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映画評:光の木漏れ日、影の妄想〜『PERFECT DAYS』と『敵』を巡る断想


はじめに〜清々しさと後味の悪さ

映画『PERFECT DAYS』と映画『敵』。一方は公共トイレの清掃員として生きる男の静謐せいひつな日々を、もう一方は元大学仏文学教授が独り、タヒという「敵」を迎え撃つ凄絶な日常を描く。2本ともWOWOWで観たが、鑑賞後の感じは、前者は清々すがすがしかったのに比して、後者は実に後味の悪いものだった。

二つの映画に登場するキャストの人選は、僕の好みに合っていた。役所広司と長塚京三。日本映画界の至宝とも言える二人の名優が、それぞれ人生の黄昏時たそがれどきをどう歩むのか。その期待は僕を画面へと強く惹きつけたけれど、観了後に残ったのは、魂の救済と、救いようのない混濁という、あまりに峻烈なコントラストであった。

一見すると、この二つの作品は救済と絶望という対極に位置するように見える。しかし、どちらの主人公もまた、孤独の中で厳格な「規律」を課して生きているという点において、鏡合わせの存在である。僕は、この二作品が描き出す「生の在り方」を比較することで、人間がいかにしてタヒや孤独、そして人間関係のしがらみと対峙し得るのかを考察してみたい。

注記:僕の記憶の中には、映画『PERFECT DAYS』の主人公・平山が暮らす押上おしあげ曳舟ひきふね界隈の風景が、鮮やかな質感とともに息づいている。かつて、未だスカイツリーが聳えていなかった時代、別のnoteで旧玉の井のアパートに住んでいたことは言及した。その後、そこからさほど遠くない、墨田区の白鬚神社のすぐ隣にあった、銭湯が隣接する古アパートに引っ越して暮らしていたことがあった。日当たりが良くて、本棚を置けるより広いスペースが確保できたからだ。あまりに古びていて、かえって風情があったのか、写真雑誌『アサヒグラフ』で紹介されたこともあったアパート。朝、神社の掃除の音で目覚め、古い階段を降りていく感覚。あの場所で過ごした規律ある修行僧のような生活──間違いなく、僕の人生で一番本を読んだ──のディテールは、平山の日常と切実なまでに共鳴する。

映画に出てくる江東天祖神社の佇まいは規模感から言うと白鬚神社のそれとそっくりだ。

第一章:カセットテープと「木漏れ日」〜ヴェンダースの描く一期一会いちごいちえ

ヴィム・ヴェンダースはかつて『パリ、テキサス』などで、終わりのない移動の中に魂の漂流を描いてきた。しかし本作では、都会の片隅に留まることで、「木漏れ日(Komorebi)」というメタファーに象徴される一瞬の美学を提示した。

平山がオリンパスのアナログ・カメラで撮り続ける「木漏れ日」は、この映画の哲学を象徴している。揺れる葉の間から差し込む「一度きりの光」を意味するこの言葉通り、彼にとっての写真は記録ではなく、二度と同じ形をなさない瞬間への帰依きえである。ヴェンダースは、平山の所作を通じて、彼が築き上げた日常がいかに尊く、かつ危うい「今」の連続の上に成り立っているかを提示している。

ヴェンダース監督が描き出したのは、情報の氾濫から隔絶された、アナログで強固な「個」の領域である。主人公・平山にとって、通勤途中の車中で流すカセットテープの音楽は、外部のノイズを遮断し、自らの精神を一定のリズムに調整するための「聖域」の鍵である。

特筆すべきは、彼の静かな「趣味」と「音楽」の選択眼だ。通勤途中の軽ワゴンの中で流れるカセットテープの選曲が、また官能的なまでに素晴らしい。アニマルズの「House of the Rising Sun」、パティ・スミスの「Redondo Beach」、そしてルー・リードの「Perfect Day」。古いカセットから溢れ出すこれらの旋律が車内を満たすとき、そこには揺るぎない知性が漂う。このアナログな道具への執着こそが、彼が単なる労働者ではなく、独自の美意識を堅持する表現者であることを証明している。

You reap what you sow.

