という道を選ぶのは、決して裕福な暮らしのためではなく、生きるため、あるいは家族を守るための「必然」として描かれている。(⇒京マチ子が演じた女性は、会社社長の父親への反抗が娼婦になる理由だったが…。)

  • 法の「被害者」観への批判的視点: 映画は、売春防止法が「売春婦を被害者として保護する」という理念で成立しようとしていることに対し、複雑な視点から描いている。一部の女性は、売春防止法によって自分たちの「稼ぐ手段」が奪われることに反発し、むしろ自由を奪われると感じている。法が成立すれば、生活の糧を失い、かえって困窮するのではないか、という切実な問題提起がなされている。

  • 「女」と「金」の関係: 映画は、女性が性を用いて金銭を得るという行為の背後にある、社会の貧困と、男性社会の構造的な問題をも示唆している。女性たちが置かれる経済的・社会的な弱さは、時代が変わっても本質的に解決されていないというメッセージが込められている。(⇒ただし、映画では若尾文子が演じたように、「ふとん屋」として独立開業してしたたかに生きる女性も描かれていた。)

  • 時代の終焉: この映画は、戦後長く続いてきた赤線という制度の終わりを告げる作品であり、ある時代と文化の終焉を記録した貴重な映像作品としても位置づけられる。

・神代辰巳・監督「赤線玉の井 ぬけられます」(日活ロマンポルノ)

神代辰巳・監督「赤線玉の井 ぬけられます」のスチール写真

※実際はこんなに通りに立って娼婦が直接に客を引くようなことをやって猥雑であったのか!? 下記の実際の写真はこんな感じ。

記録映像:

でも、もっと時代が経つとこんな感じで賑わっていたらしい。

こちらは、「鳩の街」                                

4. 売春防止法成立間近の社会状況

売春防止法は、1956年(昭和31年)に成立した。この法律は、戦後の混乱期に蔓延した売春を撲滅し、女性の人権を擁護するという理念のもとに制定された。

  • 成立の背景:

    • GHQの指令と公娼廃止: 戦後、GHQ(連合国最高司令官総司令部)は公娼制度の廃止を指令し、日本における公的な売春は禁止された。しかし、その後も「赤線」と呼ばれる私娼窟は各地に残り、半ば公然と売春が行われていた。

    • 女性団体・政党の運動: 日本共産党の女性議員をはじめとする女性団体や一部の政党は、売春が女性の尊厳を著しく傷つけるものであり、人身売買や搾取の温床であるとして、その完全な根絶を強く求めた。彼らは売春する女性を「憐れむべき被害者」と見なし、その救済と保護を重視した。

  • 法律の「ザル法」性とその影響: 売春防止法は「売春行為そのもの」を処罰の対象とせず「売春を斡旋、勧誘、管理し、場所を提供する者」を処罰するという構造になっている。これは、売春婦を被害者と見なすという法の理念によるものである。しかし、この構造が結果的に、個人の意思による売春(建前上)や、路上での「立ちんぼ」といった新たな形態の売春を完全には取り締まれないという「抜け穴」を生み出した。

  • 「赤線」の終焉と新たな闇: 売春防止法の施行により、公然と存在した「赤線」は姿を消した。しかし、売春の需要が消滅したわけではなく、売春は地下に潜り、「トルコ風呂」(後のソープランド)デリバリーヘルス無店舗型の売春など、様々な形で存続することになった。これは、法が問題の根源(貧困、搾取の構造、男性側の需要など)を根本的に解決しきれなかったことを示している。


これらの文学作品や映画は、売春防止法が成立する前や間際において、日本の社会が売春という現象をどのように捉え、そこに生きる女性たちがどのような状況に置かれていたのかを多角的に示している。

  • 永井荷風は、美意識を通して、近代化の波に消えゆく私娼窟の風情を描き、そこに個人の自由な性愛の可能性を見出した。

  • 滝田ゆうは、市井の目線から、貧困の中で売春を「生活の糧」とした庶民の日常を温かくもリアルに描いた。

  • 溝口健二は、法成立直前の緊迫した状況を描き、売春という行為の必然性、そして法が女性たちに与える影響の複雑性を問いかけた。

そして、これらの作品群は、売春防止法が「女性を搾取から守る」という崇高な理念を持ちながらも、その抜け穴や社会構造の根深さゆえに、新たな問題を生み出し、売春という現象そのものが姿を変えて存続してきた日本の現実を浮き彫りにしていると言えるだろう。

付記:玉ノ井に住んでいた。

僕は、滝田ゆうの漫画に惹かれて、大学生の頃、玉の井の木賃アパートに住んでいたことがある。大家さんの奥さんは、漫画に出てくる主人公キヨシの母親と同じ髪型をしていたw

そのアパートには、大学の友人とそのフランス人の恋人も移り住んで来た。彼女は初代文部大臣の森有礼の孫でフランス文学者であった森有正にパリ大学で日本語を習ったことがあった女性だった。日本人は西欧の女性を見ると、全て英国人だと思うらしく、近所の酒屋の子供に英語を教えてアルバイト代を稼いでいた。後に友人の絵葉書がスウェーデンから届いた。「今、北欧を放浪している」と書いてあった。

下記は、恥ずかしながら、当時僕が創ったロック調の曲の歌詞である。

ぬけられます
ぬけられます
らりるれろ
ぬけられます
東武線玉の井
ぬけられます

浅草駅はうどんの匂い
隅田の鉄橋、ゴトンと越えりゃ
東明荘の便所は臭い

付記:動画・新旧の玉の井(浅草駅地下街の入口に立食いそば屋)

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