  • 「自分が蒔いた種は自分で刈り取る」という聖書由来の諺。行動の責任を強調する。

  • 仏教では「因果応報」。

注記:
アニマルズ「The House of the Rising Sun」(1964年)
ルー・リード「Pale Blue Eyes」(1965年リリースのアルバム『Words & Music, May 1965』収録)
オーティス・レディング「(Sittin‘ On)The Dock of the Bay(1968年リリースのアルバム『The Dock of the Bay』収録)
パティ・スミス「Redondo Beach」(1975年)
ザ・ローリング・ストーンズ「(Walkin’ Thru The)Sleepy City」(1968年)
金延幸子「青い魚」(1972年リリースのアルバム『み空』収録)
※金延幸子は女性シンガーソングライターの草分け的存在
・ルー・リード「PERFECT DAY」(1972年)
※本作のタイトルの由来となった
ザ・キンクス「Sunny Afternoon」(1966年)
浅川マキ「朝日のあたる家(朝日樓)」(1971年リリースのアルバム『MAKI II』収録)。
※アニマルズ「The House of the Rising Sun」を自ら手がけた日本語詩でカバー
・ヴァン・モリソン「Brown Eyed Girl」(1967年)
ニーナ・シモン「Feeling Good」(1965年)

もっとも、この静謐な物語が成立したのは、舞台がモダンな公衆トイレだったからという側面も大きい。

もしこれが現実の下層階級の劣悪な清掃現場であったなら、そこには清々しさではなく、目を背けたくなるような「嫌な感じ」が漂っていただろう。平山が見出す光は、洗練された都市の機能美というフィルター越しに透過された、一種の救済のメタファーなのだ。平山の生活には、いわゆる「老い」の陰気な気配は感じられない。そこにあるのは、永遠に更新され続ける生の瑞々みずみずしさである。

第二章:平山という不完全な修行者〜静謐をかき乱す者

ヴィム・ヴェンダース監督の『PERFECT DAYS』において、僕が平山という男に惹かれるのは、彼が「悟り」を完成させた聖者ではないからだ。彼は同僚の青年の無責任な辞職に伴う仕事の増加によって日々のルーティンを乱されれば、苛立ちを隠さず、派遣会社に声を荒げて文句を言う。この人間臭い「影」があるからこそ、彼の禁欲的な生活は、単なるポーズではない真実味を帯びる。

ここで特筆すべきは、平山の静謐をかき乱す青年タカシを演じた柄本時生えもと ときおだ。

ふしだらで思慮に欠ける若者の風貌と軽薄さを、そのまま体現する彼の存在感はいかにもいそうな現実感があった。兄の柄本佑がNHK大河ドラマで光源氏を演じるほどの二枚目へと成長したのに対し、醜男・三枚目を演じることに徹し、不器用な現代の若者の「影」として平山の「光」を際立たせる役者根性は称賛に値する。

第三章:人間関係というノイズと「敵」の正体〜煩悩

平山にとっての最大の「敵」は、タヒへの恐怖というよりも、むしろ平穏をかき乱す「人間関係というしがらみ」ではないか。突然仕事を辞めてしまう無責任な同僚や、過去を呼び戻す姪の来訪といった「ノイズ」は、彼が必タヒに保っている静寂を切り裂こうとする。しかし、周囲の役者が演じる泥臭い生のノイズが際立つほど、平山の規律はより神々しさを増していく。

浜崎洋介氏が指摘するように、平山の生活は道元禅師が説く「修証一致しゅうしょういっち」の体現である。トイレを磨き、苗木に水をやり、夜に一冊の文庫本をめくる。その行為そのものが煩悩を落とす悟りであり、そこには未来への不安や「タヒ」の影が驚くほど感じられない。

これと残酷な対比をなすのが、映画『敵』の主人公・儀助だ。彼が守る一軒家の日本家屋での規律は、元大学教授としての見栄と自意識に根ざしている。

筒井康隆の原作において、儀助が監視し続ける「敵」の正体とは、はっきりと「タヒ」である。儀助は知性でタヒをコントロールしようとあがき、教え子との性行為の妄想という煩悩に逃げ場を求める。平山がアナログ・カメラで一期一会の「光」を捉えるのに対し、儀助はパソコンの画面越しに迫りくる「タヒ」という敵に怯え、石鹸を並べて命乞いをする。規律という皮を被りながら、その内側はタヒへの恐怖で焼け付いているのだ。

第四章:境界線の「笑い泣き」〜Feeling Good

この二人の差を決定づけるのは、ラストシーンで見せる平山の表情である。

ニーナ・シモンの『Feeling Good』が流れる中、笑いながら泣き、泣きながら笑うあの複雑な表情。それは、過去のしがらみや孤独といった「苦」を抱えながらも、同時に「今、この光」の中に生きている歓喜が溢れ出したものではなかったか。タヒを「敵」として定義せず、人間関係の軋みさえも日常のリズムへと昇華させた者にしか出せない、究極の清々しさがそこにはあった。

第五章:儀助という偽善の檻〜滑稽でさえある

一方、吉田大八監督の『敵』が残す後味の悪さは、原作者・筒井康隆特有の悪意が純化した結果である。長塚京三演じる儀助の滑稽さは、知識人という皮を被った醜悪な本性にある。特に教え子の鷹司亜紀(河合優実)に対する妄想は、目を覆いたくなるほどだ。彼女に誘惑され、終電の時間を気にしながら性的関係を急ごうとする様は、あくまで彼の脳内で行われる醜態である。

平山がアナログカメラで空を切り取り、カセットの音楽を慈しむのに対し、儀助は自らの内に燃えたぎる性的煩悩という、逃れられぬ「影」に支配されている。彼が上辺で演じる賢者然とした態度は、その深い影を覆い隠すための脆弱な盾に過ぎない。この妄想の中の醜態こそが、偽善的な知識人の内面を無慈悲に露呈させてしまう。

おわりに〜誠実さという名の分岐点

僕が平山の生き方に共感し、そのラストシーンに極上の「清々しさ」を覚えるのは、彼が不完全な日常という「光と影」を丸ごと受け入れようとする誠実さを感じたからだ。ニーナ・シモンの「Feeling Good」に合わせ、朝の光を全身に浴びる彼の表情には、人生の悲哀を飲み込んだ上での肯定が宿っている。

一方、儀助の姿は、教養で武装しながら、結局は自らの欲望という「敵」に敗北し、暗い影の中に沈み込んでいく人間の浅ましさである。ヴェンダースが描いた、一瞬で消えゆくからこそ美しい「木漏れ日」の肯定。そして筒井康隆が突きつける、老いゆく知性の惨めな末路という「影」。

一方は曳舟の古アパートで「木漏れ日」のような一瞬を肯定し、もう一方は端正な日本家屋で「タヒ」に怯えた。不条理な現実に直面した際、自らの規律を「生の悟り」とするのか「タヒへの防御」とするのか。二つの作品の対比は、観る者に「どのように己の生を全うするか」という問いを、冷徹かつ容赦なく突きつけてくるのである。

AIに依頼して作成してもらった「一言紹介文
直球で対比を強調するパターン:
「魂を浄化する木漏れ日の光と、偽善を暴く煩悩の影。役所広司と長塚京三、二人の名優が演じる対極の『晩節』を読み解く。」

情緒的なフックを作るパターン:
「アナログカメラで空を撮る清掃員と、妄想に溺れる仏文学者。僕らが『PERFECT DAYS』の平山に共感し、『敵』の儀助に戦慄する理由。」

映画ファンに刺さるパターン:
「ヴェンダースの光と、筒井康隆の悪意。名優たちの役者根性を軸に、誠実に生きることの分岐点を描いた映画批評。」

短くキャッチーなパターン:
「カセットテープが鳴り響く平穏な日常か、醜悪な妄想が燃え上がる檻の中か。二つの映画が突きつける『いかに生きるか』という問い。」

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